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第一話 落人への道
武田家第二十代当主、武田勝頼は、僅か四十人程の供を連れて細い山道を登っていた。
ついこの間まで甲、信、駿、それに遠江と上野の一部、計百三十万石を領した大大名は、馬にも乗れずにただひたすら歩いていた。
勝頼の後ろには、正室佐代姫と、側室の美和、お福が続いていた。皆一様に虚ろな視線を地面に落としながら、ただひたすら歩いていた。
既に目的地など無かった。
二週間前に美濃と遠江から織田軍、徳川軍が準備万端侵攻してきた。それに呼応して信濃の木曽義昌と駿河の重臣穴山梅雪が謀反を起こした。西の国境を守る両将が裏切ったことは勝頼と家臣団は元より、甲斐と信濃の民にも大きな衝撃を与えた。甲斐と信濃は勝頼の父信玄が統一して以来ほとんど戦場となったことがなかった。信濃は一度織田信長自らに攻め込まれたことがあったが、木曽衆得意の山岳戦で撃退していたし、本拠地甲斐は四十年以上も全く敵の侵入が無かった。
両将の裏切りに、勝頼は怒りよりも驚きを感じた。特に武田家とは代々濃い血縁関係にある穴山梅雪が武田を裏切るとは到底信じられないことであったし、信じたくもなかった。
しかし彼は武田家三万の総帥である。自らの領地と民を守る義務がある。自分の領地に攻め込んでくる敵がいる以上、あれこれと考えている暇は無かった。勝頼は直ちに武田信豊に福島城を落として城主の木曽義昌を討つよう命じると、翌日には自ら一万の軍を集めて諏訪平に布陣した。
そこへ丁度木曽近くの飯田城からの報告が入った。木曽口から攻め込んでくる織田軍はおよそ五千人で、大将は織田信長の嫡男信忠であるとのことだった。それを聞いた勝頼は、すぐに全軍を木曽へ向けて出発させた。
勝頼はこの時はまだ充分撃退できると思っていた。数で勝るだけでなく敵大将が織田信忠であれば絶対に負けない自信さえあった。実際織田信忠は武田軍相手に目立った戦果を上げたことはなく、ただ若いだけが取り柄の猪武者と言えた。だから先発させた武田信豊の軍と合流して一気に織田軍をたたくことはさほど難しいことではないと思われたのだ。
だが、志気高く進軍を開始して間もなく、その志気をうち砕くように傷だらけで敗走してくる武田信豊隊の姿が見えた。
勝頼より一日早く出発した武田信豊の軍三千は勝頼の命令に従い、木曽の福島城を目指したが、城の手前の鳥居峠に差し掛かった時、既にそこには織田の大軍が待ち受けていた。
出発前に木曽に近い飯田城へ問い合わせた際、織田軍はまだ美濃の苗木城付近にいるとの報告だったため、信豊はここに既に敵がいるなどとは露程も思わず、物見による前方偵察を怠っていたのだ。実はその時既に飯田城は調略により織田の軍門に下っており、偽りの報告をしていたのだった。
その結果、信豊の軍は狭い峠で周りを完全に囲まれることになり、なすすべもなくその半数を失って敗走したのだ。
「申し訳ございませぬ・・・」
呆然とした表情で平伏する信豊を、勝頼は冷たい視線で見下ろすと、黙って床几から立ち上がり、右手で軍配を振り上げた。敵が既に鳥居峠にいるとなると一刻の猶予もない。直ちに全力で敵を叩かねばならなかった。
丁度その時、側近の長坂長閑斎が青ざめた顔で勝頼のところへ来ると跪いた。ただならぬ長閑斎の様子に勝頼は一旦床几に座り直して報告を聞くことにした。
「申し上げます。飯田城、神崎城は既に敵の手に落ちてございます。また大島城の武田逍遥軒様は城を放棄され甲斐に向かっておられるとのことです。」
「な、なんだと!」 勝頼は思わず立ち上がったが、それ以上言葉が続かずがっくりと頭を垂れた。
飯田城、神崎城、大島城を失うということは南信濃が既に敵の手に落ちたも同然だった。勝頼は全軍に一旦、本城である甲斐の新府城へ帰る旨伝えた。
