現在の医学(など)のあり方についての疑問
「医師会の力は強い。」周辺にいる人はほぼ皆実感したことがあるのではないかと思います。「人を助けるの
だからいいじゃないか。」…そうですね。
では、一体医師が「人を助ける」とはどういうことなのでしょうか?
病気の人を治す。
不治の病が治るように研究する。
病気の予防指導をする。
医学に関わる政を行う。
1については言わずもがな、風邪を引いた時、熱が出た時、怪我をした時、腫瘍ができた時…枚挙すればキリ
がありません。臨床医さんです。2については基礎研究があります。自己免疫疾患、遺伝子疾患、悪性腫瘍、新
興感染症など先天性であれ後天性であれ、難治性疾患の治療のため、多くの動物実験が行われます。3は最も大
切なことだと私は思うのですが、実際には予防医学というものは医学会では比重が高くありません。4について
は、厚生労働省や保健所長など医師免許を取得した者でないとその役職に就けないものがたくさんあります。そ
して、その機能は医師会を通じて「人を助ける職業 医師」の地位を不動のものにしています。まあ、人間社会
では当然のことでしょう。
さて、話は変わりますが、恥ずかしながら私は以前本当に死んでしまいたいと思ったことがあります。その頃
私は人生、社会に絶望し、「こんな辛い思いをしてまでどうして生きなければならないのか?」と毎日明けても
暮れても死ぬことばかり考えていました。それでも母の顔を思い出しては結局実行せずに終わりました。妹を一
人赤ん坊の時に病気で亡くしているのですが、私が自らの命を絶てば、母は自分がお腹を痛めて生み、必死で育
ててきた娘のうち、二人に先立たれ、自分の子供のお葬式を二度も出さなければならないことになるのです。そ
んな残酷な思いは絶対にしてはならない。母のためだけに私の人生があるわけではないが、母の人生をどん底に
落とす権利は私にはないはずだ。死にたければ、母が天寿を全うした後でもいいではないか。…私をあの時、救
ってくれたのは母でした。
「死にたい。」と思った時に考えたことがもう一つあります。もし死にきれなかった場合、私は「死にたい。」
という自分の意に反して病院に搬送され緊急延命措置などあらゆる医学的手法を駆使して助けられ、その後は精
神科で「死にたい。」という気持ちがなくなるまで心の投薬治療を受けたかも知れません。その時、私は動物実
験で確立された、あるいは安全が証明された医療や薬剤を使って生かされるわけです。「死にたい。」などと思
わなかったのに犠牲にされてしまった実験動物、そこまでしてどうして「死にたい。」と思っている私を助ける
のか?そんな馬鹿な!これほど矛盾したことが他にあるだろうか?何のための医療なのか?どうして人はそこま
でして生きなければいけないのだろう?…今は「自分は生きているのではなく、生かされているのだ。どんな命
も生きている意味も価値もある。」と気が付きました。そう思うまでに至る道のりはまた別のところで書くとし
ます。勿論、難病のために幼い頃から健常人が味わう幸せを知らない人たちが、医学の進歩を望み、そのために
日夜基礎研究に真摯に取り組んでいる人がいることも忘れてはいけません。
人間、医学によって身体さえ生かしておけば良いというものではありません。高度化した社会の中で生きる意
味を考える暇もないほど追い立てられ、追い詰められて自らの命を絶つ人は「弱かった。」のでしょうか?能率
良さ、処世術のうまさだけが重宝がられる現代において、人間社会も弱肉強食であり、自殺も自然死の一種であ
るという考え方があります。人間が必要としているのが、速くて強い人間だけであるのならば、その中では「弱
い人間」とされてしまうものが死んでしまっても仕方がないでしょう。しかし、「強い人間」だけが選別され生
き残った社会というものは、果たして人口はどのくらいになっているのでしょうか?そして、その「強い人間た
ち」が築いてきた高度な文明や技術は、使う人間がいなくなればそれすら意味のないものになってしまうことを
もっと「強い人間たち」は認識すべきです。人間は強きも弱きも支え合って生きています。スローな生き方をす
る人間を認められる社会、一度失敗しても更生を支持する社会、身体や精神の能力が一部機能しなくても他の機
能を利用して社会に参加できるような社会、年齢や男女を問わずその特性を認め取り入れられる社会が発展性の
ある社会ではないでしょうか?そして最後に、人間だけでなく自然や動物の存在についても粗末にし、失えば人
間の生活にも支障があることを忘れず、利権目当てだけの、あるいは飽食を支えるためだけの開発や犠牲は今か
