空に泳ぐ

 


 せっかくのゴールデンウィークなのに、生憎の雨であったり、ひどく気温が低かったりした中盤から、どうにか持ち直し『こどもの日』は、あたたかくいいお天気に恵まれた。
 けれど、今時のお子様である太一は、この日の主役であるなどという自覚は皆無である。
 庭に鯉のぼりをあげたり、新聞紙で大きなかぶとを折ったりして、やたらと楽しそうなのは、実年齢が確定しないまでも、推定「元・子供」である津上のほうだった。
 頭に大きな新聞紙のかぶとをのせて嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う姿を見て、真魚は溜め息混じりにもらす。
「翔一君、そういうことはしっかり覚えてるんだね」
 本日、5月5日がなんの日であるのか。そうして、この日には子供たちはどんな風に過ごすものであるのか。鯉のぼりを掲げることや、五月人形なるものを飾る習慣があること等など。彼がなくしてしまった記憶は、主に彼自身のことであり、歩く、寝る、喋る、などという人間として基本的な動作から、歯を磨く、顔を洗う、掃除や洗濯をする、といった日常生活に関することについては、ほぼ人並みか人並み以上の記憶を有しているようだ。端午の節句に関しても同様で、今日は朝からいつも以上に、テンションが高い。
「そうだ、翔一。押し入れの奥のほうにオレの五月人形がしまってあるよ。飾りたければ飾ってもいいよ」
 太一のほうは、もうそれが嬉しいほどの子供ではない、とでもいいたそうな口ぶりである。実際、五月人形などというものは、子供自身のためというよりは、両親や祖父母、そして浅草橋界隈に多くある人形店などのためにあるようなものだろう。人形にこめられた思いなど、今時のお子様ではなくて少々前にお子様だった世代にさえ、理解されないものになってしまっている。
 それでも、津上は目を輝かせる。
「そうなんだ。じゃあ、探してみよう」
 美杉家の掃除を一手に引き受けているだけのことはある。「押し入れの奥」というヒントだけで、津上は五月人形を即座に見つけ出した。
 桐の箱にしまわれたそれは、白い紙でくるみ、丁寧に保管されていた。
 津上は箱から取り出したガラスケースを渇いた布で綺麗に磨き上げ、それから嬉しそうに白い包み紙を開いて人形を飾った。
 手伝うでもなくその脇で膝立ちして、真魚はそんなようすを見ている。
「翔一君、それ見て懐かしい?」
 もしかしたら、彼も子供の頃には、自分のを飾ってもらっていたのかも知れない。
 けれど、津上は人形を見ながら首を傾げる。少しだけ真剣に考えるようすを見てとって、真魚は期待をこめて身を乗り出す。
「うーん、思い出せないから、考えるのは、よしとく・・・ぷぷっ、なーんちゃって」
 よしとく―――太一の人形がそのメーカーのものであったための、いつもの駄洒落だ。
「あ、風が出てきたみたいだよ。ね、鯉のぼり見てこよう」
 真魚は聴かなかったことにして、窓のほうに目をやった。
 庭木が揺れているのを見て、津上の袖を引っ張る。朝一番で畑の世話をするために庭に出た津上は、せっかくあげた鯉のぼりなのに、風がなくてつまらないと言いながら朝食を作っていたのだった。
 真魚と津上は連れ立って庭に出る。
 勢いよく吹く風にのって、鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいた。
 それを見ながら、誰もが知っている鯉のぼりの歌をひとしきり口ずさんだ津上は、真魚に向かってちょっとだけ自慢そうに話す。
「真鯉って、別に雄の鯉って意味じゃなくて、黒い普通の鯉のことなんだよね。緋鯉は、お母さんとか歌われてるけど、やっぱり別に雌って意味じゃなくて、赤い鯉のことでさ」
「ふーん、翔一君、そういう記憶はちゃんとあるんだ」
 と、感心したように言いながら、真魚はさっき袖口を引っ張ったときに見えてしまったイメージを思い出す。
 分厚い本の薄い紙をめくる指。紙に印刷された細かい文字。
「と、思ったけど、さっき叔父さんとこから辞書借りてたよね」
「いやぁ、気持ちのいい風だなぁ。こういうの薫風とか言うんだよねー」
 それもまた、辞書で得た知識であるのか、どうなのか。すっかり都合が悪くなると話を変えにかかる津上に、真魚は姉のようなやさしい笑顔を向ける。しょうがないなぁ、この子は。とでも、思っているようだ。
「こんにちは」
 そこへ、律儀に深々と頭を下げて挨拶しながら、入って来たのは警視庁の長身の刑事だった。
「あ、氷川さん。いらっしゃい」
 真魚と津上が、声を揃えて挨拶を返す。真魚の能力を知る氷川刑事は、彼女がまた狙われるのではないかと懸念して、津上の身体が無事だと解ってからも、度々美杉家に足を運んでくる。今日も、玄関に立ったところで、真魚と津上の話し声が聴こえたので、庭に回ったということらしい。
 庭に立った氷川は、まぶしそうにそれを見上げ、端正な顔をほころばせる。
「鯉のぼり。随分大きいし、たくさんあるんですね」
「そうでしょう。俺があげたんです」
 津上は、大きさや数の多さすべてが自分の手柄であるかのように胸をはる。
「あれが先生で、そのしたで泳いでるのが先生の奥さん。それから、そのしたのちょっとだけ小さいのが俺で、そのしたにある赤いのが真魚ちゃん。で、もう一回り小さくて青い、あの元気のいいのが太一です。・・・と、まだ余ってるなぁ」
「決まってるんですね」
「はい。俺が今決めました。あ、そうだ」
 いいことを思いついた、というように津上は嬉しそうに手を打って。
「あの、したのほうのは、氷川さんにしてあげます」
 と、余ったうちの黒い小さな鯉を指差して、氷川に向かって全開の笑顔を見せる。
 だが、氷川は不思議そうな表情で、そんな津上を見返す。
「何故ですか? あんなに小さくはないと思いますが」
 氷川は、美杉教授や津上よりも長身である。だからと言って、他人の家庭の鯉のぼりの一番大きな父親役をと思っているわけではないだろうが、太一だと言った鯉よりもなお小さな鯉を指差されたのは解せなかったようだ。
「だってほら、おくゆかしいようすで、身体をピンとはって、誠実そうなところが、氷川さんって感じでしょう?」
 単に小さいとおくゆかしいのかどうかはさておき、指摘されてみれば、その鯉の風になびくようすは、ほかのよりも直線的に見えなくもない。
 それでも、いまひとつ釈然としないようすの氷川と、配役を決めて満足そうな津上。その場に流れる微妙な空気を読み取ったのか、真魚は不毛な会話を断ち切るように津上の腕を叩く。
「翔一君、つまんないこと言ってないで、氷川さんにお茶、お茶」
「そうだね、真魚ちゃん。どうぞ、氷川さん。おいしいケーキもあるんですよ」
 真魚の誕生日以来、すっかりケーキ作りに凝っている津上の自信作である。こどもの日などというイベントがあってもなくても作るのだが、やはりこうした口実がある日はことさら腕によりをかけるようだ。ワンポイントに芽キャベツなどが乗っていなければ、そこいらのケーキ屋で売り物にしてもおかしくないくらいの出来栄えである。
「いえ、すみません。ちょっと仕事の途中で立ち寄っただけですから、今日はこれで」
「そうですか。それは残念です。また、来てくださいね」
 案外あっさりと、津上はそう言って手を振った。
 氷川は、命を盾に脅されることもなく、あっさり解放されたことに安堵したようすで、帰っていった。


