蛇 足
忙しいときには、タイミング悪くまた新たな仕事が重なったりするものだ。もちろん「断る」という選択肢も存在していることを知らないというわけではない。実際に、あまりにも無茶なスケジュールになりそうなときには、泣く泣く断る場合だってまったくないわけじゃない。けれど、それはごく希なことで、たいていは多少のスケジュール調整をお願いするにしても最終的には引き受けてしまうことが多い。ここで断ったら次には仕事がこなくなるかも知れない、などという強迫観念からでは決してない。ただ、この仕事が好きだから、断ってしまうのは、せっかくのものを書く機会をひとつ逃してしまうことになるから。それで、そのときにも、仕事がたてこんでいた。
発行部数も多くはないタウン誌に掲載予定のエッセイだった。だから、おそらくこれを読む人間のなかに、あの友人の知人がいようとは思わなかった。言い訳にしかならないが、とにかくほかの仕事もあって、慢性睡眠不足状態。これはもう、なりふり構っていられない。あのタウン誌の担当者は、ほかの雑誌の編集者みたいに締め切りを早めに伝えてはこない。いつだって、本当に待てるぎりぎりの日にちを伝えてくるのだ。それは、それだけ、私を信用してくれているということ。この信用を裏切りたくはない。
そんなわけで、ネタにつまった私はかなり身近なことを書いてしまうことになった。遊びに行くたびに、どたばたと暴れたあげくにじゃれついて、大歓迎で迎えてくれる彼の飼う猫たちの話を。しばらく二匹だったはずのあの下宿に住む猫は、三月からは三匹に増えて、よけいに騒がしくなっている。
人間には……とくに女性にはそっけなくて冷たい男が、何故か猫にはとても優しい。ときどきまるで父親のようにさえ見える。それは、友人としてとても嬉しいことだと思う。ちゃんとやさしいところだってあるじゃないかと、安心出来るから。でも、いつかは人間にもそんなやさしい顔が出来るようになってくれたらもっと嬉しい。
なんてことまで書いたのは、完全に蛇足だった。いや、私の本音ではあっても、それは心のなかでだけ思っておけばよいことで、文章になどしないで良かったのに。寝不足だったし、知人が読むわけもないものだ、という油断もあって、調子にのりすぎたのだ。
事実は小説より奇なり。人生、どんな偶然だって起こりうるものなのだ。
大阪のタウン誌に載ったそのエッセイを見つけだし、面白がって当人に見せた人間がいたらしい。いや、当人の話だという確信が見せた人間にあったのかどうかは判然としない。ただ、あの男の大学の同僚が、確か先生のところも三匹猫を飼っていらっしゃいましたね、などとタウン誌を見せながら言った、というのが真相ではあるらしいのだが。
そんなわけで今、私のマンションにやってきてネタにされた当人はとても不機嫌そうにソファに寝そべっている。わざとらしく、くだんのタウン誌を開いてテーブルに私のエッセイの頁を開いて置いたままの状態で、である。
私はとにかくコーヒーを炒れてみることにした。タウン誌のとなりに湯気の立つカップを置いた。
「なぁ、火村。そんなところに転がってないで、言いたいことがあるんやったら、はっきり言ったらええやないか」
結局、気まずい沈黙に耐えられなくなるのは、決まって私のほうなのだ。
「俺がなにを言いたいか、おまえに解らないか?」
「ああ、さっぱり解らへんな」
もう、開き直るよりほかに、どうすればいいんだ。
「おまえは、人間じゃないのか?」
唐突な言葉に、私は目を見開いた。ちょっとエッセイのネタにしたくらいで、人非人扱いはあんまりだろう。
「当たり前や。鬼でも悪魔でもない」
「鬼より悪魔より、人間のほうが怖いかも知れないが。俺はそいうことを訊いたわけじゃねぇよ」
「はぁ?」
半身を起こして、火村はタウン誌の一部分を指さした。
「これによると、俺は人間には優しくないそうだが?」
「そ…それは、別に火村のことを書いたわけじゃ……」
「俺以外に、猫を三匹飼ってる友人だか知人がいたか?」
そうだ。我ながら苦しい言い訳だった。間近から睨み付けられて、俺は首を横に振るしかなかった。
「これ、俺のことじゃないのか?」
「いや、そら、おまえのことやけどっ」
と、きばってみたが、なにを言えばいいのか解らなくなって私は絶句した。
「だよな。で、俺は人間には優しくない、と。で、アリスが人間だって言うなら、俺はアリスにも優しくない、って言いたいわけか?」
そういうことになる。うん。確かに、そう書いてある。
実際、火村は私にやさしいだろうか? 対自分として書いた文章ではなく、あくまでも一般論、というか人間全般をさして書いたものだった。だから、そんな問題をつきつけられて初めて、私はそのことについて考えることになった。
火村は、私にやさしいだろうか?
たまに、やさしいこともあるかも知れない。けど、いつもどこでもどんなときでも、となったら、やっぱり答えは否だ。
「自覚してへんのか? おまえ、いつもやさしいわけやないやないか」
「いつも?」
火村は冷ややかに反問した。
「いつも優しくして欲しいだなんて、おまえそれは厚かましいんじゃないのか? おまえだって、俺にいつも優しかったか?」
「そら……まぁ、おまえよりはずっとやさしいやないか」
我ながら苦しい。こんな反撃があるとは想像していなかった。
「ふーん。だったら、どのくらいやさしいのか、証明してもらおうかな」
目を輝かせて火村が意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんでそうなるんや?」
「そりゃ、この原稿の出演料も払ってもらわなきゃならないことだし、丁度いい」
それでどんなやさしさを要求されたかって? そんなことはここに書きたくもない。つまり、そういうこと。
【了】
(1998年11月ペーパー三咲駅舎21号掲載)