無邪気に企んで

 


 靴音高く、廊下を歩く。別に、急いでいるわけでもないのに、無意識のうちに足が急ぐ。
 警視庁の、長い廊下の向こう側から、こんな気分の時には特に顔を合わせたくない男が歩いてくるのが目に入った。
 男と自分との間に曲がる道はない。いくつかの小さな会議室の扉ならあるが、そんなところに用があるわけでもない。誰かが使用しているかもしれないそんな部屋に入るわけにもいかないし、もう向こうからも自分の姿が見えているだろう今ごろになって、まさかわざとらしく回れ右をして駆け去ることも出来ない。
 仕方ないですね。
 氷川は、心のなかでだけ呟いて、歩調を緩めることなく歩き続けた。
 すれ違う寸前に、軽く会釈をする。これだけで、すませてくれるものならば、というささやかな期待はあっさりと打ち砕かれることになった。
 なぜなら、男は氷川とすれ違う寸前でぴたりと足を止め、口許にいつもの非友好的な含み笑いを浮かべてみせたのだ。
「どうしたんですか、氷川さん。随分と、鼻息が荒いようですが?」
「え?」
 そんな調子で話しかけられ、結局は厭味を言われることが常であるのだが、以前、一度だけ言い返してみたことがあった。エリートだと聞きましたが、ひまなんですね、と言ってやったのだ。この男・・・北條透の取り澄ました表情が、一瞬凍ったのを見逃さなかった。はっきり言って、快感だった。それはもう、癖になりそうなくらい。だから、意識して、そのあとはなるべく相手をしないようにと心がけている。なにせ、なにを気に入ってくれたものか、北條は氷川に会うたびに、たいした用もなさそうなのになにかと話しかけてくる。毎度、同じように返り討ちの快感を楽しんでいたら、感動も薄れてしまうだろう。美味しい料理も毎日食べていたら飽きる。こんな楽しいことは、たまにだからこそ、より深い楽しみを味わえるのだ。そう自戒してきたのだが、今日の北條は、いつもとちょっと戦法を変えてきていた。
「まるで、恋人と喧嘩でもしたような顔をしていますよ」
 氷川は、大きな手で自分の両頬を押さえた。
「北條さん、見てたんですか?」
「まさか、冗談ですよ」
 最近、誰も笑えないような言葉のあとで、冗談ですよ、と言って笑うのが北條のマイブームらしい。またかと思いながら、やはり笑うことも出来ずに氷川がかたまっていると、北條は満足そうにひとり頷いてさらに言いつのる。
「しかし、図星だったんですね。勤務中に恋人との痴話喧嘩を引きずっているなんて、不謹慎ですね」
「そんなことより北條さん。もしかしたら、超能力者なんじゃないですか?」
 氷川は、目を輝かせて身を乗り出した。
「なにを言っているんです?」
「もし、今のが冗談ではなく《見えた》せいでしたら、サイコメトリーかも知れませんし、わたしの心を読んだというなら、テレパスでしょう? ならば北條さんを囮にすれば、アンノウンが釣れますよ。そうだ、そう言えば、以前車で逃げたときにも、アンノウンは被害者の妻を狙うよりさきに、運転席にいた北條さんに手を伸ばしていたじゃありませんか! 今からでも遅くはありません。ア ギト捕獲計画改めアンノウン捕獲計画にしませんか?」
 北條は、わざとらしい仕草で肩をすくめた。
「寝言は寝て言ってください、氷川さん」
 と、歩き去りかけて、振り返る。
「そうだ。今のは、冗談じゃありませんからね。反省してください」
 北條は、言いたいことだけ言うと、氷川が口を開くまえに足早に歩き去った。
 ポーカーフェイスを守りきったつもりだったのだろうが、一瞬、囮に出来ると言ったときにだけ、アンノウンに殺されかけた恐怖でも蘇ったのか、肩がこわばったのを、氷川はしっかりチェックしていた。
「楽しみはとっておこうと思ったのに・・・オレ、北條さんに甘えてるのかも知れませんね」
 氷川は、小さくなっていく北條の背中に向かって、そんな言葉をもらしていた。