 氷川の車が走り去る音が聴こえなくなった頃、真魚は津上を見上げ、それからまた鯉のぼりに視線を移して言った。
「あれが、翔一君には誠実そうに見えるの?」
 鯉のぼりのたなびきかたに、誠実もなにもないんじゃない。と、思った言葉を氷川のまえでは、口にしないでおいたのだろう。
「いやぁ、ホントはさぁ、なんか不器用そうな泳ぎかたしてるなぁって思ったから」
 実際、氷川だと指差したそれだけが、サイズの問題なのか、カットのバランスが悪かったのか、はたまた素材の影響なのか、ほかの鯉のように勢いよくたなびかず、ぎこちない動きをしている。
 それを改めて眺め、生真面目で騙されやすい長身の刑事を思い出したのか、津上はくすくすと笑いをもらす。
「そうだ。あれのこと、これからマコちゃんて呼ぼう」
「何言ってるの。今日限りでしょう。明日になったら片づけるんだからね」
 こどもの日は、今日なのだ。当然、それを過ぎてまで鯉のぼりを掲げている家などない。
「そっか。残念だなぁ、せっかく名前が決まったのにマコちゃん・・・くっくっ」
 雲ひとつない晴天の空に泳ぐ《マコちゃん》に、津上はとても楽しげに呼びかけ、またひとしきり笑い続けたのだった。

 

fin.2001.5.5
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