1998年6月14日投稿 戻る
1998年6月8日(月)の朝…いつもと違う。いつもの疲れ方と違う。何か変だ。吐き気がする。頭が痛い。いつものように、仕事の疲れが取れず、憂鬱な出勤という程度のものではない。仕事の事を真剣に考えようとすると、心臓の動機が激しくなるのだ。いつものように車で出勤するものの、職場が近づくにつれ、心臓が苦しくなる。いつもなら、今日の仕事の段取りを頭の中で回想するのだが、この日は極力仕事の事を忘れるよう努めて、なんとか駐車場までたどり着いた。
これって、「出社拒否症」? もしかしたら、精神の病の前駆症状ではないのか?と直感した。それは、身震いするほど恐ろしい瞬間であった。これが高じると、どうなってしまうのだろう。これから自分の身に何かが起きようとしている。こういうのを「予期不安」というのだろうな。そして、その瞬間2つの選択肢が頭をよぎったのである。
一つは、行くところまで行ってしまうという選択肢だ。精神障害と言えば、ドーパミン等の脳内神経伝達物質の代謝異常に起因する先天性のものがある。器質的な欠陥が、精神疾患を引き起こすのは、私の頭の中では了解しやすい。もう一方、ストレスが原因となる後天的なものもあるが、これのメカニズムについて、自分なりの解釈が成立していない。今回はそれを知るいいチャンスかも知れない。「精神の病」の領域へ、自ら踏み出してしまいたい、という欲求が頭をもたげた。それが結果的にいい人生経験となるのではないか?とつい思ってしまうのだ。
もう一つの選択肢は、とにかく休養を取って、こちらの世界に踏みとどまる方法である。やはり、あちらの世界に行ってしまった後、こちらの世界に戻れる保障はないという恐怖は計り知れない。
結局、私は、後者の(仕事をセーブしながら、なんとか精神の平衡を保つ)方法を選択した。最終的に決断できたのは、私には、守るべき家族(妻一人子一人)があったからである。私があちらの世界に行ってしまったら、家庭崩壊に直結する。それだけは、避けなければならない。
6月8日(月)〜12日(金)の1週間、惰性で仕事をしてみた。今まで休みなく、トップギアで走り続け、時にはオーバードライブでエンジンをフル回転させていたが、この1週間は、セカンドギアで、エンジンブレーキをかけながら、の安全走行を試みた。当然、仕事の能率は落ちている。しかし、それでもそれなりに仕事は淡々とさばけて行ったので、休んでしまうよりは、処理できたと思う。
納期のある仕事も抱えているが、取りあえず、先送りし、納期を意識しないように努めた。今、無理するとよくない。とにかく、精神をコントロールする事が先決だ。この間、家の用事も、意識的に避けた。何に対しても、感情の高ぶりを押さえた。その為に、考える事自体を避けた。何があっても、右の耳から左の耳、そんな1週間が過ぎた。
1週間でなんとか、最悪の事態は脱したと感じたので、この文章を書いている。まだ、文章の論理構造がおかしくなっていないから、思考回路への影響はないようだ。文章がすらすら出る。この1週間について、冷静に振り返ることができる。取りあえず、一安心だ。私の場合、このように文章にする事、つまり、内面の思いを外部化する事で、少し気が楽になる。これも、精神のリハビリテーションアプローチの一つなんだろう。
6月12日(金)夜、プラザにて、精神障害者小規模作業所のA所長と、職リハ学会活動についての打ち合わせを済ませた後、カウンセリングを受けた。やはり、仕事人間の典型的な前駆症状であると、確認された。
「自分を過信しては行けない。論理的に物事をつめて行っても答えがでない事がある。それが人間だ。今は、自覚できているからよいが、症状が進むと、無自覚に逃避するようになる。例えば、仕事中、自分では意識せずに寝てしまうようになったら、本格的に危ない。」等の一般的なアドバイスを受ける。いずれにしても、数分でも話を聞いてもらっただけで、気が楽になった。
