目次

 

l 三戸高校時代、部活、進路、親

l 短大入学、ゼミ、バイト、就職試験

l 入社、失敗、NEXT、イイ話、辞めたい、

l バイト、アメリカ、デービス、NY

l 帰国後、五十嵐、半年撮影、失敗、

l 読売、再就職試験、ハッとして

l 帰郷

l 最後に夢でした

 

 

 

いつも皆さんの写真を写させて頂いている、ライト写真舘の栗谷川です。

 今回この様な機会を頂きありがとうございます。

今回は多分いつもと違い、予算の関係なのか?三戸高校の卒業生の中で地元に居る人!との事で普通の私が呼ばれてこの場に来てしまいました。

と言う訳で私は普通の人なので、偉そうな事を言っても説得力が有りませんので、私が三高時代、短大、就職と経験した中で感じた事、こうすれば良かったとか先生方先輩から言われたり学んだ事をお話させて頂き、皆さんのこれからの青春時代の参考、又は、こんな事言ってたなぁって感じてくだされば嬉しいです。

  

1. 三高時代の私は、一応進学希望と言う事でかろうじて進学クラスに居ました。当時のクラスメート達は公務員志望や進学、看護学校等希望者が居ました。

3歳違いの兄も三高でお世話になり、当時としては国立大学や進学した人が沢山出まして、三高はじまって以来と騒がれ、その後の入学者と言う事で先生方はカナリ期待をしたらしいのですが、残念な事に・・・

当時は必ず部活に所属しなければ成らず、運動部員以外は、怖そうな先輩の居る応援団に強制参加させられる為、しょうが無く一番楽そうな弓道部に入りました。

部活では、若かりし頃の村上先生から大変お世話になりました。

部活が終ってから進学補習を受けると言う毎日でした。

国語の先生から本を読みなさい、斜め読みでもザザッとでも何でもイイからとにかく本を読みなさいと言われていましたが、余り本は読みませんでした。

3年生になり、いよいよ進路をどうしようと言うことになり私も一応悩みました!

両親はお前達が自分で飯を食って生けるなら何になっても良いよって一応言ってましたが、兄は私と違い頭が良く写真屋やりそうに無かったので、私が継ぐしか無いのかなぁって考えて居ました。

当時歯科技工士って儲かるらしいと聞き、色々考えましたが、人の入れ歯毎日こもって作るって〜のもなぁ?と思い当時プレスのカメラマンのTVドラマが有りカメラマンってカッコイイジャンてミ〜ハ〜な私は安易に決めてしまいました。

 

 

2. チョッと勉強をして写真の事をメインに勉強する短大に入りました。

その学校は写真屋の息子とかが多くて、将来もう後継ぐって決まっているからだと思うのですが余り勉強しないんですよね。

しばらくしてゼミを決める試験が有り、私は営業写真研究室と言うイワユル写真屋さんのコースを希望しましたが、学科試験は満点だったのですが、なぜ希望したかだか何がしたいとか言う作文で落とされてしまいました、何か変な事書いたような気が?

それで映像表現研究と言う訳解らないゼミで写真何でも有りってコースに入りました

学生時代は色んなバイトしました。

学校と私の性格も有り長期間決まったバイトって出来ないので、イワユル日雇いのバイトばかりしていました。

神宮球場でヤクルト巨人戦の時だけのペプシコーラのコーラ売り、コーラいかがですかぁ〜!とか

土方、関電工ですね、夜中にスコップ持って結構危ないんですよね!

後、大日本印刷で夜中中、18時間製本の手伝いして4,500円!