それを聞いた武田軍の将兵の間に動揺が走った。さっき傷だらけで敗走してきた武田信豊隊を見ていたところに、突然甲斐へ戻るとの勝頼の命令である。彼らは勝頼が信濃を放棄したのだと思った。そしてどこからか、南信濃の主立った城が既に落ち、織田の大軍が押し寄せてくるとの噂が波紋のように広がり始めた。
既に織田軍の間者が、武田軍本隊にも紛れ込んでいた。
総大将の勝頼にしてみれば、今の状況でこれ以上西へ進軍すると退路を断たれてしまう恐れがあったので、一旦甲斐へ退き、その後で押し返すつもりであったのだが、配下の将兵、特に信濃衆には勝頼が信濃を見捨てたのだと映っていた。信濃衆は勝頼から見捨てられた以上、勝頼の為に命を捨てる価値はないと考えた。
甲斐へと向きを変えて進発した武田軍の後ろの方で、一人、二人と逃亡する兵が出始めた。その数は徐々に増えていき、本来逃亡を止めるべき組頭などの将卒までもが逃げ出す有様であった。諏訪を過ぎ、甲斐の国境が近づいた時には既に四千人以上の兵が逃亡していた。逃げた兵の殆どが信濃衆だったが、甲斐へ入ると、本拠地甲斐の兵までもが逃亡を始めた。
ようやく新府城へ到着した時には僅か二千人、勝頼の旗本衆が残っているだけだった。
そして間もなく入った報告によって更に旗本衆までもが逃亡し始めた。その報告とは駿河より徳川家康の大軍が攻め寄せて来たとの内容だった。
勝頼は新府城を後にすることにした。戦いたくても守る兵がいなくては話にならない。行き先は相模との国境近くに建つ岩殿城であった。勝頼の正室佐代姫は相模北条家当主、北条氏政の妹だった。岩殿城へ立て籠もり、北条の援助を受ける以外武田家を生かす道は無いと判断したのだ。
だが、岩殿城城主小山田信茂にも既に織田の調略の手が回っていた。岩殿城の城門は固く閉ざされ、勝頼の一行を受け入れるどころか鉄砲を撃ちかけてきた。
これで甲斐国内に勝頼の居場所はなくなった。
あとは北条氏政を頼って相模に落ち延びる以外生きる道はなかったが、既に相模へ通じる道という道には柵が設けられ、岩殿城の城兵が守りを固めていた。
もはや勝頼に出来ることは、死所を何処にするか決めるだけだった。
勝頼は最後まで忠義を貫いて着いてきてくれた僅かな家臣や妻らと共に天目山へと入って行った。
勝頼ら一行は道なき道を登っていた。勝頼をはじめ、皆の表情には一様に絶望と諦めの色が窺える。正室佐代姫やその侍女たち等はすすり泣きながら歩いている。そんな彼らとは対照的に山はとても穏やかだった。空は、よく晴れ渡っていた。
その時、突然一行の行く手を遮るように周囲にもやがかかってきた。やがてそれはあっという間に一間先も見えない程に一行を包み込んだ。
「あれほど晴れ渡っていたというのに・・・」
このもやの中、山道をこれ以上進むことは無理だった。勝頼は一行にしばしの休息を命じた。そして側近の跡部勝資に、この近くに開けた場所がないか探すよう指示したが、ふいに目眩を覚えてよろよろと近くの石に腰を下ろしてしまった。
勝頼は、突然自分の体を襲った変調は単に疲れからくるもので、しばらく休めば回復するであろうと軽く考えていたのだが、彼の体の変調は良くなるどころか、だんだんと体中の力が抜けてきた。
そしてすぐに座ってすらいられなくなり、ついには意識を失ってその場に倒れた。
「お館様!」
側にいた佐代姫が驚き、慌てて駆け寄ろうとしたが、彼女も同じ様に膝から崩れるように勝頼の側に倒れると意識を失ってしまった。
勝頼と佐代姫だけでなく、一行は次々と倒れ、やがて全員が意識を失ってその場に倒れ込んだ。
いや、そんな中で、ただ一人だけ立っている者がいた。
それは勝頼の側室美和の方だった。彼女は何か黒っぽい手拭いのような物を口にあてている。美和はゆっくりと、倒れている勝頼の方へと歩いて行った。
辺りに立ちこめていたもやは、徐々に薄れ始めていた。
第二話 沈みゆく太陽
美和は倒れている勝頼の側に座ると、勝頼の頭を自分の膝に抱き寄せて愛おしげに勝頼の顔を見つめていた。
いつの間にか辺りのもやは完全に消え去り、木々の間から音もなく黒い忍び服をまとった男達が出て来た。全部で五人いる。
