加藤家の子育て指針 自己決定・自己責任原則を確立せよ

 〜よき事が自明でない成熟社会を生き抜く「知恵」と「技術」を醸成しよう〜

●事の発端と問題提起

(1)3歳までは

 母が病弱であり、子育ての負担は大きい。父は、教育には人一倍関心のある方だが、業務多忙を極めているので、家庭を顧みる物理的時間が限られている。保育園の送迎、風呂に入れる、掃除機をかける程度の家事分担しかできていないのが現状。そこで、祖母に保育園の迎えや、洗濯等の家事手伝いをお願いしている。幸い、息子は、名前負けすることなく、たくましい元気な子どもに育った。ここまではなんとか、母、父、祖母が、それぞれできる範囲の家事を分担しつつ、「子育てプログラム」に破綻を来すことなく、よくやってきたと思う。

(2)3歳を過ぎてから

 息子は、3歳を過ぎた辺りから、自分でできる事も増えてきて、自己主張するようになった。逆に、親の言うとおりにはなかなかならない。息子が勝手な事をするとその分、母の負担は増える。結果として、母の怒る回数が増えた。母の体調の悪い時は、いらいらして、つい感情的になってしまう事もあり、それがあまり続くと、息子は萎縮し母の顔色をうかがうようになり、母は怒ることで疲れてしまうという悪循環に陥る。

(3)保育園では

 息子は、保育園では、「食事中も自分の事はほっておいて、人の世話を焼きたがり、結局、人よりも食べるのが遅くなる」とのこと。母は、「自分が食べてから人の事をしなさい」としかり、「他の人に迷惑をかけないように」しつけないと、小学校にあがった時に、いじめの対象になってしまうのではないかと恐れ、つい、「集団行動からはずれないように」だけが、価値基準になってしまう。父は、「乳児期の3年間を総括すると、みんな協力してよくやってきた」と、現状を肯定している。また、父は直感的に、「保育園で、一人食べるのが遅いことは、決して悪いことではない」「自分の事をそっちのけで、人の世話を焼きたがる事は、とてもよい事ではないのか?」と、感じている。

(4)教育は無力かも知れない

 母と父の感じ方の違いは、もしかしたら、現代日本の教育が抱える問題と通底する本質が隠れているような気がする。善良な市民が、子どもの為に、よかれと思ってやっている事が、実は、子どもをダメにする構造を内包している事に、多くの人が気づいていないのではないか。加藤家においても、誰しもが陥りやすい一般的な過ち(学校幻想、事なかれ主義?)を犯しているのではないか、との疑念が生まれた。

(5)教育方針のすりあわせが必要

 保育園から戻り祖母も家に帰った後、父が仕事から帰るまでの時間、母対息子の1対1の緊張関係が続き、母に過度の負担がかかっている。加藤家は、仕事、子育て、健康管理、介護等、ぎりぎりのバランスで生活が成り立っている。母がダウンすると、加藤家全体がたちゆかなくなる。母と父の役割分担を、再考する必要に迫られた。加藤家の教育方針を考えるにあたり、家庭教育と、学校教育と、社会とは、密接に繋がっていると自覚し、社会的背景も含めて、検討する事としたい。子どもに幸せになって欲しいと願う時、子どもの生きる社会がよき社会であって欲しいと願い行動しなければ、その願いは実現しないと確信するからである。

●現代社会の様相と、その対策

1.よき事が自明でない社会に我々は生きている。

 かつては、「世間」というものがあり、社会全体で共有できる規範が存在した。よき事は、自明であった。だから、親や教師の言うことは、恣意的だとは受け取られなかった。世間が解体し、価値観が多様化し、よき事が自明でなくなると、親や教師の言うことは、恣意性の方に近づいて行かざるを得ない。

 教室は、今一触即発の状況にある。理由の分からない暴力は人の心を傷つけ、ストレスを高める。教師に理由無き暴力をふるわれたやつが、そのはけ口に、自分よりさらに弱いやつ理由無き暴力を奮うとう暴力の連鎖が起きているのが、今日の現状である。

※恣意的…その時々の気ままな思いつき、自分勝手な考え、物事の関係が偶然的であること

2.自己決定能力を養成する教育プログラムを確立しよう

(1)自己決定と自己責任の領域の浸食を許すな!

