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「結局、俺一人か……」
2003年6月17日午後3時過ぎ、駒沢大学の自室で私はつぶやいた。
平日に設定したためハードルが高すぎたのか、あるいはそもそもこのサイトの閲覧者の母集団が小さすぎるのか、まあ両方だろう。
しかし他者からの反応がないのは予想の範囲内として、まさか現在の自分がこのような半失業状態になっているとは思ってもみなかった。やはり募集文に以下のようなものを用いたのが災いしたのだろうか?
退社後、待ち合わせのバーに入った俺は少し探したが、やがて隅の暗がりに彼女の姿を見つけた。
「やあ、待った?」
俺は挨拶をしてテーブルの向かいに腰掛ける。
「今日人事査定が出てね、僕は2ランク職位が上がったんだ。ようやく努力が報われたんだよ。」
だが彼女はうつむいたまま、カクテルに差したストローを回した。
「……そんなことどうでもいいわ。私はいつになったら報われるの?
いつも仕事ばかりで旅行どころか会うことも難しくて、身体は痩せてゆくし……
あなた、変わったわ……」
「6月17日の火曜日空いてる? 新国立劇場に『オセロ』を見に行かないか?」
唐突に告げた俺の言葉に、彼女ははっとして顔を上げた。
「前に「新国立劇場でオペラを見たい」って言っていただろ?」
「えっ? うん、だけど、火曜日って仕事抜けられるの?」
「ああ。実はまだ申請はしていないけど、約束は守るよ。首になったってかまうもんか。」
彼女の顔に微笑みが広がった。
実際には「首になった」というより「逃げ出した」のだが……
とはいえ取り止めるわけにもいかない。自分まで自分を裏切ってしまうのはさすがにまずかった。
しばらくリラクタントな気分で『統計学入門』の「回帰分析」の章を読んでいたが、4時半に決心がついて部屋を出た。
半蔵門線で渋谷に出て、山手線で新宿へ。京王新線の駅を見つけるのに時間がかかったため、初台に着いたのは5時20分くらいだった。
新国立劇場は地下鉄駅に隣接していると言ってよいほどの位置にあるが、普通の映画館や区民ホールとは桁違いの立派な造りだった。
正面エントランスから劇場入り口までは、幅15m程度の緩やかな上り回廊になっており、劇場本体は4層のギャラリー、幅16.4m高さ12.5mの舞台開口を備えた馬蹄型プロセニアム形式となっている。
私の席は3階正面舞台向かって右側であったが、ここは舞台と客席のスケールがあますところなく見回せる場所で、まずそのスケールに圧倒された。
そして後から入ってくる他の客をぼんやりながめている(私は5時半の開場の合図直後、さっそく場内に入った先行組だった。)と、ふとあることに気がついた。
若いカップルの数が少ないのである。客層は熟年夫婦か、男性なら一人か男性の連れと一緒であり、女性ならやはり一人か女性の連れと一緒というケースに偏っている。なんとなく居心地がよかった。
やがて5:45になると、舞台手前の演壇に初老の男があがり、『オテロ』の解説を始めた。
ヴェルディの6年がかりの作曲が完成したのが1886年、ということだがずいぶん新しい。シェイクスピアの原作が1604年だから、この280年の間、劇はどのように上演されていたのだろうか?
ほかにはヒロイン「デズデーモナ」役が健康上の理由で代役の人に変わっているとか。そうか、健康上の理由か、それじゃあ仕方ないよな、とこのあたりIT業界にいる自分は妙に理解がよい。
18:30、いよいよ第一幕。嵐の中、トルコ艦隊に勝利を収めたオテロの艦隊がキプロス港に帰ってくるシーンから劇は始まる。とにかく役者の声量とオーケストラ生演奏の迫力に圧倒される。舞台の両脇に吊られている縦長の電光掲示板に台詞の日本語訳が表示されるのだが、舞台に繰り広げられる人々の動きとの間で視線を移動するのに忙しい。
第二幕。悪役イアーゴによる「俺は極悪非道な人間だから悪いことをするのさ」という主旨の独演がよい。「俺は信じる! 自分に似せて俺を作った冷酷な神を!」 最高に印象深い台詞だった。
インターミッション。30分の時間がとられており、観覧客はビュッフェで歓談……私はひとりだったが。せっかくの10000アクセス記念ということでウイスキーを飲む。苦い味だった。
第三幕。オテロがいよいよ妻デズデーモナの不貞を確信し嫉妬に狂う。「やったぞ。俺の毒がまわった」とほくそえむイアーゴ。本当に彼は天才的悪党だ! 優れて徳の高い人物を、直接的に傷つけるのではなく、彼に負の感情を起こさせ、醜く振舞わせること、ここに悪の道の精華がある。
第四幕。寝室でオテロはデズデーモナを絞殺。だがその直後、侍女エミーリアより事の真相を告げられ彼は自害する。物語のクライマックスだが、個人的にはあまり面白さを感じなかった。それにしても「デズデーモナ」というのはRPGのラストボスにつけるような悪役的名前だな……
まとめ:演技、声、音楽、全てに強い衝撃を受けた。別のオペラも鑑賞したい。(今度は誰かと一緒にね。)