明日の記憶


 いつも初めて会ったみたいな新鮮な気持ちでいられたら、それは素晴らしいことだろうか?
 飽きてしまうことは、確かにつまらない。だけど、一緒に過ごすときを積み重ね、ゆっくり親しくなって、相手のことをよくわかってあげられたり、自分を解ってもらえることは、嬉しいことだ。
 そして逆に、もしも自分がともに過ごしてきたあれこれを忘れられてしまったら、どんな気持ちがするだろうと想像してみる。
 とても、淋しくて、哀しい気持ちになるだろう。
 叔父さんが言っていたように、そんな哀しい思いをしている人がどこかにいるのかも知れない。どうしてそのひとが、翔一君を探してくれないのかは、解らないけど、なにか事情があるのかも知れないし。
 もしも、過去に関わった大切な誰かに出会うことが出来たなら、彼の記憶は戻るのだろうか?
 けれど、過去を手繰り寄せようとした糸は、またひとつ断ち切られてしまったばかり。
 それなら、また別の手がかりを探せばいい。ひとだけじゃなくて、場所とか、季節とか、モノとか、歌や、匂いや、色や、言葉。記憶を呼び戻すきっかけになるようなものは、そこいらに転がっているのかも知れない。なにが「ソレ」なのかは、解らないけれど。解らないからこそ、片端から試してみよう。駄目でもともと。やってみる価値はきっと、あるはずだから。


「これが、なに?」
 津上は手のひらにおさまるくらいの立方体を手に、首を傾げる。一面を縦横三つずつの九つに分けて、赤、青、緑、黄色、黒、白の六色がばらばらに並んでいる。
「ルービック・キューブって言うんだって。翔一君、正確な歳がわからないから、私は流行したの知らないけど、もしかしたら子供の頃、遊んだことがあるかも知れないと思って」
「おいおい、これは、いくらなんでも古いんじゃないか?」
 横合いから口を出したのは美杉だった。津上の手からその立方体を取り上げて、懐かしそうに目を細める。
「なんだ、そうか。懐かしいオモチャでも見たら、なにか子供の頃の記憶でも思い出せるかと思ったのに」
 ひどくがっかりしたようすの真魚を見て、津上が笑顔を向けながら教授の手からまた立方体を取り返す。
「ありがとう、真魚ちゃん。俺、ちょっとこれ、やってみるね」
 と、縦に、横にと、三列ずつをくるくると回しては、首を傾げる。
「難しいねぇ。これ、面ごとに、全部同じ色にするパズルだよねぇ?」
 津上の言葉に、真魚は目を輝かせる。
「翔一君、遊び方知ってるの? やっぱり、子供の頃、これで遊んだことあった?」
 しかし、津上はすまなさそうに頭をかく。
「ごめん、真魚ちゃん。このまえ、テレビのバラエティで懐かしのオモチャ特集、って番組、見ちゃったんだよね」
「なぁーんだ」
 という会話の間にも、津上はせっせと手を動かす。
 けれど、色はどこかを合わせると、必ずまた別のところがぐちゃぐちゃになり、なかなかうまくいかない。
「どれ、翔一君、わたしが見本を見せてあげよう」
 と、美杉が笑いながら手を差し出す。津上は、あっさりとそれを渡して、キッチンへ立っていく。
「夕飯の下ごしらえやっちゃうね」
 パズルよりも、みんなの夕飯のほうが大事らしい。
「じゃあ、私も宿題やっとこうっと」
 真魚もそう言って、自室にあがっていった。
 居間に残された美杉は、周囲に誰もいなくなったことにも構わず、ルービック・キューブと格闘する。
 そして、一時間後。
 出来上がった料理をテーブルに運ぶため、津上が居間に入ると、眦を吊り上げていまだほとんど色の揃わない立方体に立ち向かっている美杉の姿がそこにあった。
「先生、まだやってたんですか?」
 津上の言葉にはっとして、美杉が顔をあげる。そして、目が合うと、気まずげな笑みを浮かべて立方体を顔のまえで振ったりする。
「いやぁ、翔一君。これは、実は、全面同じ色にするよりも、隣あった色が全部違う色にするほうがプロの技なんだよ」
 美杉の手のなかの立方体は、見事にぐちゃぐちゃな色合いである。
「へぇ、そうだったんですか」
「駄目よ、翔一君に嘘を教えちゃ」
 納得しかかっている津上の後ろから、真魚が冷たい声をかける。
 つかつかと居間に入ってくると、美杉の手からルービック・キューブを奪いとり、カチャカチャと動かす。
 その間、わずかに1分。
 真魚の手のなかにあるパズルは、見事に六面毎に色分けされていた。
「すごい。真魚ちゃんも、子供の頃これで遊んでたの?」
「そんなわけないでしょ。それより、夕飯は?」
「出来てるよ」
 あっという間に揃えられた立方体とともに、捨て置かれてしまった美杉は、難しい表情でそのパズルを睨んでいた。
 そして食卓で、美杉は子供たちのまえでまた、ルービック・キューブを持ち出して、色をばらばらにしてみせた。
「ちょっと、コツを忘れただけなんだよ。明日にはまた、綺麗にそろえてみせるからね」
 とは言ったものの、どうしても真魚のように簡単にはいかない。
 翌日の昼間、たまたま講義のなかった美杉は、むきになって、パズルに挑戦していた。
 お茶をはこんできた津上が向かい側のソファに腰掛けて、手をのばす。
「先生、俺にもちょっと貸してください」
 と、真剣な表情でかちゃかちゃと動かしてみるが、やはり、色はなかなか揃わない。
 とうとう手を止めて、ルービック・キューブの形状をじーっと観察する津上。
「どうしたんだい?」
「これ、色のついたシールが貼ってあるだけですよね?」
「そのようだね」
 津上は、にやりと笑ってシールに指をかける。
「翔一君、それじゃあパズルの意味がないじゃないか」
 と、言葉では止めながらも、美杉は感心したように少々の期待をこめた目で、津上の手許を見ている。真魚と太一が帰ってくるまえに、綺麗に揃っていてくれたら、もう手段などどうでもいい気になっているのだろう。
「大丈夫、俺、器用なんですよ。絶対、バレないようにはがして、元通りに色を揃えて貼りつけますから!」
「そうかい。ああ、本当に器用だねぇ」
 そうして約二十分後。津上の反則技により、綺麗に貼り替えられたルービック・キューブは、誰の目からも見事に完成した状態に見えるように出来上がったのだった。


