Project A★I

 


 副作用。という言葉が脳裏を過ぎる。そう、これはきっと副作用なのだ。悪夢は―――まだ、終わってはいない。
 人工知能に翻弄され、意識のないままに、無茶苦茶してしまったあの日から、氷川はずっと自分自身に違和感を覚えていた。しかし、その漠然とした違和感がどのようなものであるのか、うまく言葉で説明することも出来ないまま、内心の不安を押し隠して職務を遂行してきた。
 しかし、その違和感は、日増しに募っていくようなのだ。
 その感覚に、無理矢理言葉を当てはめるとしたら、恐らく「飢え」といったものではないだろうか。ひどく、なにかに飢えているという感覚。あえて似たような感覚を、記憶から探りだすとしたら、それは、学校にとても好きな同級生がいるときの日曜日、といったところだろうか。
 氷川は、そこまで自分の感覚を分析してきて愕然とした。
 それではまるで、自分は、誰かに会いたくて飢えているとでもいうようではないか。
「これは、確認しないと」
 氷川には、実は心当たりがないではなかった。ただ、それを事実として認めるにはかなり抵抗を感じてもいた。むしろ、何かの間違い。少々疲労のたまってしまった自分の妄想の類であってくれればいいと、心から願っているのだった。


 ドアを開けた瞬間、氷川の顔を見るなり、彼は全開の笑顔を咲かせた。
「いらっしゃい、氷川さん。丁度いいところに来ましたね。今、新作のケーキが焼きあがったところなんですよ。さぁ、どうぞ」
 そう言って津上は氷川を招きいれた。
 すぐにそこいらの街のケーキ屋がはだしで逃げ出しそうな見事なチーズケーキがテーブルのうえに運び込まれる。夏を意識してか、切り分けられたそのケーキのうえにはご丁寧にもジェラートがそえられている。そして、香りたかい紅茶も。
 津上は、ちょっと心配そうな表情で氷川の顔をのぞきこむ。
「氷川さん、なんか疲れてるみたいですね。そんなときには、甘いものを食べるといいんですよ。だから、たくさん召し上がってってくださいね」
 ね、と少しだけ甘えるような声をきかされ、氷川は絶望的な気持ちで悟るしかなかった。
 明らかに心臓がはねあがったのを自覚した。どきどきと脈打つそれが、歓喜に踊っているのが解る。
 これはもう、認めるしかないのだろう。
 自分は・・・ずっと彼に会いたかったのだ。
 愕然としながらも、目はずっと津上のことを追いかけている。
 自分で作ったケーキを、美味しそうに頬張っているところ。受け皿ごと手にした紅茶のカップを口をとがらせて息を吹きかけ冷まそうとしているようす。そうして、動かない氷川に気がついて、その視線だけがこちらを向き――目が合ってしまった。
 頬に血がのぼるのを意識して、急いでそっぽを向いたが、遅かった。
「照れるなぁ、氷川さん。俺に見蕩れたりして」
 津上はおどけたようすで、頭に手をやる。不自然な行動を、すべて冗談にしてくれようというのだろう。けれど、図星を指されて氷川は固まってしまった。
「『そんなわけないでしょう!』って、どうして言わないんですか? いつもの氷川さんなら、すぐにムキになって言い返してくるのに」
 津上の声には、本気の心配がにじんでいる。氷川のようすがおかしいことで、津上もいつものペースではいられなくなったのかも知れない。
「もしかして、熱でもあるんじゃ」
 と、立ち上がり、津上の手が氷川の額に伸びる。
 焦った氷川は、それを遮り・・・その手を咄嗟にに握ってしまった。
「津上さん、あのっ・・・」
 深刻な表情で、手を握ってしまったものの、二の句が継げず、氷川は固まってしまった。
 訝しそうに津上もまた、そのままの体勢で氷川の瞳を見返している。
 見詰め合う恰好になってしまった。そのとき。
 電話が鳴った。
 はっとして氷川が手をはなす。津上は、急いで受話器をとった。
「ああ、先生。え? 今日は外で・・・そうですか。はい・・・・・・解りました」
 背を向けて喋るその肩が、心なしか下がっているように見える。
 受話器を置いて振り返った津上は、無理に笑って言った。
「先生、会議が長引きそうだから今日は、外で食べてくるんですって。そう言えば氷川さん、先生にご用じゃなかったんですか?」
「いえ、今日はそういうわけでは」
