君の居場所
溺れる者は、藁をも掴む。というが、果たしてこの場合、彼が藁ほどの役に立ってくれるものかどうか。恐らく真魚は、それほどの期待さえしていなかった。ただ、なにもせず、手をこまねいて事態を見守ることが出来なかった。そして、彼ならば、信用出来る。普通のおとなであれば、子供の戯言と一顧だにせず、話を聴くことさえしなかったかも知れない真魚の能力について、信用し、尊重し、約束通り他言せずにいてくれている。そのうえ、捜査の役に立つのだと解っていても、利用しようとも考えないでいてくれる。そんな彼になら、話を聞いてもらうだけでもいい。
そう思ったから、真魚はその日、桜田門に氷川を訪ねたのだった。
「すみません。まだ、ビデオテープの件、なにも解っていなくて」
真魚を見るなり、氷川はすまなさそうに頭を下げた。また、父の事件の進捗状況を聴きにきたのだと解釈したらしい。
慌しく私服刑事や制服警官が行き来するフロアをパーティションで区切っただけの小さな応接セットで向き合ってのことである。
「そのうえ今日は、こんな落ち着かない場所しかあいてなくて」
と、困ったように騒がしい室内を見回すと、丁度そこへ目鼻立ちのはっきりとした勝気そうな女性が、紅茶のカップをトレイにのせて運んできた。
氷川は、その女性を見るなり慌てたように腰を浮かした。
「すみません、そんなことはオレがしますからっ」
と、トレイをひったくるようにして、カップをテーブルに並べた。
「いいのよ、氷川君。これくらいのこと、遠慮しなくても」
真魚は、そうしたようすを興味深げに見守っていた。
氷川を君づけで呼んだ、どうやら上司であるらしい女性が、真魚に笑いかける。
「美杉教授の、姪御さんでしょう? 氷川君と一緒に働いている小沢よ。よろしくね」
「風谷真魚です。よろしくお願いします」
女性は、当然のように氷川の隣に腰かけた。紅茶のカップもしっかり三つ用意してあるところからみて、最初から一緒に話をするつもりで来たらしい。
「あの、今日は父の件じゃないんですけど」
「ビデオテープの分析なら、今やってるところなの。てっきり、その話かと思ったんだけど」
氷川も真魚の言葉が意外だったらしく、小沢と二人で顔を見合わせている。
「すみません、そうじゃなくて、あの、うちの同居人のことで」
居候、と言わなかっただけ、太一よりは分別がある、のかも知れない。
「もしかして、津上君のことかしら?」
真魚は氷川に相談するつもりで来たのだったが、いちいち反応するのは小沢のほうが早い。以前、病院で氷川の同僚に会ったという話を聴いたことを思い出した。面識があるのなら、説明する手間も省ける。
「そうです。実は、家政婦だと嘘をついて、記憶を失くす以前に翔一君とつきあっていたという女性が会いに来たんですけど」
「それで?」
小沢が、身を乗り出した。
氷川ならば、自分の漠然とした勘も、尊重してくれるだろうと思った。あやふやな根拠でも、信じるに足るものであると、納得してもらえるだろうと期待した。しかし、ここまできて小沢に席を外してもらうことも出来ない。真魚は、そう腹を決めると、亜紀が来てからの経緯をかいつまんで説明した。
「それで翔一君、亜紀さんのところに行くって、荷物をまとめたりしてるんです」
「そう。それは問題ね」
小沢は、腕組みしながら言った。
「氷川君、あなた、行って止めて来なさい」
「ちょっと、それ、どうしてオレがっ・・・」
口を挟む間もないままに、女性二人の会話を聴いていた氷川だったが、唐突に小沢から命令をくだされ焦った声をあげた。
「離ればなれになっていた恋人同士がやっと再会して、一緒に暮らそうとしているだけかも知れないじゃないですか」
氷川は真魚の話を信用しなかったというよりは、一方的な状況の説明で、一気に「止める」という結論に辿り着けないのだ、ということらしい。
「呆れたわね」
しかし、小沢はそんな氷川の台詞を切って捨てる。
「そんなんだから、あのプチエリートに言いたい放題言われても、今ごろになってヤな奴だって気がついたりするのよ。氷川君、鈍いんじゃないの?」
「小沢さん、北條さんのことは関係ないでしょう」
真魚の前でずばりと言われ、氷川は精一杯の抗弁を試みた。けれど。
「あたりまえでしょう。あんな男が関係あったら大変よ!」
小沢は自分から話をそらしておいて、にべもない。
「そんなことより、言ったでしょう。津上君みたいな子とつき合えばきっとプラスになるって。それに、聴いてたでしょう。その亜紀って女、津上君の家族や出身地については、笑ってごまかしたそうじゃない。ソフトボールのルールも知らずに部活動をしていたはずもないわ。わざわざ家政婦だなんて身分を偽って家にあがりこむこと自体、そうっとう怪しいわよ。それに、彼女の名前、聴いたでしょう?」
と、意味深に大きな目を向けられ、氷川は否やとは言えなくなった。
真魚には、それがどういう意味だか解らなかったが、亜紀にはなにか警察官に名前を知られるようないわくがあるらしい、という察しはついた。
「さぁ、善は急げよ。早く行って来て」
話は終わったとばかり、そう言って小沢は立ち上がった。
慌てて紅茶のカップをとりまとめる氷川の手から、小沢がトレイをひったくる。
「いいから、こんなのはほっといて。いい? しっかり思いとどまらせるまで、帰ってこなくていいから」
「そんな・・・」
「氷川さん、行きましょう」
困惑顔の氷川の手を引くようにして、真魚は警視庁をあとにしたのだった。