 しかし、誰の目からも・・・という「誰」のなかに、残念ながら入れられない人物もある。
 学校から帰ってきた太一は、綺麗に色の揃ったルービック・キューブを見て「ふーん、ひまだったんだね」とだけ、呟いた。思い切り感動もしてくれないが、疑ってはいないようすだった。
 けれど、それを手に取ってしまった真魚は・・・。
「叔父さん、すごいじゃない」
 と、笑顔を見せたそのあとで、キッチンにいる津上の脇に、手伝うわけでもないのに立って、まくりあげた袖を引く。
「翔一君、ずるい手伝いかた、したでしょう?」
「あ、バレちゃった?」
 津上は、悪びれるようすもなく、にこにこ笑いながらキャベツを刻んでいる。
「けど、なんで解ったの?」
 真魚は、一瞬言葉につまる。ルービック・キューブに触った瞬間、せっせとシールを貼り替えている翔一君が見えたから、とは、説明出来ない。
「ちょっとだけ、シール曲がってたから」
「そっかー、完璧だと思ったんだけどな」
「でも、気がつかなかったことにしてあげる」
 と、言って、ちらりと居間を振り返る。同時に、美杉がかなり苦労していたようすまで、見えてしまったのだ。
「ありがと!」
「そのかわり、ケーキに野菜入れるのはナシだからね!」
「はーい」
 返事をする津上は、とても残念そうな表情だ。
 真魚は、そんな顔をしている津上を見て、笑う。その笑顔につられたように、津上もまたあっけらかんとした笑顔になる。
 そうしてその日の食卓には、いつも通り、津上の育てた野菜たちが並ぶ。
 イレギュラーな家族でも、暖かな団欒のひととき。
 栄養と愛情たっぷりの野菜サラダを口に運びながら、こんど懐かしそうなオモチャを見つけたときは、叔父さんのいないところで、翔一君に渡してみよう、と心に決めている真魚だった。
 
 

fin.2001.4.22
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