エキストラのバイトにも登録しました。

私は170cmないのですが、身長欄には176cmとかって詐称して書いたりしました、登録料56000円取られて一度も仕事来なかったので騙されたのかなぁって思っています。

そんなこんなで見聞を広げました。

この頃の私は本を読み、先人の人生観とか感化されました。

何も出来ない自分に焦り、今僕は何かをしなければと考えていたと思います。

 

3. 2年生の夏休みも終わり、さあ就職どうしましょう、となります。

  自分で求人票見たり探したりもしますが、専門職と言う事でやはり良い就職先はまず先生の所に話が来るんですよね、

皆さんもこれから同じだと思いますが、人間誰でも好き嫌い有ると思いますし、合う合わないって必ず有ります、でも先生方や他の人から自分を認めてもらって力になってもらわなければ損です!媚売るのでは無く頑張って認めてもらわなければなりません。

写真館の後継ぎの人達はすんなり、写真屋さんに入り何年か修行して帰る最短コ〜スを取りますが、私はありがたいことに親がまだ元気でしたし、三戸に戻ると未だ決めかねて居ましたので、先生に相談しまして写真家で小林 健さんと言う方の広告写真スタジオを紹介してもらいました。

写真館と言うのは仕事が限られてしまうのですが、コマーシャルの世界は何でも有りで、人物有り、商品、風景ホント何でも有るので勉強になるかなぁって考えました。

そこを紹介してもらって入社試験を兼ねバイトとして数日働きました。

そしてお世話になることに決まったのですが、後で聞いた話では技術も何も無いけれども素直だから育ててみよう、人間関係の激しい仕事ですから、多分私がスタッフの多い大きな会社に入れば潰されるだろう!との事で良い人達に拾ってもらったと思います。

なぜ私が合格したのかなあ、と考えてみれば挨拶とか礼儀を自分成りにキチンと心がけたと言う事と私の立場をわきまえ、例えば掃除、先輩を立てるとか何のことは無いのですがその辺を見られたのかなあと思います。

後実はもう一社受けました。

ダイエーフォトと言う会社で、大阪から東京に進出するにあたり、スタッフもまだ少なく若い私にもチャンスが有りこれからの会社で是非来て欲しいと誘って頂きましたが、将来自分が独立する時、やはり有名な先生の元で修行をしましたと言えばやはり有利なので、小林 健さんの所でお世話になることにしました。

チナミにギャラは月8万円でした!

一色一成さんの所は3万円で秋山正太郎さんの所はギャラ無し、犬の世話だけ!

4.  皆さんも聞いた事が有るかも知れませんし、経験すると思いますが、良い人に恵まれたとか、助けられたと言う事があります。

私も本当に良い人に出会い、恵まれ助けて又育ててもらいました。自慢話をしたい訳では有りませんが、このような事は自分で良い人を引き込む物です!嫌な人もイイ人になってもらえばイイのです。

上手く言えませんが、何とかしてあげたいと思ってもらえる人になればイイと思います。

 

5.  無事短大を卒業して働き始めましたが、最初から失敗の連続でした。

細かく、神経を使う仕事でした。ホコリ一つ、チョッとした角度のズレ、ライティングの計算違い等など想像を絶する世界でした。

入社1週間目に東芝本社の重役会議の撮影の際ストロボを倒してしまい、撮影料より高額な修理代掛けたり、銀座だったのですが車で人の足踏んじゃった事も有りました

でも不思議な事に先輩方は怒らないんです!人の足踏んだ時も、BOSSは怒らず十万円ポ〜ンと相手に払い念書書いてもらい、それで怒らないんですよ、怒られないプレッシャ〜を掛けられるんです。私の性格を解って居たのだと思います。

今話したように、企業にとって人を育てると言う事は非常にお金と、時間と忍耐がかかります。

6.  ここでフリーターについて最近思うのですが、私たちの頃はこんなコジャレタフリーターなんて言葉は有りませんでした。

フリーター側から見れば、束縛されないとか自由に生きられる?等と見えるかも知れません?

しかし例えばフリーターを1年、2年しましたと言ってもほとんどの場合何もスキルupもして居ません、企業の側から考えれば簡単に言えば、表現が悪くて申し訳有りませんが、上手く使われて居るだけです!

1、 安い労働賃金

2、 簡単にいつでも首を切れる?

3、 補償をする必要が無い?