  家庭は、社会を構成する最小単位である。違う人間同士が社会を構成し、多様な価値観を認め合いながら共存する為には、一定のルールが必要となる。社会の構成員である個人の自己決定能力のレベルと、社会との関係から、3つの領域に分けて考えてみた。

領域 定義 結果責任を負うのは誰か?
禁止の領域 社会や家庭のルールからの過剰な逸脱行為がある場合は、そのコミュニティを守る為に、逸脱行為の禁止措置が優先せざるを得ない。社会/家庭が、「刑罰」という逸脱行為を抑制する強制力を持つ領域。自己決定と言っても、「人に迷惑をかけても、自分さえよければよい」論理は、通用しない。 刑罰を与える社会も親も、痛みを伴う。本人(行為の主体者)は、刑罰を甘受せざるを得ない。
自己決定と自己責任の領域(大人扱い) 個人の自由意志で行動してよい領域。 本人。よい結果も悪い結果も、その行動を選択した本人が責任を負う。
保護の領域(子ども扱い) 全面的な自己決定能力がない、責任能力がない、と見なされている領域。乳児期等の生物的な根拠のある場合、少年法のように、社会的保護の対象の議論の分かれる場合がある。 保護者が全責任を負う

 親や教師は、うっかりすると保護の領域・禁止の領域を拡大しようとする。「自己決定と自己責任の領域」を浸食するな。この領域をできるだけ確保する事が、生活力のある子どもを育てるのである。保護・禁止のレベルは、必要最小限に留める勇気が必要である。

 「保護の領域」から「自己決定と自己責任の領域」へと階段を登る時期は、一般的には、子どものパラダイスから出て大人の共同体へ参入する「思春期前期」にあたる。伝統的な共同体では、例外なく「通過儀礼」というものを行う。

(2)価値観は伝達されるものではなく、学ばれるものである。説教ではなく、自分で学べる環境づくりを

 親や兄弟の背中を見て、育つもの。一般的に、「次男坊は世渡り上手」と言われるのは、長男と親の関係を見ながら成長し、自然と対処法を学んで行くからである。教え込むという意味の教育は、無力である以上に、悪影響を及ぼす。「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言われるように、タテマエと現実が乖離したままの過剰な教育は、害ですらある。かえって何も手を出さない方がましである。但し、学べる環境づくりへの努力を惜しまない事は、親として当然の事である。ここでは、親の理想型としての鋳型へはめ込む事を、避けよ!と強調しておきたい。

(3)成功を願う親から、失敗を願う親へ / 安全を願う親から、危険を願う親へ

 子供時代に、どれだけ「失敗」するか、どれだけ「危険」と遭遇するか。また、失敗から何を学んだか、危険を回避する方法を学んだか。その経験が、将来、よき事が自明でない社会で自立して生きていく術につながるのである。小さい時にそれらの経験を積まずに、判断力や欲求のコントロール力が養成されていない状態で、ただでさえストレスの多い「思春期前期」を迎えるのは、問題である。97年〜98年初頭に多発している、暴発する中学生の事件から、そろそろその問題の本質を学ぶ必要がある。

(3)専業主婦&子育てが生きがい、からの脱却

 「親がどんなにいい人であっても、子どもと接触する時間がある程度以上になるとダメだ」と宮台は言うが、私も同感である。成熟した社会では、母親、特に専業主婦が子どものために生きることは、問題を引き起こしやすい。うっかりすると、もう自明でなくなった「よきこと」を子どもに押しつけてしまいがちである。

→「子どもの為に生きること」の優先順位を下げて、仕事を持ちましょう。趣味を持ちましょう。自分の為に、生きましょう。

●加藤家の現状と課題

1.加藤家の特殊事情とその対策

(1)兄弟がいない。

 親兄弟の背中を見て育つ、という、父の理想からすると、両親と息子の3人家族という構造は、余り望ましい事ではない。兄弟喧嘩から、学ぶという事ができない。その分、「保育園」で対人関係を学ぶ事を期待している。その意味では、あたかも兄弟喧嘩のように、仲良くなったが故の喧嘩が、保育園内で認められるような雰囲気/環境が欲しいところである。

