Changing By Minemu Miya
再会の一瞬。
変わったな、と思った。
誰もが非日常という仮面を被っているように見える、豪奢にとりすました高級ホテルのロビー。
けれど彼は、不思議なくらい“素顔”の印象で私の前に立っていた。
懐かしい、猫毛の癖毛。少し目尻が下がりぎみの、おっとりした双眸。肩が薄いせいでややほっそりと見えるけれども、彼の手が意外に男らしいしっかりした造りであることを、私は知っている。昔、何かの拍子にそれに気づいて、なんだか大型犬の小犬みたいだな、と思ったことがあったっけ・・・。
彼はどうやら、私との突然の再会に挨拶の言葉を選びあぐねているらしく、ソワソワとドギマギの中間のような困惑顔で長い沈黙を続けている。ものなれない少年のようなその様子がなんとなくかわいく思えて、気がつくといつの間にか、私は笑っていた。
「久しぶりね、有栖川くん」
「・・・うん。」
私の言葉に、彼は一拍の間をおいてから、慌てた様子でうなづいた。
「元気そう。」
「ああ、うん。君も。」
くりかえしうなづく彼の前髪から、その時、澄んだ水滴が落ちた。
彼は濡れ鼠だった。多分、東京には珍しいこの豪雪のせいだろう。
(傘を持ってなかったのかしら?)
髪と同じく、肩の色が変わるほど濡れたカーキのブルゾン、褪せたジーンズ、ぬかるみで汚したらしい泥まみれのスニーカー。
私と同じ年のはずなのに、彼には、そんな学生のような格好がしっくりと似合っている。───TPOにそぐわない無頓着なずぶ濡れぶりまでが似合っているような気がして、それがなぜだか、奇妙に切なかった。
「東京へは、仕事で? ・・・本、見たわ。」
嘘をつきたくなかったから、見た、と言った。
読んではいない。
私は、あまり本が好きではない。
「ほんまに?」
彼は目を見ひらいて、素直に驚きを表した。
その表情がおかしくて、私はまた、笑った。
───プロの作家のくせに、私があなたの本を見たことがあるのがそんなに意外なの?
それとも・・・。
(それとも、私があなたを憶えていたことが、意外なの?)
「売れっ子なのね。」
照れているらしい彼を見て、からかう調子で私は言った。
「有栖川有栖先生の新刊は、どこの本屋さんでも、たいてい入ってすぐの棚に積み上げられてるものね。」
いくぶん大げさな言いかたではあるが、まるっきりの嘘というわけでもない。そうでなければ、ミステリーにまるで興味のない私が、彼の名前を目にするチャンスなどなかったことだろう。
「・・・こっち、長いん?」
と、不意に彼は、脈絡のない質問を発した。
「え?」
話のつながりが見えなくて、思わず首をかしげる。
「いや、なんか、言葉ちゃうから。」
「・・・。」
彼の言葉は、相変わらずの大阪弁だった。
懐かしい、生粋のアクセント。
俳優が“大阪人”を演じるときにしゃべるまがい物とは、全然違う。
「四年、になるかな。結婚してこっちに来たの。───私の標準語、きれいでしょ?」
「うん。東京モンみたいで、なんやこそばゆいわ。」
やっと緊張がほぐれてきたのか、彼はそんなことを言って、おどけた笑みを見せた。
「苦労したのよー。」
私もつられて、姿勢を崩した。
「生まれながらの白金マダムに変身すべく、東京モン育成ギブスで来る日も来る日も・・・。」
「どんなギブスや。」
懐かしい、軽快なツッコミ。
学生服を来ていた頃の彼の姿が、鮮やかに脳裏によみがえってくる。
有栖川有栖。
普通の、ごく普通の、男の子だった。
普通じゃなかったのは、その名前くらい。
ルックスも成績も平均値、運動神経は平均よりちょっと下。
人気者でもなければ嫌われ者でもなく、目立つほど陽気でもないかわりにいじめられるほど暗くもない。
休み時間や放課後には、よく友達と小説の話に熱中していた。
女の子には優しかったけど、遊べるほど器用じゃなかった。
彼を好きだと言っていた友達がいた。
彼女も、普通の女の子だった。
今、私の目の前には、普通の男になった有栖川有栖がいる。
いや───プロの作家というのは、もしかしたら“普通”とはちょっとちがうのかもしれない。
でも、彼はやっぱり普通の男だ。いったん群衆の中に紛れこんでしまったら見つけだすのが難しそうな、ありふれて目立たない、ただの男。
「有栖川くんは今も大阪?」
「うん。」
「実家?」
「いや、天王寺。マンションで優雅な独身貴族生活や。」
「独身貴族? 若いファンの子に囲まれて、鼻の下伸ばしてるとか?」
「そのとおり、と言いたいとこやけど、それはないなぁ・・・う〜ん、なんでやろ。」
真顔で首をひねって見せる仕種が、心なしか子供っぽい。
多分、私自身の口調や仕種も子供がえりしてるんだろうな、とふと思う。
私たちが共有したのは、十代半ばのわずかな時間。だから、二人で向かい合っていると、無意識のうちにその時間を再現しようとしてしまう。
私たちは、そこでしか重なっていないから。
私たちの間には、今はもうどこにもないその遠い時間しか、重ねあえるものがないから・・・。
彼にラブレターを渡されたことを憶えている。
ラブレターの内容も憶えている。
白い便箋の上には、要するに、私が好きだと書いてあった。
普通のラブレターだった。
───つまらなかった。
彼のせいではないけれど、彼には何の罪もないけれど。
つまらなくてつまらなくてつまらなくて。
つらくて悲しくて息苦しくて、絶望すら感じた。
“普通”にはもう、うんざりだった。
“普通”の暮らし、“普通”の自分自身、学校、家、なんのかわりばえもしない果てもない時間────“普通”に包囲され、ぎゅうぎゅうに圧迫されて、息ができなくなりそうだった。
(一生これが続くの?)