4、 人材を育てる必要が無い等です

 

でも企業の側から見れば、お金と時間を掛け育てようとしていても1年も経たずに直ぐ辞めてしまう人が多い中では非難も出来ないのが現状だと思います。

景気の悪い中、それでも正社員として若者を取り育てようとして居る企業は尊敬に値します。

もし皆さんの中でそのような立場になった時は人として良いのか考えて欲しいです。

企業も学校も皆さんの事を、三戸高校から来た、もっと言えば代表して来たと見ます

幸運にも就職出来たとして、1年も経たず辞めたらきっと三戸高校の卒業生は駄目だとなります、せっかく推薦してもらった学校もしっかり勉強しなければ後輩を取らないでしょう!皆さんには三戸高校の卒業せいだと言う責任が有ります。

 

 

 

7.  私のスタジオでの勤務はホトンド毎日、10時から終電で帰る日々でした。

ただガムシャラに何も考えられず働きました。

半年位経った時、私に目を掛けてくれていたカメラマンの先輩に、講談社のビジネスマガジンでNEXTと言う月刊誌の取材同行カメラマンをやって見ないか?とチャンスをもらいました。

社会人になったばかりの右も左も解らないまったく何の保証も無い若造に良く任せてくれたものだと思います。

ここでもヤハリ社会人としての常識を見られたような気がします。

当時講談社の“顔”的な雑誌でした。

政財界のトップ、ベンチャービジネス、評論家、芸能人等取材に同行して撮影をする仕事でした。

成功した人達の生の話を聞けると言う、何物にも変えがたい体験でした。

そんな中私の中に、自分はこのままで良いのか?などと日々自問していたような気がします。

スタジオでの仕事と取材の仕事を掛け持ち東京と京都奈良を日帰りで往復する日が続いたある日、大失敗をしてしまいました。IBMの偉い人を取材した際、カメラが壊れていて全く写って居なかったんです!

中々無い事では有りますが、プロとして絶対許されない事でした。キチンとカメラを点検するとか予備にもう一台のカメラを使用するとか基本が成って居なかったのです

この瞬間に私と先輩の講談社での、もっと言えば写真の世界での信用は無くなりました!京都に向かう新幹線の中から電話連絡を取り、編集長と相手に謝り出来るだけの事を精一杯して何とかもう一度撮影させて頂きました。

その時の私の対応と、後で聞きましたが、先輩のフォロ〜でその後“NEXT”のカナリの仕事をレギュラーで任せてもらいました。

トラブルの時の事後処理って大切です。

先輩曰く、「転んでもタダで起きるな!」だそうです。

竹村健一さん、鈴木健二さんとか対談物や大切な撮影は私がしていました。

そして思ったら行動しなければダメだと言う事とバイタリティが無ければ何も始まらない、考えるだけなら誰でも出来ると思い始めました。

先輩に連れられ、杉本彩さんとハワイに行ったり、BOSSの撮影で芸能人とかの撮影のとかミ〜ハ〜な私的にはイイ経験出来ました。

ある時チョッとした撮影で私でも大丈夫だろうとの事で、ロケに行き写真を納品するとクレームが来ました!

簡単な仕事で誰が写しても、多分変わらなかったと思います。

でもスポンサーが、あんな若造ヨコシテとなったのでしょう?

時には見かけで理不尽な思いをしたことも有りました。

 

   

8.  短大を卒業する時にある先生から、

「どんなに辛くても何があっても3年間は頑張りなさい」と言われて心に留めていました。

今ココでチョッと偉そうに話ししてますが実は2年目に入ると仕事嫌で辞めたいなぁって感じてました!

