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2000年1月1日、
最後に残った
金剛山を登頂して
日本三百名山完登を
果たすことができました |
49歳(1986年)のとき、かなり進行した直腸癌が見つかり手術、そして人工肛門の体になりました。
癌細胞はリンパ節にも及び、医師からは1年先はわからないという厳しい状況。 加えて人工肛門という忌まわしいハンディ。 死の恐怖と背中合わの日々に生きる希望も失い、挫折感に打ちのめされた私でしたが、生きがいとしての登山を見つけて、これを支えに、ほぼ3年で日本100名山を完登しました。
【日本百名山のあと】
日本百名山への挑戦は、私にとっては「姿を変えた癌との戦い」でした。
しかし一つ一つ登って行くうちに、登山の持つ魅力が次第に私の気持ちをとらえ、「戦い」から「楽しみ」へと変わっていきました。
日本百名山を完登したとき「ついに克った」、もうこれからはシャカリキになって登ることは止めよう、気が向いたらハイキングにでも出かければいい。 そんな思いが1ヵ月もすると、山へ向かって高まるばかりです。
しばらくは関東近県の山などを登っていましたが、「日本300名山」というものがあることを知り、日本山岳会からリストを取り寄せてみました。そのとき完登した人はまだ数人しかいないという話を聞きました。名前さえ知らい名山も多く、全山登り切ることなど到底考えられません。
【どうせ登るなら良い山を】
日本300名山は登山界の先人たちが、全国くまなく登った中から「良い山」、「登り甲斐のある山」として選んだ山です。
私のように50歳を過ぎてから登山に取り組んだ素人にとって、山へ登れる年月はそんなに長くはない、どうせ登るならできるだけ登り甲斐のある山、登って良かったと思える山を登っておきたい。 そう考えると、全部は登れないにしても、この300名山の中から選んで登るのは、山の選定方法としてはたいへん都合の良いことではないか。そう考えました。
300名山だけに集中したわけではありませんが、次第に300名山登頂数が増えて行きました。
300名山には、既に完登した日本百名山がすべて含まれていますから残りは200座ということです。
【日本300名山へ】
1年たつと約30座ほど登っていました。
簡単に登れる山もありますが、中には登山道のない山、私の力量では無理と思える山もかなりあります。 いずれにしても全部登り切ると言う考えはまだありませんでした。
それと私の場合単独行が建前です。(妻同伴は単独行としています) パーティーを組めば比較的安全、楽に登れるケースもあると思いますが、単独行を通すとなると雪上幕営等で荷物の負担やリスクが大きくなります。そんなことを考えると全山踏破は困難というよりほとんど不可能なことだったのです。
もう一つ大きな問題がありました。登山道がない、あるいはポピュラーな山ではないために、ガイドブック等の資料やデータが見つからない山が幾つもあることでした。
【困難な山】
長野・新潟県境に佐武流山(さぶりゅうやま)という標高2192メートルの山があります。登山道はありません。成算もないままに真夏に挑戦してみました。
藪刈り用に鎌を片手にして入山しました。 猛烈な笹薮の中を手探りで進むようなありさまです。
野営を考えていましたが、途中で飲料水切れになってしまいました。現在地も確かなことはわかりません。
野営も不可能となり、引き返しましたが、この帰りも大変です。笹海の底を泳いでいるようなもの、視界はゼロ、感とコンパスが頼りです。果たしてうまく戻ることができるのか、
必死でした。ところどころ赤布を残したのですが、一つとして確認できません。ちゃんと戻れているのか不安が一層募ります。
疲労困憊、水が欲しいが一滴も残っていません。
それでも何とか登山道のある白砂山ピークまで帰り着きました。水場まではここから何回かアップダウンしながらの長い下りで、かなりの距離があります。
足が動きません。少し歩いては休み、また少し歩く。初期の脱水症状に陥っていたのです。既に日は落ちて暗闇が迫っていました。
水場まで来た時にはすでに真の闇でした。牛馬のように水を飲み、ツエルトを張ってぼろ雑布のようになった体を投げ出しました。
深夜寒さに寝ることができず、ツエルトをたたんで、懐中電灯を頼りに登山口へと下って行きました。寒さの点でも稜線では到底野営は無理でした。途中引き返して良かったと思います。翌年のゴールデンウイーク残雪期、雪上一泊の幕営で、それほど苦労せずに登頂を果たせました。
当初難しいと思っていた山はこのほかに
カムイエクウチカウシ(北海道) 神威岳(北海道) 男鹿岳(栃木・福島)