 氷川は、自分の気持ちを打ち明けてしまえば楽になるだろうかと、逡巡した。君に、会いたかったんです。それで、会いにきました、と。さっきのような、淋しそうな背中を見せられたら、たまらないと思ってしまう。もう、どっちみち自分の今日の態度には不審を抱かれているに違いないのだ。いっそのこと、全部本当のことを話してしまったほうがいいのではないか? と。
 しかし、そんな氷川の内心の葛藤を知らない津上は、無邪気そのものだった。
「あ、じゃあ、もしかして真魚ちゃん? まだ、帰ってきてないんですよ」
 と、言ったところで再び電話のベルの音が鳴り響いた。
「噂をすれば、かな」
 と、言いながら津上が受話器をあげる。
「はい。あ、やっぱり真魚ちゃん。え? そうなの? ・・・そう。じゃあ、遅くなるようだったら、帰るときに電話して。迎えに行くから。ね、絶対だよ」
 そしてまた、どこか淋しそうに受話器を置いた。このようすでは、真魚も夕食は外でとってくるという連絡だったのだろう。しかし、この家には確か教授の小学生の息子もいたはずだ。早くしないとあの子が帰ってくるかも知れない。告白するのなら、今をおいてないかも。
 と、気負う気持ちを察したわけではないだろうが、脱力したようすでソファにどかりと座った津上は残念そうにキッチンを振り返りながら言った。
「あーあ、せっかくはりきって下ごしらえしてたのに、真魚ちゃんも友達と一緒にご飯食べてくるって。今日は、太一も塾だからって、さっき軽食だけとって出かけちゃったし」
 溜め息混じりの呟きは、どう考えても氷川に聞かせようとしてのものだっただろう。
 チャンスだ。と、心の奥で囁く声がある。当分二人きり。しかし、これはきっと副作用だ。こんな気持ちは一過性のもので、治ればどこかへ消えてしまうものに違いない。余計なことを言ってはいけない、こらえるんだ。という、声がまた片方から聞こえる。二つの相反する主張に、頭が割れそうになる。
 氷川は、両手で頭を押さえて俯いた。その額からは、冷や汗がしたたり落ちる。
「氷川さんっ。やっぱり、具合悪いんですね」
 驚いた津上が、絨毯に膝をついて、氷川の膝に右手をかけて、左手でその額に触れようとした。
 こんどはその手を掴むよりも、間近にある両肩に、氷川は手をついた。
「津上さん」
 現状把握が出来ないでいる津上は、至近距離で真剣な表情で見詰められてもまだ、そのやさしい瞳に心配そうな色しか浮かべていない。
 そのとき、今だ。チャンスだ! という声が勝って、氷川は両手で津上を引き寄せた。その唇が津上のそれに触れようとした、その瞬間に――。
 みたび、電話のベルが鳴った。
 氷川がなにをしようとしたのか、解らなかったはずはない津上だが、何事もなかったように氷川の腕から抜け出して受話器を取った。
 今度は塾に行っているという太一だろうか? と思ったのだが、津上の受け答えは、少々ようすが違っていた。
「いいえ。お坊ちゃんだなんて、そんなもんじゃありません。え? ご主人。まさか、まだ独身ですよ。ええ。はぁ、そうですか・・・」
 振り返った津上は、頭をかきながら、苦笑している。
「あら、ごめんなさい。霊園のご案内だったのよ、ごめんなさいねー。ガッチャン」
 と、一方的に電話を切られた音のまえには、女性の声真似までして内容を教えてくれた。
 緊張がすっかり解けた氷川は、その場にへたりこむ。
「あ、氷川さん。大丈夫ですかっ!」
 警戒するようすもなく、津上はまた氷川に駆け寄った。けれど。すっかり魔法が解けたように、衝動的な思いは去っていた。もう、頭のなかで囁く声も聞こえない。
「いえ、なんでもありません。ケーキ、ご馳走さまでした」
 氷川は、調子のいい電話のセールスレディに心から感謝していた。


 氷川が帰っていった美杉家に、四度目の電話が鳴った。
「はい、あ、小沢さん。ええ、氷川さんなら今帰りましたよ。・・・そうですね、ちょっとようすがおかしいみたいでしたけど。進展って? なんのことです? 別に、なにも。押し倒されなかったかですって? まさか、そんなはずないでしょう。ええ。失敗? なんですか? 小沢さん、AIになにを仕込んだんです? それはちょっと、氷川さんが可哀想じゃないですか。そうですよ。どうせ仕込むなら、逆で是非。そう、俺がせまっても喜んでくれるようにね、ええ。そのほうが、あの真面目な氷川さんが罪悪感を感じなくてすみますよ、きっと。ね」


 

fin.2001.7.8
プラウザbackでお戻りください