美和がその気配に気付いてふっと表情がきびしくなる。だが視線はそのまま勝頼の方に向けていた。
五人の忍が静かに美和と勝頼の周りに集まってくる。
その五人のうち、最も年配の忍が美和の背後に膝をついて小声で言った。
「織田の先方隊およそ五百が迫っています。もはや時間がありませぬ。」
「何、もう来たのか?」美和が眉間に皺を寄せる。
「ここにいる四十余名全てを助けることは無理です。」
「何人まで助けられる?」
「美和様、やはり勝頼様はおろか、お父上の五平様の命令も無しにこのような勝手な振る舞いは許されませぬ。既に甲斐と信濃の奥深くまで敵が入り込んでいる以上、もはや武田は滅びる以外ありません。それで勝頼様が助かることを望まれるとは思えません」
「黙りなさい!・・・それ以上言わないで六郎、そんな事は分かっています。ただ私は・・私は・・・」
美和はその先の言葉を飲み込むと、うつむいて目をつぶった。その顔は苦悩でゆがんでいた。
美和は勝頼の側室であったが、それは表面上の事で、実際には奥の間で勝頼を守るために派遣された忍びであった。 勝頼の父信玄も同じ目的で忍びの心得がある側室を持っていたが、彼女らは忍びの心得があるだけの、通常の側室であった。だが美和は十六才で勝頼の元へ来て以来、綺麗な着物を着てはいるものの、あくまでも一忍びに過ぎなかった。勝頼自身も、美和を側室として扱うことはなく、寝間を共にすることなど当然なかったのだ。
それでも、そもそも美和は、忍びの里に生まれ、幼い頃より厳しく訓練を受けて来た生粋の忍者であったので、男女の睦み合いなど全く知らなかったし、また興味も無かったはずだった。
しかし、美和はいつしか勝頼に対して特別な感情を抱くようになった。
男と言えば忍びの里の者しか見たことが無い美和には、勝頼の身形から立ち居振る舞いにいたるまで、その全てが新鮮に映った。
そして美和が武田家へ来て一年ほど経ったある夜、勝頼がいつものように他の側室の部屋へと入っていくのを見て、これまで経験したことのない、なんだか胸が締め付けられるような気持ちになっている自分に気付いた。この時はまだ、この気持ちが何なのか美和には分からなかったのだが、何年も勝頼の側に居る内に、それは段々と自分でもどうしようも無いほど膨らんで行くのを感じていた。
そして美和は、ようやくそれが勝頼に対する恋心であると同時に、自分が女であることを生まれて初めて認識したのだった。
だがそれは決して許されることではなかったので、これまで美和は勝頼への想いを自分の心の奥に閉まい込んでいたのだが、武田家滅亡が現実味を帯び、勝頼の死が見えてくるに至って、それを受け入れられない自分に改めて気付いた。 そして美和は幼い頃自分に忍術を教えてくれた六郎に、なんとか勝頼を生かすべく協力してくれるよう頼み込んだのだった。
六郎は黙ってうつむく美和の様子を見て、もはや美和は武田の家の事などどうでもよく、単に一途に想う勝頼を助けたいだけであることを察した。
六郎は、勝頼を助けることが、勝頼の意に反するだろうことは分かってはいたが、幼い頃から知っている美和が段々いじらしく思えてきて、なんとか手を貸してやる気になった。
「三人です・・・勝頼様を含めて三人までならなんとかなります。どなたを助けますか?」
「・・・ありがとう六郎。一人は信勝様、もう一人は・・・」
美和は言葉に詰まった。
残る一人の名前がなかなか出てこない。
美和にも六郎にも、勝頼と嫡男の信勝の他にあと一人となれば、あとは正室佐代姫を助けるのが順当であることは分かっていたのだが、美和はなかなかその名前を言い出せなかった。
「美和様、あと一人は佐代姫様で良いですな」
六郎が少々苛ついたように確認する。
「・・・・・」
「美和様!」
六郎がまるで美和を叱るように大きな声で言った。一人の女として勝頼を助けようとしている美和が、勝頼に特に愛されている佐代姫を選ぶことに躊躇していることは明らかだったが、それはいくらなんでも筋の通らないことだった。