景鶴山(新潟・群馬) 鋸岳(南アルプス) 池口岳(長野)
大無間山(静岡) 焼山(新潟) 毛勝山(富山) 笈ケ岳(石川・岐阜)
猿ケ馬場山(岐阜) 野伏ケ岳(福井) などがありました。
登頂資料等も手に入らず、単独行は無理かと思っていましたが、 こうした佐武流山の経験を境に、単独行の私でもやりかたによっては登れない山はないのではないか、そう思うようになっていったのです。
【300名山完登実現へ】
気持にも変化が生じてきました。何とか300名山を完登したい。一時はどこか山岳会にでも入れてもらい、仲間と一緒に登ろうかという安易な気持ちにもなりました。しかしすべて単独行で実現できたら完登の値打ちは増すだろう。そう思うようになっていきました。
案じていた難しい山も、何とか単独で一つ、また一つとクリア、次第に先の見通しが立ってきました。
ただ負担感が大きかったのは勿論難しい山を登るためのノウハウを身に着けること。もう一つの問題は経済的負担と時間のやりくりでした。
ごく普通のサラリーマンにとっては、北海道から九州まで全国をまたにかけての登山は並大抵のことではありません。
日本100名山も合わせて北海道には26座ありますが、冬が長いために登れる適期もごくわずか。そこで北海道は夏休みと決めていました。マイカーに野営道具を積み込み、往復日数も入れて約10日間、妻も同行し、キャンプ場を転々としながら1山1山登って歩きました。洗腸はテントの中で行いました。
勤めの方も完全週休2日制が実現し、土日が使えるようになったことで、同方向の山は1回で2座登頂も可能となり、時間的にも費用の面でもずいぶん効率的になったのはラッキーでした。
それでも人工肛門のため、排便処理のことを考えると出来るだ早く帰宅したいと言う思いは強く、かなり無理をした歩きかたもしていました。たとえば毛勝山を登ったときは、深夜マイカーで東京の自宅を出て片道約500キロを一人で運転、標高差1600メートルの雪渓をアイゼンで登頂、下山後休む間もなくそのまま自宅へ向かい、深夜帰宅というようなこととか、それに似たことを何回もしてきました。
【最後の山】
日本百名山を3年で踏破してから、さらにそのあと8年かけて合計299座となったのが1998年12月でした。
その頃私は東京から奈良へ転居。最後の300山目を我が家付近からも見える「金剛山」と決めて登らずに取っておきました。
待ちに待った初孫が生まれました。最後の山は金剛山に決めているが、どんなタイミングで300名山踏破を締めくくろうか。二つの選択肢を考えました。
・ 一つは孫を背負って一緒に登るということ
・ もう一つは2000年1月1日、ムレニアムの日
結局選んだのは2000年の元旦でした。299座登頂から1年余が過ぎていました。
日本百名山のときは最後の山を飯豊山(福島・新潟)として妻、長男と2泊の縦走、思い出深い素晴らしい山行となったのですが、この300名山最後の金剛山はこれまでの単独行を象徴するように、一人ひっそりと登頂しました。
ミレニアム2000と騒がれた2000年1月1日、未明に出発して登った山頂ですが、そこには神社、寺院もありますし、山頂近くまでロープウエイもあります。まるで麓の社寺と間違えるような多くの人々が初詣に集まり、山頂と言う雰囲気とはほど遠いものでした。この雰囲気では、300名山完登という私にとって生涯最大の事業をなし遂げた瞬間、予想していた感激とは程遠いものでした。最後の山として選んだことは大きな失敗でした。
思えば、残り1年生きられるのか2年生きられるのか、そんなせっぱ詰まった中、人工肛門というハンディを背負ってまさか単独で300名山を踏破できるとは思ってもいませんでした。
300名山だけを登っていたわけではありませんから、この間に登った山の数はその何倍にもなります。
そして300名山より素晴らしいと思う山は、他にもたくさんありましたが、これで一つの区切りはつきました。残りの人生においても、2度とないであろう大事業を成し遂げた充足感に浸っています。
金剛山から帰宅後、来宅していた孫の雪(11ヵ月)一家ともども完登を祝っての元旦の屠蘇の味も格別でした。
そして、心配しながらも、ときにがむしゃらな私の登山を、大目に見てくれていた家族に感謝し、一人だけの勝手な趣味のために家計にも大きな負担を強いたことを申し訳なく思っています。
一段落して300の山のリストを見ていると、その一山一山の思い出が、その光景が鮮明に蘇り、映像のように目に浮かんできます。「人工肛門のハンデイを背負いながら、しかも人の手は借りずによくも一人で登りおおせた」そんな気持ちを抱きながらこの完登の記を綴りました。
2000.1.11記 −平− |