 さて、それより少しだけ時間を遡る。
 氷川は、美杉邸へ真魚を訪ねていった。彼女の父親の事件のことで、話があったからなのだが、そのあとで、美杉家の居候である津上に声をかけた。彼は、アンノウンが身体に残した金属異物のせいで、もう数時間で死んでしまうかも知れないという局面にあったのだ。
 警察官として、G3装着員として、もしも自分がもう少し早く駆けつけることが出来たなら、このような事態は避けられたかもしれない、という自責の念が氷川にはあった。だから、真面目に体調を訊ねたのだが、津上はまるで自分の死期が近いなどという意識は持っていないようで、いい加減な返事とともにいつもと変わらない笑顔をむけてくる。
 ところが、無農薬だというキャベツを生でどうぞと差し出され、それを断って帰ろうとしたあたりから、ようすが変わった。
 畑で背を向け、もうすぐ死ぬ自分のキャベツが食べられないのかとしゃがみこんでみたり、死ぬ前に一緒に草むしりがしたかったのに、などと言い出すしまつ。それ以前の発言と矛盾しまくっているのは、こんなおおらかな青年でも、やはりもうすぐ死ぬかも知れないという状況下では、情緒が不安定になるのかも知れない。
 氷川は、正義感も責任感も並の人間よりも強い。かなり、融通がきかないほどに、である。
 なので、こんな風に死の恐怖と戦っている年下の青年を置き去りにして仕事に戻ることなど出来なかった。
「さぁ、津上さん。やりましょう。その辺、草はえてますよ」
 と、背中に手をかけると、津上はゆっくりと顔をあげた。
 間近で見たその表情は・・・とても、あと数時間後に訪れるかも知れない死の恐怖に怯えているようには見えなかった。
 ただ、真面目な顔で聴いてきた。
「俺が記憶喪失なのは、知ってますよね?」
「はい。それは聴きましたよ。なにか、思い出せそうですか?」
 津上は、かぶりを振ると、微笑んだ。
「それが、まったくなんにも思い出せないんです。でもね、こうして息を吸ったりはいたりすることとか、畑仕事のこととかね、そういうことなら覚えているんですよね。あとほら、こうやって普通に言葉がでるということは、喋ることも忘れてなかった、ってことですよね?」
「そうですね。たいていは、記憶をなくしてしまったせいで、日常生活に支障をきたすようなことはないようですね」
「そうなんですよ」
 と、津上は勢いこんで、氷川の腕に捕まった。
「それでね、昔読んだ本か見たテレビか・・・情報源は解らないのに、覚えてることもあるんですよ。例えば、神風特攻隊の話とか」
「は?」
 この場に、あまりにそぐわない話題の転換に、氷川は面食らった。
「神風に乗ることが決まっていた空軍の若い将校たちは、自分がその飛行機とともに心中することを知っていたんですよね。それで、神風に乗る前日には春をひさぐ女性のもとにいくのが恒例になっていたとか」
「本当にそうだったかどうかは解りませんが、そんなドラマがあったのかも知れませんね」
 と、氷川はよく解らないながらも無難そうな相槌をうった。
「ところで、氷川さん。人間の三大欲求ってなんだか知ってますか?」
 氷川はちょうど、大きな雑草を引き抜こうと手を伸ばしたところで・・・突飛な質問に驚いて根っこを残して葉っぱだけをむしりとってしまった。
「な、どうして、そんな話になるんですか?」
「だから俺、記憶がなくても食べることは忘れてなかったし、夜になれば眠くなりますし・・・」
 意味深な間をおいて、津上が氷川を見た。
 その瞳が、艶めいて濡れて見えるのは、錯覚ではなさそうだ。
 氷川は、どぎまぎして、また雑草の葉だけをむしってしまう。
「言ってみれば俺も今、神風に乗った将校たちみたいに、もうすぐ死ぬって解ってる身でしょう? でも、現代日本に遊郭なんか存在しない。こういう場合は、どうしたらいいんでしょう?」
 と、津上はしゃがんだままの体勢で氷川との距離をつめにかかる。
 傍らに感じるぬくもりは、氷川になにを求めているというのだろうか?
 氷川は焦って、そこいらにある雑草に手当たり次第手を伸ばすのだが・・・内心の動揺を隠し切れず、どれもこれも、根っこを残してむしってしまう結果となった。
 そんなようすを見ていた津上は、くすくすと笑いだす。最初は、忍び笑いのようなものだったそれは、やがて爆笑に育った。
「す・・・すみません、氷川さん。不器用だったんですよね。のこぎり2本あっというまにおしゃかにしちゃうくらい」
 笑いすぎて腹筋が痛いのか、津上は腹を押さえながら言った.。
 あれは、器用に大工仕事をこなす津上に対抗意識を燃やしてしまい、少しでもいいところを見せようとした結果だったのだ。などとは、この場で言えるはずもない。
 身の置き所もなく、戸惑ったまま手を止めてしまった氷川に、津上はいつもと変わらない無邪気な笑顔を向けてくる。
「忙しいのに手伝ってくれて、ありがとうございました。でも、大事なお仕事があるんでしょう? もう、勤務に戻ってください。俺は多分、大丈夫ですから」
「そ・・・それじゃあ」
「あ、氷川さん、それはあんまりあっさりし過ぎじゃないですか。もう少し名残惜しそうにしてくれてもいいのに」
 思わずほっとした表情を読まれてしまったらしい。そそくさと立ち上がろうとしたのも、よくなかったようだ。津上は、またしゃがみこんで膝を抱えた。
「なにかあったら、電話してください。なにを放り出してでも、すぐに駆けつけますから」
 氷川が津上の肩に手を置いてなぐさめるように言うと、津上はその手をがしっと握って、すがるような瞳を向けた。
「ありがとう氷川さん。俺が、本当に死にそうになったときには、きっとそばにいてくださいね!」
「もちろんです」
 思わずの即答は、邪気のない満開の笑顔にほだされたせいだった。
 けれど。
 氷川の返事を聴いたあとの津上の瞳は、ひどく危うげな色を映していた。それが無防備で、推定年齢より幼くさえ見える笑顔であるのには、変わりがないのに―――。
 そんな無邪気な笑顔の影で、君はなにを企んでいる?
 うろたえた自分の気持ちを心で叱りつけながら、氷川は警視庁に帰った。
 すっかり津上のペースにはまって、翻弄されまくってしまった。どうして、彼のまえでああも冷静でいられないのだろう? 彼は本人が言ったように、本当に大丈夫なんだろうか? と、あれだけいいように遊ばれたあとでも、離れてみると心配で心が波立つ。
 氷川はコントロールのきかない感情をもてあまし、理解不能な状況に、気持ちが焦る。
 そんな焦燥を抱え込み、急ぎの用もないのに警視庁の廊下を早足で進み、あの北條と出くわすのは、それからすぐ後のことであった。

 

fin.2001.5.16
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