普通に勉強して進学して就職して、そのうち普通に結婚して、お母さんみたいな女になるの? 子供に勉強しろとくり返し、近所のゴシップと夕ごはんのメニューに頭を悩ませ、帰りの遅い夫を待ってテレビドラマを眺めながら、“ああ疲れた”ってつぶやくの?
その少し前、隣のクラスの子が家出をして、駆け落ちだったらしいという噂が流れた。
私にはそんな勇気はなかった。
第一、そんな相手もいない。
私の人生に、恋愛なんて本当に起こるの?
つまんないラブレター。
別に嫌いじゃないけど、どうでもいい男の子。
私の人生に、“なにか”なんて、本当に起こるの?
つまんない私自身。
どうでもいい私自身。
そう───一番イヤなのは、それだった。
きっと本当は、私の人生になんて、何も起こりはしない。
きっと、生きてても、つまんない・・・。
───あの頃の私は、自分と自分の人生を“特別”にしてくれる何かが、欲しくて欲しくてしょうがなかった。自分では何もせず、ただ漫然と王子様を夢見てベソをかいている、欲張りで甘えん坊の子供だった。
そして、その王子様が得られないことに、ヒステリーを起こしていた。
幼稚で、馬鹿だった。
でも、真剣だった。
少なくとも、手首を切り裂く刃の痛みを平気だと思える程度には、あの日の私は真剣だった・・・。
「えらいめかしこんでるけど、誰かの結婚式?」
かつての“どうでもいい男の子”が、ためらいがちにそう言うのが聞こえた。
「ううん。夫の上司が趣味でやってる油絵の個展を開くことになって、その祝賀パーティに代理で出てたの。」
───これこそまさしく、“つまんない”日常だ。とは言え今の私は、もうそれにさほどの嫌悪は覚えないけれども。
あの頃想像した通り、私は私の母と似たりよったりの、ごく普通の主婦になった。
夫とは恋愛結婚だったが、大恋愛というほどではない。“そろそろかな”“こんなとこかな”で結婚し、それから四年が過ぎて、今も夫との間に恋愛感情があるかと問われれば、即座にはうなづきかねる。
だが、大切かという問いになら、迷わずうなづける。
大切だ。
夫も、子供も、このつまらない日常さえ────大切。
なくしたくないと、素直に思える。
多分私は大人になり、そして幸せなのだ。
あの日の、幼くて愚かな激しさと真剣さを失ったかわりに、この穏やかな日々を愛しいと思える人生を、私は手に入れた。
「有栖川くんは、ちっともめかしこんでないわね。」
こんな場所に来るには明らかに不似合いな彼の服装を、私はからかった。
「ほんまは玄関先で友人と落ち合って、すぐよそへ出る予定やってん。けど、着いてみたらその友人はまだ来てへんし、濡れて寒いし、雪はひどうなってくるし・・・それで、中に避難してきたんや。」
グス、と哀れっぽく鼻水をすすり上げる仕種をして見せて、彼は言った。
そう言えば彼は、さっきからしょっちゅう視線を奥のエレベーターの方へ向けている。久しぶりの再会に照れてソワソワしているのだとばかり思っていたのだが、どうやらそれは私の勝手な自惚れだったようだ。
「デート?」
なんとなく、きいた。その問いが当たっているにしろ外れているにしろ、照れて慌てる彼の姿が見たかった。
けれど、その理由の判然としない私の願望は、叶えられることはなかった。
なぜなら次の瞬間、彼の目が軽く見開かれ、そして───。
「ひむら。」
私の問いを置き去りにして、彼は私の傍らを通り抜けていった。彼の全身にまといついている雪の名残り香が、まるでかすかな北風のように、ひんやりと周囲を流れて過ぎる。
「ここや、火村!」
肩越しに振り返って彼の視線を追うと、その先には、背の高い男性の姿があった。
黒いスーツに、レザーのロングコート。
その立ち姿は遠目にも端正で、まるで映画のワンカットのようだ。
男性が、彼の声に気づいて視線をこちらに向ける。
「アリス。」
当然のように彼を呼び捨てる声は、印象的な深いバリトンだった。
「わるい、遅れた。・・・おい、どうしたんだよ、びしょ濡れじゃねえか。」
「駅前の本屋で立ち読みしとるあいだに、傘が蒸発したんや。」