6月13日(土)朝、妻に今の状態を説明しようとするが、うまく伝わらない。ちょっと口論になりかけ、精神が高ぶったのでまずいと思い、リハセンに出社して仕事をする事にした。明らかな逃避行動だ。しかし、精神の平安を取り戻す為に必要な逃避であると思う。土曜日は、誰にもじゃまされずに、静かに仕事ができる。ゆったりとした気分で仕事ができた。仕事のストレスで精神が病んでいるとすれば、仕事を通して、リハビリテーションするのが、根本的な解決に繋がるだろう。特に、私の場合は。
この1週間は、仕事をセーブし、心の平安を保つ事のみに腐心した。しかし、いつまでも、惰性で仕事は回らない。処理できない仕事は溜まっていくばかりである。いずれ、再び、現実に直面せざるを得ない。次の1週間は、心の平安を保ちつつも、仕事が回る仕組み/スタンスのきっかけを、見つけなければならない。
思えば、大学を卒業して、富山県の高志(こし)リハビリテーション病院に就職してから、トップギアで走り続けてきた。完全投入!とか、SuperConcentrationというのが、自分のキャッチフレーズだった。
平成2年に名古屋に移り、職リハという得体の知れない世界に、どっぷりと、さらに深みにはまった。気がついたら、もうリハビリテーションの世界で10年の歳月が流れたんだ。
平成9年3月〜4月、青天の霹靂の人事異動に見舞われた。サービスの質を落とすな!を命題に、1年間走り続けた。なんとかしのいだかなと思い、今年は体制固めの年にしたいと思っているまもなく、人事異動第2派に、見舞われた。さすがに、2年連続の人事異動は、つらい。ここ1〜2年は、ギターを弾く事もほとんどなくなった。物理的時間もないが、結局、心の余裕がないのだ。
出社拒否症候群の症状が出現した直接のきっかけはあったのだろうか。5月末は、TIC福祉応用専門委員会の原稿書きがあった。業務時間中に時間が確保できないので、深夜の執筆活動が続く。6月1日に、原稿提出してほっとしたと思ったら。職リハ学会大会への発表論文の投稿の仕上げ。さらに、職リハ学会情報化検討委員会報告書印刷の版下出しが、6月6日(土)に予定されているので、5日(金)までに、版下を完成させなければならない。横浜の加瀬先生の原稿をEメールで入手し、金曜日の夕方に、大曽根委員長の原稿を最後に、入稿した。いつも、ぎりぎりだ。6月6日(土)には、職リハ学会の総会がある。1998年度の事業計画を検討するのだが、準備ができていない。それどころか、自分が、中部ブロックの事務局長の役割を振られて、責任だけはあるのだ。
このように、5月末〜6月の第1週は、慢性的に疲労が溜まっているところへ、納期のある仕事が集中したのは、事実であったようだ。しかし、このような事は、私の日常では特別な事ではないと思う。このような状況でも、淡々と仕事をこなしていけるような仕組みを見つけなければならないだろう。
今回の経験は、日頃から薄々感じていた事を、強制的につきつけられた結果と言える。新しい「職業観」を持たねばならないのではないか。価値転換とともに、新しい「ライフスタイル」を見つけなければならないのではないか。それが何かは、まだ分からない。ただし、新しい段階へのスタートである事だけは、確かである。もう、後戻りはできない。
自分としては、こうして「独白」する事で、終結宣言をしたつもりだ。今のところは、自覚的に精神状態をコントロールできているから、よいのだが、もし、私の反応がおかしくなった時は、無自覚な逃避傾向が現れた時は、危険信号である。そんな時は、是非助けて下さい。>妻よ、子よ、隣人よ。
デジタル下町宣言へ投稿/1998年(平成10年)6月14日
父38才、母39才、息子3才5ヶ月/書き下ろし