ら止めていかないと、自分たちの子孫に影響が出ますよ、タヌキ親父様。
“はかり”にかけるべきこと
動物実験の是非について語られる時、しばしば「動物の命」×「人の命」が“はかり”に掛けられます。「動
物の命と人間の命、どちらが重いか?」という議論が行われるのです。現在、もしも多数決で決めるのなら「人
の命の方が重いに決まっている。」という人が多いのでしょうか。あるいは「決められない。」とその天秤を釣
り合わせる人も大勢いることでしょう。小さい頃からひどい目に遭い、人間嫌いな人は迷わず「動物の命」を選
択するかも知れません。倫理的に見た場合、「動物の命」と「人の命」は釣り合うはずです。誰も命の重さに優
劣をつけられないだろうからです。しかし、動物実験を考えた場合、それが実際に行われているわけですから、
社会的には現在「人の命」に重きが置かれていることになります。「人間社会」であることを考えれば、当然の
結果であると思われます。しかし、例えば冬眠から覚めたばかりの熊の場合、しばしば人が襲われますが、彼ら
にとってはこれから自分たちが生き、その子供たちを育てるために、自分たち“クマ”の命の方が重く“人間”
の命など他の獲物である野ウサギやシカほど軽いのでしょう。視点が違えば、命の重さに上がる軍配も異なる。
しかし、やはり「人間社会」であることを考えると、多勢は人間の命の方に重きを置き、その視点でもって“良
し”として動物実験が行われているわけです。
しかし、“はかり”にかけるべきことは「動物の命」×「人の命」だけでしょうか?それらしか“はかり”に
かけないこと自体が根本的な過ちであるように思えてなりません。「研究者や医者の功名心」×「患者を救う使
命感」はどうでしょうか?あるいは「知的好奇心」×「倫理観」は?「救命により寿命を延ばすこと」×「その
後の苦しみ」、そして「医学」×「その他の要素」は“はかり”に掛けられて議論されたことがあるでしょうか?
私は「動物の命」×「人の命」以外の比較がほとんどなされていないように思います。
研究者や臨床医の中には「患者を救うのだ。」ということを大義名分の盾にして、実は自分の功名心の方が大
きかったりすることはないでしょうか?厚生労働省により病院経営や医療に関するシステムが変えられ、「○○
の手術を何回しないと評価が下がってしまう。」という危機感が、「患者を治すのだ。」という第一最大の目標
を抑えて大きくなってしまった時、その医者の心の中で「功名心」が「患者を救う使命感」よりも重くなってし
まっていると言えるのではないでしょうか?もちろん、技術を磨いて名を上げ、それを聞いた患者がその先生に
救いを求めて寄ってきたり、他の医者が「よし、私ももっと頑張ろう。」と励みにしたりすることも予想すれば、
功名心が全く悪い心であるとは思いません。しかし、常に自分の心の中で「今、自分は自分の功名心と患者を救
う使命感とどちらが重くなっているか?」と絶えず自問自答することは必要だと思います。動物実験を行ってい
る医学その他の研究者はどうでしょうか?その研究が「患者を救う使命感」ではなく「己の功名心」のためのも
のならば、本当に他の命を奪ってまでする必要があるのか問われるべきだと思います。
医学以外の研究の場合、その実験は何のために行われているのでしょうか?多くは「知的好奇心」を満たすた
めではないでしょうか?「知的好奇心」ばかり大きくなってしまった研究者は「倫理観」が二の次三の次、ある
いは全く考えていないことが多いように見受けます。「何のためにこの人は実験しているのだろうか?」そう問
うてみたとき、自分が行っている研究の社会的意義を明確に語れる研究者がどれくらいいるのでしょうか?研究
者が多忙であることも問題なのかも知れませんが、意義を見失って漫然とした気持ちで日々のルーチンワークを
こなしている研究者も多くいます。
「救命により寿命を延ばすこと」×「その後の苦しみ」という天秤はどうでしょうか?上記に私は本気で死に
たいと思ったことがある旨書きましたが、その時、もし本当に自らの命を絶つことを実行して万が一未遂に終わ
った場合、私は医術を駆使して助けられたことになり、医者は「最善を尽くして人命を救助した」ことになりま
す。「助かった。よかった。これからは馬鹿なことを考えず頑張って生きろよ。」と満足げに励まされて病院を
出されるのでしょう。しかし、生きる意味を見失った者が命だけを救われても、それは心臓を止まらないように
動かし、肉体を生かし続けるということが行われただけに過ぎません。それはとても機械的で無機的な事象でし