「さ、佐代姫様をお助けして・・・」
呟くように美和が言った。
ようやく美和が答えたので六郎は黙って頷くと、他の忍に目配せした。
忍び達は手際よく勝頼、信勝、佐代姫の三人をそれぞれ背中に背負うと、紐で固定した。
六郎は用意していた書状を、倒れている勝頼の側近跡部勝資に持たせると、懐から大きめの竹筒を取り出して地面に置いた。
「さ、急ぎましょう美和様。目覚めの香を焚いていきますので、程なく皆目が覚めます・・・その後のことはそれぞれに任せることにしましょう」
六郎が跡部勝資に持たせた書状には、要約すると次のような内容の事が書いてあった。
〜御館様(勝頼)は、一足先にご自害召された。憎き織田の雑兵に首を取られるのは本意ではないので、皆とは別に逝くことを選ばれた。御館様は、最後までついてきてくれた皆と、最後を供に出来ないことを気にされつつも、忠臣への感謝の言葉を残されて、見事に果てられた。後の事はそれぞれの自由であるから、よきようにはかられたい〜
織田信長は必ず勝頼の死を確かめようとするだろう。だからこの様な書状で簡単に信じるかは大いに疑問だったが、少なくとも多少の時間稼ぎにはなると思われた。
六郎が地面に置いた竹筒に火を点けると、その先からもうもうと煙が立ち上り、周囲に広がり始めた。
そして、美和達と助ける三人を背負った忍び達は、それぞれ別の方向に走り出し、山の中へと消えていった。
太陽は西へ傾き、山々の間に沈もうとしていた。
第三話 輝き始めた太陽
勝頼はとある山の中にいた。正確な場所は分からないが、飛騨の国内にいるらしい。山深い場所だったが、一応八軒ほどの朽ちかけた民家が立体的に立ち並んでいる。勝頼は、その中の一番大きな民家の縁側に腰を下ろし、今にも山々の間に沈みかけている夕日をぼんやりと眺めていた。
織田、徳川軍に追われ、天目山で気を失ってから既に二ヶ月が過ぎていた。
天目山の山中でもやにつつまれた後、勝頼が目を覚ましたのは二日後だった。
そこは岩肌がむきだしの山中の渓谷で、その底を美しい清流がすがすがしい水音をたてながら流れている。
空からは穏やかで春らしい朝日が降り注ぎ、遠くからは鳥のさえずりが聞こえていた。戦国の世とは思えぬ平和で穏やかな空間がそこにはあった。
つい半刻程前に勝頼は目を覚ました。織田軍に追い詰められ、既に死を覚悟していたのに、こうして生きていることが最初理解できなかった。
しかし、忍の美和と六郎が少し離れた河原で火をおこし、何やら食事の準備をしている姿を見て全てを悟った。そう、美和らがあの天目山から自分を連れ出し織田軍から逃がしたのだと。そう悟った勝頼の表情が一瞬僅かに曇った。
その表情は虚ろで、目に光りを感じなかった。
「お館様!」
目が覚め、むしろから起き上がっている勝頼の様子に美和が気付いて嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お目覚めですか?もうここまで来れば安全です。あともう三里ほど行けば仲間の里が有ります故、ここで腹ごしらえなされませ」
「美和・・」
「はい?・・あ、食事とは言っても干飯と漬け物くらいしかございませぬが」
「美和・・何故、余を助けたのだ」
「・・・・」
美和が少し目をそらす。
「何故助けたのかと聞いておる。儂は武士じゃ、織田に追い詰められたからといってそちに助けられ・・」
「生きていて欲しかったのです!」
それまで嬉しそうに笑みを浮かべていた美和が真顔になると、半ば叫ぶように勝頼の言葉を遮った。そしてそのまま真っ直ぐと勝頼の目を見ていたが、すぐにはっとしたように頬を紅く染めると、両手をついて平伏した。
「そなた・・まさか・・」
勝頼は初めて目の前に平伏している美和の心を察した。
「そなたは余を奥の間で護るのが役目の忍ではなかったのか?」
「その通りでございます。でも・・・・」