(2)母が病弱である。

 逆に、息子に自立心が芽生えるので、教育的観点からはよい事である。

2.父からの提案

(1)よき事が自明でない社会で生きる術を、一緒に磨いていこう

 「よき事が自明でない社会」に、我々は生きている。その社会で、豊かに生きる術もまた、自明でない。答えは誰も持っていない。生きる術は、試行錯誤の中で、見いだし育んで行かねばならない。3人を核として、隣人達とも、一緒にね。

(2)母の場合

 現状は、「子どもの為に生きる」エネルギーが過剰だと思われるので、「自分の為に生きる」と宣言した上で、子育て/妻業から、もっと手を抜いた方がよいのではないか。また、体調の悪い時は、意図的に、息子への介入を避ける。平たく言えば、「ほっておく」ということ。教育的観点で指導をしているつもりが、イライラが高じたり、押しつけになってしまう危険性がつきまとうので。

(3)父の場合

 現状は、「家族の為に生きる」時間が不足しているので、「家族時間を確保する」優先順位を上げ、残された時間を仕事などの自分の時間に活用するよう、生活スタイルを修正すべきである。

(4)息子の場合

 3歳というのは、「三つ子の魂百までも」のたとえどおり、大変重要な時期であり、自我も芽生えてくるので、自己責任原則を基本にした、教育プログラムの導入を試みてもよいだろう。

3.当面の具体的プログラム

(1)加藤家のルールは、ローカルルールとの前提に立ち、だからこそ厳格に守らせる

 息子を取り巻く、加藤家、祖父母宅、保育園、地域社会、世間という多層な社会は、価値観もルールも違っている可能性がある=よき事は自明でない、という前提に立つ。加藤家においては、保育園のルールを過剰に持ち込む必要はないし、祖父母宅のルールと加藤家のルールを完全に一致させる必要もない。加藤家のルールを教えながら、他の社会では、別のローカルルールがあるかも知れないよ、という事をも、教育していく。人間社会の共通のルールは、自分で学び取って行かねばならない事も教える義務がある。いや、親子共々、試行錯誤の中で、学び取る努力をしなければならない。その意味で、家族という共同体を構成している必然性がある。

(2)本人に選択させる

 加藤家の風呂場には、「固形石鹸」と「液状石鹸」の両方がある。父は息子の洗体をする歳に、息子に、石鹸を選択させる。息子は、「どれにしようかな。神様の言うとおり」などと、その日の気分によって、選んでいる。本人に選ぶ能力がある場面では、できるだけ本人に選択させるようにする。

(3)遊び方に、口出しをするな

 遊んでよい時間、遊んでよい空間、おもちゃを提供した後は、本人の自主性に任せればよい。一緒に遊ぶところまではよいが、社会の仕組みを学ばせようと思う余り、遊び方を細かく指導する必要はない。逆に、大人の理解を超えた遊び方を発見する能力を高く評価し、創造性を育むべきである。但し、器物破損や人を傷つける可能性の高い遊び方をしている場合は、戒める。これは、禁止の領域への介入。

(4)子どもの自己決定・自己責任原則を確立せよ。

 「日曜日の朝6時30分に出発する支度ができていれば、父と一緒に公園で遊べる」というルールがあるが、本人が、ぐずぐずしていると、「公園に行く」という楽しみがなくなってしまう。朝寝坊を取るか、楽しみを取るかは、本人の選択である。親としては、おいしい餌をちらつかせながら、親がよきことと思う習慣を身につけさせようとしているのだが、最終的には、本人の自己決定に任せるという覚悟が必要となる。

 

[参考文献]

・宮台真司 「透明な存在の不透明な悪意」(1997.11)
・宮台真司 「世紀末の作法〜終わりなき日常を生きる知恵」(1997.8)


デジタル下町宣言/1998年(平成10年)2月8日

父37才、母38才、息子3才/書き下ろし


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