《登 山 の コ ー ナ ー》
それは姿を変えたガンとの闘いとして始まった
登山については《山岳巡礼》もご覧下さい
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(3)登山へのきっかけと単独行 |
登山へのきっかけ 50歳直前、かなり進行した直腸ガンを手術。人工肛門による身体障害者となってしまった。 それまで一途に打ち込み、ライフワークとして楽しんでいたジョギング、マラソンはもう諦めざるを得なかった。 一日、1週間、ひと月、何とか生き延びているというだけの日を送っていた。何の目的もなく「生きている」というだけが目的のような、不甲斐ない過ごし方であった。ふと「ただ命を永らえているだけでどれだけの値打ちがあるのだろうか、大事に大事に、まるでガラス細工のような生き方に、いったいどんな意味があるのだろうか」そんな疑問に襲われ、居たたまれない日もあった。「生命の質」について語られる機会の多い昨今、私にもその問いかけの意味が良く分かった。 術後満1年、危険期間のハードルを乗り越えながら、体力は徐々に回復しつつあった。 そして1年半が過ぎたある日。新聞の記事に目が止まった。浩宮殿下(当時)が日本百名山を登っているという記事だった。勤務先を抜け出し、日比谷図書館を訪れると、深田久弥著「日本百名山」を探し出すことができた。 山名を追って行くと、私が登ったことのある山がいくつかあったが、初めて聞く山の方がずっと多かった。それは北海道から九州まで全国に散らばっていた。しかしよく見ると、東京基点で日帰り、または前夜発で登れそうなものもかなりあるようだ。 そう、入院中に次男から届けられた槍ケ岳の写真に添えられていたメモのことを思い出した。「病気が治ったら、また月光に照らされた槍ケ岳を見に行こうよ」の言葉を。深夜、超満員で寝苦しい北穂高小屋を抜け出して、テラスから煌煌と月に照らされる槍ケ岳を、二人で明け方まで眺めていたことがあった。あれは手術半年前の夏のことだった。当時マラソンの筋力トレーニングの一環として、ときどきは山を歩いていた。 腐った魚か、生きた屍のような生活から抜け出したい、そんな思いと呼号するように、気持ちは日本百名山にぐいぐいと引き込まれて行った。マラソンはだめでも、無理さえしなければ、山登りだったら何とかやれそうに思われた。医師に相談すると、無理しなければいいとの許可も下りた。 体力回復を自覚しはじめた時期と重なり、無意識のうちに汗を流して打ち込めるもの、この肉体が生きていることを実感できるもの、生きた証の命を燃焼できるもの、そうした対象を求めていたのです。 ついこの間までは、月間300キロを超えるジョギングを消化し、躍動する命がきらめていた。わずか1年そこそこでこの変りようはどうだ。「今出来る間に何かをしたい、何でもいい。いつ尽きるかも知れない命。生きた証を残したい」そんな思いは押さえようもなく高まって行った。こうして「登山」がその後の私の人生に大きくかかわってくることとなったのです。 単独行のわけ 登山に関しては素人である上に、ハンディがあるからこそグループで登った方が安心と言えますが、実は単独行で通して来たのにはそれなりのわけがありました。 人工肛門のところで詳しく書きますが、私の登山にはこのハンディが大きく立ちはだかっていました。 排便をコントロール出来ないというのは、考える以上に大きな制約を強いられます。のんびりと歩いて来ることは出来ないのです。 「いっ時でも早く歩き終わって帰宅し、便の処理をしなければ」という意識が強く働いてしまいます。 幸いにも、フルマラソンをはじめ、ジョギングで鍛えた脚力と心肺機能は、1年半を過ぎてもかなり高いレベルを保っていました。グループで歩くより、脚力に任せて一人ハイペースで歩いた方が、ずっと効率的でした。 また冬山、ロッククライミング等の高度な登山は私の範疇外であり、せいぜい好天の中での残雪登山くらいでしたから、危険を犯すようなことはほとんどしません。経験と見よう見まねで山歩きのコツを体得して行きました。 そうした理由から私の登山は「単独行」というスタイルが定着したいったのです。 つづく |
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