美和はそのあとの言葉がどうしても言えなかった。
そこへ六郎がゆっくりとした足取りで近づいてくると、片膝をついて言った。
「お館様、無断でお館様をここまでお連れしたこと、何卒お許し下さい。ひとえにお館様をお慕いする一心でのことでございます。美和様同様、私もお館様が天目山で最期を迎えられることはどうしても堪えられなかったのです。どうか美和様を責められぬよう・・」
「・・分かった、それはもうよい。ところでここは一体どこなのじゃ?」
「飛騨の山中です。まだ信濃からは十里程しか離れていませんが、何分道無き山中を歩いてきたので、ここまで二日もかかってしまいました」
「他の者達はどうなったのじゃ」
「はい、他に信勝様、佐代姫様は我らの手の者が助けてございます。信勝様は上野へ、佐代姫様は武蔵の国を通り、相模の北条氏政殿の元へ向かってござります。」
「何?信勝と佐代姫を助けたのか?それで無事なのか?」
「・・・まだ判りませぬ、無事に付いたら連絡がござりますので、もう少しお待ち下さい。」
「その他の者はどうなったのじゃ」
「・・・・・」
「そうか、皆・・・それならば、余も生きているわけにはいかぬ。最後まで着いてきてくれた家臣達を犠牲にしてまで生きながらえようとは思わぬ。五平よ、信勝が生きておったら、真田昌幸か上杉景勝殿を頼り、新しい武田家を再興せよと伝えてくれ。佐代姫は兄上の元へ帰り静かに暮らすよう・・」
そういいながら立ち上がろうとする勝頼を見て、顔を伏せていた美和が慌てて顔を上げ、哀願するように言った。
「お待ち下さい!!」
勝頼は一旦座り直すと、美和を見下ろして言う。
「美和よ、そなたが慕ってくれていた武田勝頼は天目山で死んだのじゃ、もう武田家は滅んだのじゃ」
「それでも良いのです!私はお館様が生きていてくれさえすれば!・・・どうか生きて下さい・・どうか・・・お願いでござります・・・」最後は泣きそうな顔で美和が言った。
「・・・・」
あまりにも必死に哀願する美和の姿を見て、さすがに勝頼も考え込むように目を閉じて黙りこむ。
それを見ていた六郎が口を開いた。
「お館様、我らとてお館様の家臣です。それ故これからもお館様のお指図に従い、どこまでもお供します。どうか一旦は我らの里へお越し願えませぬか?その後で今後の事をゆっくりと考えられてはいかがでしょう?その上でお館様が武田家と運命を供にされると申されるならば、その時はお止めいたしません」
六郎はそう言うと深々と手を付きひれ伏した。
勝頼はしばし、じっと目をつぶったまま考え込んでいたが、やがて目を開けると言った。
「・・・分かった。とりあえずはそなた達の言う通りにするとしよう」
その目はどこか冷めていたが、その奥には小さな光が戻っていた。
そして勝頼がこの里に来て二ヶ月が過ぎていた。
その間、時折書き物をする以外は毎日何をするでもなく平和に過ごしていた。
「今日も来なかったか・・・」
勝頼はぼそっと独り言を言った。
彼が毎日待っているのは、嫡子信勝と正室佐代姫についての消息だった。
上野と武蔵方面へそれぞれ落ち延びたはずであったが、未だ無事だとの知らせはなく行方不明であった。その間、既に織田軍は甲斐、信濃全体を苦もなく占領し、残った武田の残党を一掃中との知らせがあった。
それを聞くとさずがに最初は胸が痛んだが、時が経つにつれ段々どうでもよい気持ちになった。それは織田軍に一掃されているのが他でもない、勝頼を裏切った家臣達だったからかもしれない。
それに今、勝頼が待っているのは信勝と佐代姫の消息だけではなかった。
夕日が山々の間に完全に姿を消すのを勝頼が見届けた時、館の奥から美和がやって来た。
「お館様、今日も夕日をご覧になられていたのですか」
「ああ、ここにいても毎日することがないのでな」
「そうですか・・何分ここは山の中ですから・・・そうだ!この先に木こり達の住む村があります。そこにいる茂吉という者を知っておりますので、一緒に木など切られてみてはいかがでしょうか?少しは手持ちぶたさもまぎれましょう」
