信陽舎(7/8)

ダンス・ホール

  「私は、ジルバの曲に合わせて、軽やかにステップを踏んでいた」、と言ったら、 たいそうきざな奴だと撮られてしまいそうである。 それはダンス・ホールでアルバイトをした時の出来事である。

  そこは信陽舎のある武蔵境駅から、一つ東京よりに行った三鷹と言う駅の近くにあった。 今もあるかどうかは、分からない。たしか北口から歩いて五、六分行ったところにあった。

  恐らく、私が入寮する以前から信陽舎宛に求人依頼が来ていて、 必要に応じてアルバイト学生のクローク係りを募集していた。

  なぜか聞いたためしはなっかったが、とにかく朝方に電話がかかってきては、 「必要だから来て欲しい」とのことであった。

 ちなみに公衆電話にかかってきたその伝言を受けると、 誰かしら大急ぎで暇な寮生に聞いてまわり、責任を持って対応していた。

  非常に真面目で信頼に足りた。

  でなければ電話でのバイト募集もとっくの昔に消滅していたに違いない。 口頭だけのやり取りではあったが、立派に信頼関係が出来ていた。

   寮側にバイト番が居たわけではないが、そのような対応システムが、 言い伝えで長い間には出来上がっていた。  幾世代にも亘って、先輩達が信用を得てきたのであろう。

  ちなみに、このバイトは二つの仕事の部分から成り立っていた。 夕刻の6時から10時までのクローク係。それ以前、5時からのビラ捲きからである。 ダンスホール付近の街頭でビラ捲きをして、宣伝すること。そしてホールでは、 客のクローク係をするというのが、このバイトの面白い側面であった。

 一人の仕事であったと思われるが、いつの日にか二人で対応するに及んだと考えられる。 仕事の性質上ビラ捲きの方が短時間で出来るし、簡単であったが、前述のように引っ込み思案で、 その上はにかみやであった私にはなにやら、恥ずかしさや格好の悪さなどの感じが伴ってしまい、 なかなか選択する事が出来なかった。

  従ってこのバイトに限っては後者のクローク係を引き受けることになった。

  ホールを一望出来るところにクローク・ルームがあり、 その日は三、四時間も客達の踊っているところを身近に「鑑賞する」事となった。

 明かりを最大に絞ったホールではミラーボールがまわり、 音楽がスロー・テンポからクイックなジルバなどに変わると、その夜は最高潮に達していった。

   ただ、このクローク・ルームの内側は何の変化のありようもなかった。 ホール自身のにぎやかで派手な、そんな雰囲気とは裏腹に、 クローク係りとしては開場時から一定のペースを保っていたが、時折靴のすれる音、 規則正しいステップ音、奇声、手拍子音などが複雑に絡み合って耳元に飛び込んできた。

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