朝まで生テレビ(98-02-27) 戻る
0.はじめに
翌日、朝早く福井へ出張(職リハミニセミナー)が入っていたが、中学生達のナイフ事件や問題行動が、頻発している時期でもあり、「少年達は何故キレる?」というテーマを新聞で見て、これは見るしかないと、翌日の不安を抱えながら見てしまった。出演者に、宮台真司がいたので、さらに引き込まれて見てしまった。
以下、いくつかの論点について、雑感を記す。
1.田原総一朗の司会は、まずかった
田原氏の政治家に対する切り込み方は、日本のキャスターの中で、際だって光っていると日頃は評価している。今回の司会においては、いつものように一般的な司会者の領分を逸脱したスタンスで、「それは違う」と切り込んできた。しかし、結果的には、議論を切り刻んで、論点を変えてしまうという愚を犯していた。田原が「それは違う」と感情的に叫んだ時、ジェネレーションギャップを感じた。子供達のおかれている状況をほとんど認識していない親父世代の代表のように映った。通常の時間枠ではなく、一つの論点について、じっくりと議論する事ができるのが「朝まで生テレビ」の特徴であったはずが、視聴者に刺激を与え続ける為に、ずばずばと画面を細切れにする、ある主のテレビ独特の手法の弊害が出ていた。もう少し、一人一人のパネリストに語らせながら、論点を浮き彫りにする、という事をして欲しかったと思う。
自分が道化を演じながら、論点を浮き彫りにする「田原的切り込み方」を意図的に行ったとしたら、今回の激論は、その意図は全く成功していない。
2.導入〜メディア悪玉論 .vs. メディア代理満足
テレビ、テレビゲームが、血、痛みを伴わない、暴力のシミュレーションを繰り返す事で、感覚が麻痺する。メディアの視聴により、粗暴性が高まるという「メディア悪玉論」は、統計的に裏付けられていない。
かつてテレビは、1家に1台。チャンネルも少しだった。だからこそテレビは、求心力を持ち得た。家庭でのコミュニケーションの材料になった。今は、テレビが1人に1台。多チャンネル化が進み、共通のテレビ番組を持たないので、コミュニケーションするべき共通の話題を、テレビは提供しないメディアになった。また、メディアには、「代理満足を得る」という効果もある。
メディアそのものが問題ではなく、メディアがどういう状況でどういう関係性で、見られるかという事が問題であり、単純な「メディア悪玉論」は、事の本質を捉えていない。
3.荒れる学校から論点を整理する
(1)「同調圧力」による不安の解消 → 入試全廃(宮台)
(2)増長する中学生。(わがまま) → 管理教育の強化?(長谷川教諭)
(3)新しい子供達、新しい大人が登場した → 学校教育の変革を(藤井)
(4)学校現場の情報公開を促進し、地域で問題解決を
(5)先生の社会的地位が下がった。
(6)黒磯の事件は、特殊な事件ではない。何処でも、起こりうるものではないか?
4.処方箋について
「現状」「背景」「処方箋」を分けて、議論しましょう。(宮台)
(1)脱社会性
現状は、子供達が変わったとの認識が必要。共感FAXは、榊原の声明文に対する共感をしている。かつて、「反社会性」を示していた。最近の一部には、全く「社会性」を持ち合わせない人種が現れてきている。
他人とのコミュニケーションで、自尊心が形成、承認の感覚を持てない。自尊心を社会と無関係なスタンスを持つ人種?が生まれて来ている。東大生を例に出して、ほめる世間がない現代日本において、唯一、社会に役立とうが、いきる根拠になりうると。
自分が自分である事に、社会との関係を必要としなくなってきた。サブカルチャーからの智恵の披露…漫画家が連載をする時は、「90年代は理由なき暴力」がはやった時代。漫画家の言葉で、「理解不能な暴力は、理解される(読者に受け入れられる)」という現象が顕著になってきた。
(2)中学生を見くびりすぎている。(ルポライター藤井)
対処療法では、困難。中学生達の「発言する力」を、学校の中で認めて行かないと、問題解決にならない。家庭も地域社会も変わったのに、学校が変わっていない。
(3)背景
人を承認出来ない社会。共同体の空洞化により、所属による承認がなくなった。
数学者のピーター・フランクル曰く、「フランスでは、学校に通っている。住んでいるのは家」「日本では、学校で暮らしている」。学校が全人格的に住む場所になっている現状が可笑しいとの感覚を持たなければならないだろう。
(4)夢がなくなった。
立身出世が目標となり得たのは、それを誉める世間があったから。東大生は、社会の為に働きたい」という学生が、他大学の5倍いる。それは、「世間からの承認」を求めている裏返しである。今は、「最小限の安全パイを掴もう」という志向が高まっている。子供達のチャレンジ精神が、衰退している。
(5)学校は、心を通わせられないメカニズム(藤井)
教師と子供の利害関係を薄くする。評価権をなくす。
(6)忙し過ぎる学校生活
土曜日が休みになった分、教科時間数が減っていないので、平日に組み込まれて、忙しくなっている。減らせるところは、部活。(フランクル)
(7)学警連携(学校と警察)
警察が入るのは、結構だと思う。子供を検挙する為ではなく、社会のルールを逸脱する行為に対して、警察の抑止力を使うのである。その意味で、人権侵害も甚だしい教師も、検挙されるべきである。
学校で対処できない問題は、警察を入れればよい。教師も生徒も、逮捕できる環境が必要。
(8)親や学校の先生に、熱心さを求めてはいけない。
学校の先生の努力に期待するのと、メカニズムを変えるのと、どちらが現実的か?