美和の言葉を聞いて、にわかに勝頼の眉間に皺が寄った。
「何!?この左門字で木を切れというのか」
勝頼はそう言うや否や突然立ち上がって刀を抜いた。美和はあまりに突然の事に驚いて腰を抜かし、よろけて後ろに手を付いた。怯えるように勝頼の顔を見上げる。 勝頼のその目からは明らかに殺気がほとばしっていた。美和にはそれが自分に向けられたものなのか、織田軍に向けられたものか、はたまた武田を裏切った者たちへのものかは分からなかった。だがそれは、戦国の世に生まれ、戦い抜いてきた武士の迫力に満ちており、見る者を圧倒するだけの力があった。
勝頼は鈍い光を放つ刀をしばし鋭い眼光で見つめていたが、段々とその目から殺気が消え去ると、ふっと消え入るかのように、さっきまでの穏やかな表情へと戻った。
「それもよかろう・・・そなたの言う通りにするとしよう」
勝頼はそう言いながら伏し目がちにちらっと部屋の隅へ視線を向けると、僅かに口元に笑みを浮かべ、刀を鞘へ納めた。
美和はまだ硬直していたが、やがて勝頼に気付かれぬよう大きく静かに安堵の息を吐き出した。
「美和、腹が減ったぞ。何か食べ物を持ってきてくれぬか?」
「は、はい、すぐに用意致します」
美和はそう言うとすぐに立ち上がった。小走りに急ぎ出口の戸を開ける美和の手は、まだかすかに震えていた。
勝頼は窓の方へ歩いて行き、窓から半身で美和が出て行ったのを確認すると天井の方を向き口を開いた。
「五平、そこに居るのであろう、出て参れ」
すると、天井板の端の一枚が外れ、初老の忍びが音もなく降りてくる。
それは武田家の忍衆を取り仕切っていた頭領であり、美和の実の父である五平であった。
「五平、返事が届いたのか?」
勝頼が目を輝かせて五平を見つめた。待ちに待っていた物が届いたのだ。
「はい」
五平はそういうと、懐より書状を取り出して勝頼に差し出した。
勝頼はその書状を奪うように受け取り、慌てた様子で広げると食い入るように読んだ。そしてすぐに読み終わると顔を上げて大きく一回頷いた。
「よし、早速明朝京へ行くぞ。そなたも一緒に来るのじゃ」
「ははっ、お供致します」
翌朝、まだ辺りが暗いうちに勝頼は起き出すと、かねてから用意してあった荷物を押し入れから取り出して手早く着替え始める。準備が整った頃、これまた旅支度を終えた五平が音もなく現れた。
「よし、行くぞ」
勝頼は小さくそう言うと、五平と供に館を出て足早に歩き出した。
その時突然、背後の戸が開く音がしたので二人は振り返る。
そこには呆然と勝頼を見つめて立つ美和の姿があった。
「お館様!どこへ行かれるのです。ここで私と共に暮らしてはくれませぬのですか?」
「美和よ、そなたには言ったはずだ。既に武田勝頼は武田家と共に死んだのじゃ、ここにいるのはそなたが慕っていた勝頼ではない」
「違いませぬ!勝頼様に相違ござりませぬ!」
「美和!いい加減にせぬか!」 五平が見かねて娘を叱る。
勝頼はそんな五平を右手で抑えると、一旦目をつぶり大きく息を吐き出してから穏やかに口を開いた。
「美和・・・ここまで陰ながら儂を護ってくれたこと、感謝しておる。だがそれも終わりじゃ。今日限りでそなたの職を解くこととする。これからは、」
「嫌です!嫌でございます、私はずっと勝頼様の側にいとうござります」
五平が首を左右に振り溜息をつくと、勝頼の方を向いて頷いた。
「美和よ、そなたは身も心も清らかな女性故、これからは忍び者としてではなく、一人のおなごとして幸せに生きて行くのじゃ」
勝頼はそう言うと美和に背を向け歩き出した。
「あ、お待ち下さい!勝頼様ー!」
叫び、追いかけようとする美和を父の五平が黙って遮ると小屋の中へ強引に連れていった。しばらくして五平が一人で小屋から出てくると、小走りで勝頼の後を追って行った。
つづく
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