私の視界の中で彼らは互いに歩み寄り、ちょうど双方の中間くらいの位置で、寄り添って立ち止まった。
「そりゃ災難だったな。部屋でシャワーでも浴びるか?」
「部屋でって・・・まさか君、ここに泊まってたんか?」
「馬鹿言え。一介の助教授の出張にこんなホテルの部屋をとってくれるほど、うちの大学は豪気じゃねえよ。こっちの関係者とのミーティングに上のラウンジを使っただけだ。」
「じゃあ、なんで・・・。」
「今からとればいいだろ? ちょうどチェックインできる時間になったことだしな。」
言って、火村と呼ばれた男性が、どこか悪童めいた笑みを浮かべる。
有栖川くんは───否、“アリス”は、アホ、と小さく口の中でつぶやいて、ちょっと焦ったような、困ったような、そのくせどことなく楽しそうな表情を見せた。
(ああ・・・。)
それを見て、ふと、思った。
懐かしい、やや童顔気味の、彼の横顔。耳に優しい、その声。
私の記憶の中にあるのと同じ、懐かしい、懐かしい、様々なものたち。
けれど、でも────ちがう、のだ。
今日、このロビーで彼を見つけた瞬間、変わったな、と思った。
心もち広くなった背中。
昔に比べてしっかりしている顎のライン。
以前はなかった小さな皺が、目尻にある。
手も、高校時代よりもっと男っぽい。
そして、最大の違いは、多分、表情。
あの頃、窓辺の席で友達と談笑する彼を、よく見かけた。それは“普通の日常”の象徴のような、平和でありふれた情景だった。
笑う彼。ムキになる彼。 熱気を込めて言葉を紡ぐ彼。
でもあの頃の彼は、今目の前にいる“アリス”のような、本当にリラックスした自然な表情は、あまり見せなかった気がする。
高校生の“有栖川くん”は、いつでも一生懸命に見えた。笑うことも怒ることも、毎日生活すること自体さえ、一生懸命“こなしている”ような気配があった。
───本当は苦くてしょうがないウィスキーを、大人ぶって背伸びして、無理やりおいしそうに飲もうとしている子供。
今ならきっと、そう思う。
「ところでアリス、あちらの女性は?」
「あ、彼女な、高校時代の同級生で・・・。」
ひとしきりじゃれあったあと、彼らは私の方に視線を向けた。
私は笑って、彼らから少し離れた場所に立ったまま、小さく手を振った。
ねえ。
有栖川くん。
あの頃、あなたも苦しかった?
わけもなく苛立ったり、
自分と世界をいっしょくたに憎んだり、
いてもたってもいられないような焦躁感に駆られて、
眠れない長い夜を過ごしたりした?
私たちが一緒に過ごしたあの“普通”の学校の、
なんの変哲もない教室で。
もしかしたら、あなたもあがいてた?
何かを───多分、自分自身を探して。
「あ、帰るん?」
少し慌てた様子の彼に、時計を指さすジェスチャーで、“時間なの”と告げて。今はもう有栖川くんではないアリスを、数秒、目に焼きつけて。
そして私は、ゆっくりと踵を返す。
昔、あなたを傷つけた。あなたを否定した。
あなたなんて要らない、あなたなんていてもいなくても関係ない、あなたがいても私の世界はつまらない。
私はあなたに、そう告げたも同じだった。
でも、こんなにおぼえいてた。
どうでもよかったはずの男の子の記憶が、まだ私の中には、こんなにたくさん、こんなに鮮明に、残っていた。
ホントはね。
気づいてなかったわけじゃないのよ。
あの“普通”への愚かな憎悪さえなかったら、きっと私は・・・。
「・・・元気で!」
「有栖川くんも。」
ホテルのロビーの厚い絨毯を踏んで、私は歩き始める。
連絡先は、言わなかったし、聞かなかった。
私は家に帰る。
夫と子供が待っている。
彼はこれから、あのハンサムな友人氏と、飲みにでも行くのだろうか。
───今のあなたにとって、人生というウィスキーは、たとえ多少はほろ苦くても、きっと本当においしいんでしょうね。
時が、過ぎたのだ。
「さよなら。」
短く、告げた。
硝子の回転扉の向こうには、降りしきる雪。
私はその白くけむる世界へと、背を伸ばし、顔を上げて、振りかえらずに歩き続けた。