かないのです。「人はパンのみに生きるにあらず」(新約聖書マタイによる福音書第四章第4節)という言葉が
ありますが、まさにそれであろうと思います。「人は肉体だけ生かしておけばよい。」というものではありませ
ん。どうして生きるのか?なぜ生まれてきたのか?自分は何者なのか?これらが混沌と分からないと常に人は不
安であり、生きた屍となることでしょう。そして、それらを教えるのは医学ではなく、道徳、倫理、教育、宗教、
哲学、歴史、科学など豊かな社会でありましょう。しかし、今の日本はそのような「パン」以外のものがとても
乏しい社会になっている。これでは医学だけ発達しても仕方がないのではないでしょうか?寧ろ、医学も含め、
さまざまな表面的、一部のことに社会が偏重された結果、歪んだことが起こっているのではないでしょうか?こ
れまで重視されてこなかったことに“はかり”が少しでも傾かない限り、医学の発展を大義名分にして動物実験
を行い続けていっても、それらの実験は「無駄ではないか?」と思われても仕方がないだろうと思います。
「医学」×「その他の要素」の天秤はどうでしょうか?「医学」が「患者を治す」という行為には、そこに
「正常な身体」というスタンダードが前提となっています。「疾病」とは「スタンダードな状態でないヒトの状
態」をいうのです。もちろん、生まれつき難病で苦しむ人たちが「普通の生活を送りたい。」と願うことは本当
に切実な思いでしょうし、人生の途中で事故や疾病により障害を被った人たちが「元の身体に戻りたい。」と願
うことは「良き頃」を知っていて比較してしまうだけに更に辛いかも知れません。治って「普通の身体」になれ
たらどんなにいいことか。でも、待って下さい。「普通の身体」とは誰が決めたのでしょうか?そこからして社
会全体の価値観が間違っているのではないでしょうか?さまざまな障害を持っている人たちが書く自伝的な本が
数多くありますが、そのような本の中に共通して載っている多くのことは「生まれてきてよかった。」という実
感です。社会の大多数の人が持っている「普通の身体」とは違う肉体であるかも知れないけれども、彼らの声は
幸せに満ちあふれており、そして生まれてきたこと、その他さまざまなことへの感謝の気持ちで満ち溢れている
ことに本当に驚かされることがあります。そして彼らは決して「普通の身体に生まれてきたかった。」と結んで
はいません。「この身体でありがとう。見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになった。」と言
います。そうです。何も標準的な身体でなければいけないこと、かわいそうなことではないのです。そう思うこ
とが既にそうでない人たちを蔑んでいることになるのではないでしょうか?医学がそのような横柄な考えの中に
あると気付いた時、それはとても恐ろしく、医学という大切な学問がそのような考えの中にあってはいけないと
思うのです。そのような考えの中に医学があること自体それは、次第にさまざまな差別に自然と結びつかせる原
因となっているのではないでしょうか?
「豊かさ」とは何でしょうか?長く生きるだけが人生の豊かさではないだろうと思います。
近頃、生命倫理が議論になっていますが、人は一つの命を作れるほど偉いものなのでしょうか?そして、作っ
た後の起こりうる不幸について考えられたことはあるのでしょうか?どのような命でも、自分が医学の発展の恩
恵により生まれてきたと知った時、後に「私はどうして生まれてきたのか?顕微鏡の下でか。何のために?」と
己のアイデンティティの確立に苦しむのではないでしょうか。作った後の不幸を予防する手段も講じずに、ただ
作るだけなのは無責任だと思います。一方で普通の手段で生まれてきたのに、乳児院や養護施設で「どうして自
分は生まれてきたのか?生まれてきて良かったのか?」と生きる意味を見いだせずに迷い苦悩している小さな既
存の命もあります。既にあるそのような命でさえ救えない社会が、どうして更に医学の発展という大義名分の下
に、次々と命を生み出す新しい方法を開発することができるのでしょうか?今ある命すら大切にできないような
社会が、新しい命を生み出すのは、生きる辛さを味わったことのない恵まれた人たちのただの功名心や自己満足
ではないでしょうか。
やはり、医学についても特別扱いするのではなく、例外なく倫理的な規制が必要だと思います。私は医学の発
展自体を否定しているわけではありません。ただ、医学など一部の分野に偏重し、一部の人たちを無邪気に苦し
める一元論的な社会の進化に納得できず、疑問を持つことを禁じえないのです。