萩山
新宿線がまだ今ほどの本数もなく、拝島・多摩湖行は殆ど西武新宿からの4連で来てここで2両づつに分かれて行った72年頃は、朝夕はともかく日中は2連のオンパレードでバラエティーに富んでいた。
多摩湖線の国分寺口も401系は消えてしまったが、後釜には371系で3連を組むという“奇襲戦法”を繰り出し、趣味的にはそれなりに面白かった。
20m車は本線筋で手一杯だったのかもしれないが、その後中間車を残し両端を351系に入れ換えて平成の世まで生き延びたのには恐れ入った。
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拝島・多摩湖行きの解結作業中のクモハ451とクハ1471。この頃451系は新宿線においては701系に次ぐ主力で2,4,6連とバラエティ豊かだった。 ここ萩山に限らず、当時の首都圏ではどこかしらの駅で一日中増解結作業をやっていた。 限られた車両と設備と人海戦術で輸送力を維持していたのだろうと思う。 |
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駅南側の団地の建築工事が始まった頃。 あんなに大きな団地になるとは、当時は全く想像できなかった。左側に停めてある自転車が自分達が乗ってきたものではなかったかと思う。 余談だが、この頃の写真を見ると日曜の朝、トランジスタラジオでいつも聴いていたベスト10番組が耳に甦る。T−REXやYESなどの“グラムロック”や“プログレ”が時代の音であった。 |
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後ろの西武新宿行きもそうだが、この頃の萩山はまさに“釣掛天国”と言える状況で、801系なんかは“女王の風格”さえ漂っていた。 101系はまだ萩山はおろか新宿線にも入っていなかったが、国分寺線にはこの頃既に入線しており、国分寺の中央線ホームから見ると正面上は371、その下は西武101、並んで国電101、後ろは下河原線クモハ40と結構賑やかであった。 これは西武初の3連を自転車飛ばして見に行ったときのもの。前に友人の頭が写り込んでいるのはご愛敬である。 |