でも3年間は頑張る事にしました。

当時自分はこのまま三戸に戻るのか、このまま東京でカメラマン続けるのか、又写真の世界でメシ食って行けるのか、等悩んでいました。

そんな中子供の頃から憧れていたアメリカで生活して見たいと思っていました。

  自分に約束した3年間勤めアメリカ行きますと、辞めました。

  お金を作るために又日雇いの、バイトをし始めました。NTTのアンテナ建とかレゲエのおじさん達と肉体労働などしました。

  社員から、23歳でこんなバイト何かしてたらダメだよ!何て言われ、頭に来た事も有りましたが、目標が有ったのでそれほど腹も立ちませんでした。

 

 

 

9. 軍資金を150万円貯め、イロイロ研究勉強して、カリフォルニア大の語学研修プログラムに参加するのがベストだと思い参加しました。

 生徒はホトンドが留学希望者で私は一番出来ないクラスでした。

 そこで名前すら書けないイラン人とか、色んな人達と知合い今でも付き合っています

 松下政経塾の方とかマダ松下幸之助さんが生きて居て毎日手紙を書かなければイケナイとなげいて居る方や、代議士秘書で政治家希望、東大京大と・・・!

 良い人間観察が出来たと思います。

 それなりの目標のある方々に沢山出会えました。

 色々な国々の人達とも知合え、考えさせられもしました。

 渡米した目的の中に自分を見つめたい!と言う大きな目的も有りました。

 5万円位でボロ車を買って、旅行したり

バスに乗り2ヶ月間乗り続け、全米を観て周ったりしました。

 出来ればアメリカにズ〜ット居たい、NYで生活したい!って思いました。

NYで過ごして2週間ほどしたある日、日本食レストランに行くとバイト募集、永住権取得手伝います等と掲示して有りました。

自分もココで働こうかなぁ!って考えましたがそこで働いている日本人の目が何か暗かったんです!他人の事は解りませんが、今私がココで目標も無くタダアメリカに居たいからって理由?でバイトするなら

時間の無駄だなって思い、諦めました。

そんな7ヶ月間の長旅も軍資金の150万円が無くなり帰国しました。

 

 

10.  皆さんが高校を卒業したら、大部分の方が車の免許を取り、車を買うと思います。

150万円有っても今は軽自動車位しか買えないかも知れません?

私は若い人が立派な車に乗って居るのを見るとどうしても勿体無いなぁって思います

時間的な事とか色んなハードルが有るかもしれませんが、車を買うお金を自分に投資して見ませんか?

今はカナリ安く海外に行けます。

何にも替えがたい経験が出来ると思いますもし私で力になれればいつでも相談してください。

 

 

 

11.  アメリカでの生活の後、やっぱり三戸に戻り、ライト写真舘の後を継ごうと思いました。

何年か前親に好きな道を歩きなさいと言われましたが、子供は年老いて行く親を見てその人成りに考えるものなのだろうなぁって漠然と思っています?

それにしても、このまま帰ったら写真屋さんの事何も知らないなぁと考え、短大の先生に相談したり、求人誌で探したりしていました。

求人誌でたまたまラッキ〜な事に、写真屋さんの中でも老舗でホテルオークラとか有名なホテルに入っている五十嵐写真店と言う会社が求人していました。

そこで面接を受け、採用されました。

 

 

12.  急な欠員との事で、即戦力として期待されましたが全く未知の世界で戸惑いました。

最初1週間位は、早めに出社し掃除など一生懸命と言うかそれ位の雑用しか出来ませんでした。

私より年下の先輩にもキチンと頭を下げ、教えてもらいました。

頭下げるのタダなので、得意なんです!

自分でも結構世渡り上手いと思います。

ここでも皆さんから良くして頂きました。

私の今までの経験に対して認めて下さり一目置いてもくれました。

半年ほど経ったある日、五十嵐写真店で最年少の主任さんが、結婚式の撮影をヤッテミロと言ってくれて初めて撮影をさせてもらいました。

正直不安で不安で逃げ出したかったのですがせっかく任せてくれたので頑張りました

徒弟制度の未だ残る職場でヤハリ最低でも35年間はシャッター握らせてはくれない会社でしたが、その主任さんはそんな事言っていたらいつまでも若者が育たないよとの考えでした。

もし私が失敗をしたり、クレームがくればホテルの絡みも有り大変な事になるのですが、そのようなイイ上司に恵まれ感謝しています。

 

 

13.  ある時、私が撮影したお客様からクレームが来ました!

