汽笛一声
カントリーやブルーグラスを聴いているとよく汽車をモチーフにした歌に出くわす。開拓時代の象徴なのか、カントリーロックの時代となっても有名なところとしてDoobie
Bros.のLong Train Runnin'のブルースハープやギターシャッフルとかEaglesのMidnight
Flyerでのハーモニーなんかが音も意味合いもアメリカの汽車を上手く表現している。日本の場合歌の中の汽車というとどうも演歌や歌謡曲の中での“別れの小道具”的な、どちらかと言えば後ろ向きのイメージがつきまとう。そうは言っても蒸気機関車の出す音には洋の東西を問わず感情移入を促す何かがあるのだろう。
ところがこれが電車となると“警笛”という言葉をはじめ、音にもそんなほのぼのとしたと言うか暖かみを微塵も感じなくなる。まあ蒸気機関車にしたところでやれ煤だ火の粉だといい思い出のない人も多分いるわけで、自分にとっての電車の警笛もそれに近いものがある。乗り物好きとしては“汽笛”を過剰に美化してしまうが、こと電車の警笛にはどうもとげとげしさを感じてしまうのは何故だろう、と、とりとめのないことを考えてみる。
思い返すとひと頃までは首都圏でも電車の発車時には警笛がつきものだった。会社や電車の種類によって、また運転士によって音や鳴らし方まで様々で、未だかつてのままなら録音や研究の対象にする人も出てきたかも知れない。ここまでは微笑ましいが、その当時郊外電車の駅には跨線橋が少なく、上下線の移動は専らホーム端の構内踏切を渡って、というパターンが大半であった。無事発車前に渡り切れれば良いが、遮断機が下がり電車のホーンの半径数メートル以内に入ってしまうと、これは恐ろしい。耳を塞ぎたいが格好悪いし、かといって逃げ場はない、というこの恐怖は突然景気良く一発鳴らされた者でないと解らない。
思うに汽笛は腹を揺さぶるが、突然の警笛は心臓と頭蓋骨を直撃する。いつの頃からか申し合わせたように鳴らさなくなったが、その分今は突然の一撃に肝を冷やすことが多い。
ところで警笛は何のためにあるか、を考えてみる。古き良きアメリカなら牛や馬を追い散らすためだったかもしれないし、日本なら人や車が対象だろう。飛行機の場合は警笛は必要無い(意味が無い)し、高速道路もみんなが法規とマナーを遵守していれば基本的には必要が無くなる。
ところが鉄道の場合、例えば京浜急行なんかは総重量300d位の鉄の塊が120q/hで“どけどけ”と言いながら軒先を走っているわけで考えてみれば恐ろしい。相手が人間だから遮断機が有効だが(たまに有効でない人もいる)、牛馬が人間並みの密度でいたらそうは行かないだろう。その意味で鉄道というシステムは飛行機や車に比べ地球環境には優しいかもしれないが、ある種狭義の地域環境にはあまり良くない。高架線とホームドアが完全に普及すれば警笛の必要も薄れてくるだろうし、車もガイドレーンでの縦列走行システムが実用化されれば警笛は合図の一部に過ぎなくなろう。
鉄道唱歌の「汽笛一声」はこの先の世でも聴き歌い継がれるだろうが、鉄道自体は過疎地では衰退を続け都心や郊外では地下や高架化が進み警笛の必要は更に薄れて行く筈だ。最近は警笛も電子音を合成したものが増えてきて耳には優しくなったし、この先警笛の概念を根本から覆す新たな仕掛けが生まれる可能性も否定できない。
あるカーフェリーは出航のドラをテープで流すし、電話においては“ベル”が死語となり“着メロ”に取って代わったように、今世紀も後半辺りになれば我等が子孫は汽笛や警笛の存在自体が理解できず、車掌の笛と運転士の警笛を合図に電車がのろのろとモーターを唸らせて走り出す、といった光景を大層時代がかったコミカルなものと捉えるようになるかもしれない。それは我々がTDLのジョリートレインを見ているようなものだろう。