「津上さん、まだ記憶は戻っていないんでしょう?」
「そうなんですよ。さっぱり思い出せなくて」
美杉家の居間で、氷川と津上は向かい合ってお茶を飲んでいた。もちろん、津上が淹れた美味しいお茶である。
真魚はあえて席を外すことにしたらしい。
「それなのに、恋人だという女性と一緒に暮らすそうですね」
「あ、氷川さん、聴きました? いやぁ、なんか照れるなぁ」
頭をかきながら、笑み崩れる津上を、厳しい瞳で氷川は見据えた。
「それは津上さん、順序が逆ではないでしょうか?」
「逆って?」
「一緒に暮らすのは、記憶を取り戻してからでも遅くはないでしょう? 本当に、彼女があなたの恋人だったと思い出してからのほうがいいんじゃありませんか?」
氷川の言葉を、津上はいつになく真面目な表情で聴いていた。
そうして、視線を手許の湯のみのあたりに彷徨わせながら言う。
「記憶がないということは、誰のことも解らない、ということなんです」
「は?」
「記憶をなくして病院に運ばれたとき、俺は誰のことも知らなかった。俺を知ってる人も誰もいなかったんです。でも、先生が引き取ってくれて、真魚ちゃんや太一と一緒に暮らして――」
言葉を切って津上は顔をあげる。真っ直ぐに、氷川の顔を見る。
「なにも解らない。どんな人なのか知らない。それはあの時と一緒です。でも、違うのは、彼女が記憶を失くすまえの俺を知ってるってこと。そして、早くそれを俺にも思い出して欲しいと思ってくれてることです。だったら、一緒に暮らしたほうが早く思い出せるかも知れない。そうしてみたら、駄目ですか?」
「ですが、本当に彼女があなたの過去を知っているというなら、ほかにもやってみるべきことがあるでしょう? 家族がどこにいるのか聴いて、会いにいくというのはどうです? 恋人よりも長い時間を一緒に過ごしてきた人たちに会えば、なにかを思い出すかも知れない。それとも、生まれ故郷がどこかを教えてもらって、その土地に行ってみるとか・・・」
氷川は、言葉を尽くした。刑事として、思いつく限りの次善策を列挙する。
ところが、津上は淋しげな表情で首を振る。
「いないんじゃないかと思うんです」
その言葉に、氷川は以前河野からの聴いた言葉を思い出した。記憶喪失で発見されたという記録はあるが、該当するような捜索願は出ていなかったというのだ。
「彼女、家族や故郷については、言葉を濁すんです。なにか、言いにくい事情がありそうで、俺もしいて聴きたくはないんですよ」
「知らないだけかも知れませんよ。言いにくいのではなく、知らないから言えないのかも」
氷川は、小沢や真魚ほど亜紀という女性を頭から疑ってかかっていたわけではなかった。しかし、津上の根拠の見えない信用に、もどかしさを覚えてついきつい口調で反論してしまった。
「氷川さん、もしかしたら妬いてます?」
「は?」
津上は、嬉しそうに目を細めた。
「そうか氷川さん。俺に恋人がいたのショックだったんでしょう? だから、亜紀さんのところに行くの止めようとしてるんだ」
俺ってモテるなぁ、などと言いながら津上はまた頭をかいたりしている。
「まさかっ。そんなこと、あるわけないでしょう!」
「嫌だな氷川さん。図星だからって、そんなにムキにならないでくださいよ」
「オレはただ警察官としてっ、アンノウンのターゲットになっている女性と一緒に暮らすなど、無謀だから止めようと思っただけです!」
言わずにすまそうと思っていたことを、氷川はついつい口走ってしまった。日頃はもっと冷静で、落ち着いた対応が出来るのに、何故だか津上が相手だとペースを乱されまくってしまう。
「それなら尚更、俺は亜紀さんのところに行きますよ」
「なにを言ってるんですか?」
「彼女が狙われているというなら、彼女のそばが俺の居場所なんだと思うんです」
「正義のヒーローにでもなれるつもりですか? ですが、アンノウンはあなたのような民間人に太刀打ち出来るような相手じゃありません」
「だったら、氷川さんが助けてくれるんでしょう?」
津上は、邪気のない笑みを浮かべつつ真っ直ぐな信頼を武器に、氷川の反論を封じにかかる。
「助けますよ。しかし、それとこれとは――」
「さぁ、この話はおしまいにしましょう。それより氷川さん、とれたての野菜で色々また料理を作ったんですよ。夕飯、食べていかれるでしょう?」
「いえ、まだ仕事があるので」
いつもなら、その言葉を聴いても強引に止める津上だが、今日はにっこり笑って立ち上がった。
「そうですか。それは残念です。じゃあ、またいつでも食べにいらしてくださいね」
氷川が体よく追い出されたのだと気がついたのは、美杉家の玄関を出たあとだった。
そんなようすを階段のうえからそっと伺っていた真魚は、電話をかけた。
「もしもし、風谷です。はい。氷川さん、やっぱり止められないばかりか、すっかり丸め込まれて今、帰っていきました。―――はい。そうです。翔一君、考えを変えてはくれませんでしたけど、氷川さんのおかげで、少しは用心してくれるかも知れません。だから、ちゃんと入れてあげてくださいね」
『そうね。それなら、かわりにあの気に食わない男を、もう一発殴ってきたら、このGトレーラーに入れてあげてもいいってことにしようかしら』
受話器のむこうで、小沢が楽しげに笑い声をたてていた。
fin.2001.5.21
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