<パターンA>教師が熱心にコミュニケーションを図る努力をして、いじめを減らす。
<パターンB>授業の選択制、ホームペース(隠れ家)が持てるような、空間設計。
毎時間、毎時間が選択。
「親」と「教師」と「地域住民」が、連携して、学校を変えていこう。
(9)評価権〜内申書
欧米では、評価をしないスタッフも入れるべき。
(10)体罰と退学
日本の学校における体罰は、暴発的暴力。「保護者の了解。第3者の立ち会いを求める。平手を使うこと」と定義している国もある。体罰を防ぐためには、体罰を規定する必要がある。
ルールを作って、退学も容認すべきである。
学校で
緊急避難的な持ち物検査は必要。
「持ち物検査」
自己責任原則。自己決定。大人の鋳型に、子供の自由な試行錯誤をさせない為に、子供に人権を持たせなかった。子供に対する見方を変えなければならない。
現役中学校教師には、その対極にいる人も、結構いたので、先行きが不安になった。私は、親として、そんな学校に、子供を預けたくはない。「学校は、(自分の意志で)通うところ」としたい。それは即ち、自分の意志で、「通わなくてもよい」と選択してもよい事を意味する。
子供は、大人社会の鏡である。との認識が、全く欠落しており、締め付ければよいのだ、とする現役中学校教師には、あきれるばかりである。
4.所持品検査について
所持品検査は、安部譲二が言うように全く有効性は、ないと思う。検査の時だけ隠す方法が、うまくなるだけである。しかしながら、学校独自の判断と責任において、実施するのは、いっこうに構わないと私は思う。所持品検査の目的、狙い、意義等を、ちゃんと生徒に説明し、うちの学校はこのようなルールで運営している社会である。この社会を守る為に、所持品検査が必要であると判断した、と高らかに宣言した上での事である。つまり、所持品検査によって、生じた軋轢等の責任を、実施者側が全責任を負う「自己責任原則」を貫く場合に限る。私は、所持品検査の実効性はあがらないと思っているが、「自己責任原則」を示す事が、教育的有用性はあると考える。文部大臣が「所持品検査もやむなし」と言いましたという類の、責任転嫁型の所持品検査は、学内ストレスを高めるだけだろう。
所持品検査の実効性は、限りなく0に近いし、プライバシーの侵害や学校内のストレス要因をまた一つ増やすという弊害もあるってことが、見え見えなのにも関わらず、「やる」って事は、「私たち教師は本当に智恵がないのでございます。」と、自分の弱さを暴露する事に繋がるはずだ。大人が教師が、自分の「弱さ」を認める事から、中学生との対話が始まる、と思う。所持品検査は、一種の「敗北宣言」なのだが、「自分の弱さを認める」という立場に立って、問題解決への第一歩を踏み出すつもりならば、やってよいと思います。
7.おわりに
やはり、今回も宮台氏の言論が最も光っていたが、その他のメンバーとしては、ルポライターの「藤井誠二」、小説家の安部譲二等が本質をついた議論をしていたと、私は思う。
今回の宮台は、髪も黒く、服装も地味で、発言も冷静沈着に進めようと努力していた。メディア戦略を変えてきたのかな?と感じた。今後も、宮台の言動は、要チェックである。
デジタル下町宣言/1998年(平成10年)3月6日初出/5月5日更新
父38才、母29才、息子3才5ヶ月の[子供の日]に手を入れた
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長谷川…