この時もやはり、誰が写しても同じだったと今でも思いますが、若造に写されたのが気に入らなかったのだと思います。

出来るだけの事をして、写真を修整し直しました、主任がそれを持ちお客様の所へ謝りに行ってくれました。

主任は本社で怒られたらしいのですが、その後も私に撮影させてくれました。

私は出来る事なら助手で、責任の少ない方が気が楽だなぁと思いましたが、ココまでしてくれる主任の気持ちに答えようと頑張りました。

写真屋の仕事は撮影してからの方が手間と時間が掛かり、私の部署では撮影させてもらった分の修整や仕上げは基本的に自分でしなさいとの方針でした。

ヤハリ写真の修整や仕上げには技術がいる為一人前に成るには何年も掛かります。

入りたての私には速く上手く出来る訳も無く、大変でした。

でも、私の撮影が下手なら修整や仕上げを上手くして少しでもお客様が納得して頂けるよう、もっと言えば文句を言われる可能性を少しでも減らす為に、頑張らざるおえませんでした。

皆が帰った後タイムカードを押してから毎日残業をしました。

仕事でお客様に解らない程度に手を抜く事は出来ると思いますが、自分が納得出来なければ絶対後悔すると思います。

その事を私は心がけて居るつもりです。

でも私は多分人より時間が掛かって、疲れます!

 

14.  これから社会に出る皆さんは大変だと思います、正直私が社会人に成った時より可愛そうです!

三戸だけ見ても、あちらの店もこちらの会社もダメです。

私の同級生で親の跡を継いだ友達達も皆ダメになってしまいました。

皆さんのご家族もいつ何が起きるか判りません。

これから皆さんは自分の力で、生きて行かなければ成りません。

人から助けてもらわなければ生きては行けませんが、助けてもらうのは自分の力です

 

 

 

15.  私は自慢できる事では有りませんが、3年すると飽きちゃうんです!

そんな訳で五十嵐写真店で3年間お世話になり、そろそろ三戸帰ろうかなぁって思って居た所、読売新聞に求人が出てましてムービーの会社だったのですが、ラリーのパリダカとかルマン24F1等中継、主にヨーロッパ中心のTVコマーシャル制作会社の求人広告が目に留まってしまい、後何年かだけ東京に居てと言う軽い気持ちで入社試験を受けました。

確かその時の試験の中で、あなたは当社の為に何が出来ますか?と有り私は雑用と答えた覚えが有ります。

2人だけ一次試験を受かり女性のカッコイイ社長と面接をして最後ギャラの話や今後の話まで進んだ時、社長が人を育てたいのよね!と言われ私はハッとしました。

何と私は失礼な事をして居るのだろう!企業にとって人材育成がどれほど大変なのかを忘れて居たのです。

申し訳有りませんでしたとその場を逃げるように発ちました。

交通費とか日当を支給しますからと受付で言われましたが、恥ずかしくてもらえませんでした。

そうしてそろそろ年貢の納め時だなぁと思い三戸に戻りました。

 

 

 

16.  人生は後悔と失敗の連続です!

皆さんもこれからの人生で色んな分かれ道が有ると思います、余り上手く言えませんが、もしもう一度人生をやり直す事が出来たと時、胸を張って同じ道を歩けるような生き方をしてください。

自分の事を好きになって大事にして下さい

 

17.  最後になりますが、今回この様な形で皆さんの前でお話をさせて頂くのは実は夢でした!

私達の頃は偉い先生方や立派な方がこの場に立ち講演されていました。

自分もこの様な場に立てるような立派な大人になりたいなぁって夢は見て居ましたが、ラッキーな事に普通の人の代表と言う事でこの場に立たせて頂きました、どうぞ皆さんも将来この場に立てるよう頑張ってください。

普通の私の話を聞いて頂き本当にありがとうございました。

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