byりか
50話での補完(?) とりあえず氷川&翔一編で
「可奈さんっ!」
店から駆け出す同僚の背中に向かって叫んだ翔一の横に、見慣れた乗用車が横付けされた。運転席から降りてきたのは、氷川誠である。まずい所を見られてしまった…と、反射的に思ってしまったのは、自分が女の子を見送っていたことを彼が何か誤解してしまったのではないか? と瞬時に考えてしまったからだった。
しかし、氷川はいつもとまったく変わりなく、翔一に微笑みかけながら会釈をしてくれた。ほっとすると同時に、少しだけ…がっかりもした。やきもちも焼いてくれないのかと思うとなんだかとても残念な気分になってしまった。
「どうしたんですか?」
「ア、いえ実は…、その。少し、お時間、良いですか?」
いつになく緊張している様子なのが声からもわかった。ちょっと待っていてくださいといって、オーナーに断りを入れようと店に駆け戻る。
「…彼か?」
窓から外に立っている氷川を見下ろして、オーナーがわずかに眉を寄せる。
「…あとで、私も話をしてみたいから、また店につれてきなさい」
「は、はい」
何を話したいのだろうと思いつつも、翔一はすぐに頷いて氷川の元に駆け戻った。
そうして、近くの公園の前で翔一は氷川が香川に戻るのだと聞かされた。
「香川に? そんな、じゃあG3-Xはどうなるんですか?」
「…それは…」
言いよどむ氷川の表情から、昨夜のことを思い出す翔一。G3を装着していたのは北條と…もう一人あまり覚えのない若い男性だった。彼らがこれから氷川の代わりにG3を装着するのだと、漸く納得する。夕べは、氷川に何か事情があって動けなかったのかと思ったのだが…そうではなかったらしい。
「それで、津上さんには一言お礼を言っておこうと思いまして」
「そんな、やめてくださいよ、俺と氷川さんの仲じゃないですか、他人行儀だなぁ」
「…いや、その…」
他人じゃないですか、と言いそうになったがしかし、翔一が自分を大切に思ってくれているのだとわかって嬉しくもなる。
「いつか、ちゃんとアギトの会をしましょうね」
「僕は、補欠ですけどね」
苦笑して答える氷川に、翔一はまたニッコリと笑って頷く。
「正式会員にして上げますよ、特別です」
「…ありがとうございます」
ニッコリと笑いあいつつ、ほんわかとした空気を感じる。北條やその上の人間が、どうしてアギトが人間の敵になるのだと思うのかがわからなかった。
津上翔一は津上翔一のまま何も変わらない。記憶を取り戻しても、働き出してもずっとこのままのような気がする。どんなに強いアギトになっても、彼の笑顔はそのままであるのだから、決して人間が恐れる必要はないのだと―心からそう思える。いや、感じているのに、どうして他の人間にはわからないのだろうと…不思議だった。
「津上さん、これからはアギトは辛い時代になるかもしれませんよ」
「?」
「…その…詳しいことは言えないのですが…」
首を傾げる翔一に、警察内部の決定を細かく伝えることは出来ないが…しかし、出来るならそばにいてずっと彼の力になりたいと思ってしまった。彼のことを誰も理解できなくても、自分ならば出来る。…自分なら、彼の支えになれるかもしれないと思ったのだ。
そのことを言葉にしようとしたときに不意に翔一が何かを思いついて氷川の手を取った。
「あ、そうだ! 津上さん、おなかすいてませんか? さっきオーナに、店に来いって言われていたんです。俺の作った料理も出しますから、ぜひ帰りによって行ってください」
「は…はぁ…」
時計を見れば、すでにランチタイムは終わっている。店の邪魔にはならないだろうが、しかし良いのだろうかという気がした。長く翔一と付き合っていた中で培われた『勘』が何か良くないことが起こりそうな警鐘を鳴らしている。
「まぁまぁ。遠慮なく来てください、ね?」
ぐいぐいと腕を引っ張られ、結局店に案内されてしまう氷川。夕方の仕込みの時間であるので店内には他に客は居なかったし、もう一人の若いシェフも休息に出ていた。
「警視庁の、氷川誠警部補です。こっちに来てから凄くお世話になっていたんですけど、今度香川に戻るそうなんで、挨拶に来てくれたんです」
ニコニコと笑いながら、翔一はオーナーシェフと氷川を引き合わせる。妙に緊張した面持ちで氷川は厳しい表情の翔一の雇い主と対面した。
「香川に? 左遷ですか?」
「せ、先生、そんなはっきりと…。違いますよ、もともと氷川さんは香川の人なんです。それで、今回部署が変わって…」
「ふむ」
ズバズバというオーナーの言葉に、翔一が苦笑しながらフォローを入れてくれた。しかし、左遷というのはあながち間違っていないので、氷川は大きな体をすっかり萎縮させてテーブルの前に座ることになってしまった。
「香川という事は…うどんが好きですか?」
「は? あ…ええと…特に、好きというわけではありませんが」
「魚介類は?」
「そちらも、大丈夫です」
オーナーがどっしりと氷川の前に座って、腕組みをしながらいろいろと質問をしている間に、翔一はまかない料理と自分の新作料理を仕上げに厨房に入ってしまっていた。軽快な包丁の音やフライパンを使う音が聞こえてくる。これは、美杉家に居るときと同じ音だった。そこに翔一が居ると実感できる不思議な音。
「警察は、―」
つい、翔一のことに気を向けていて、目の前の男のことを忘れかけていた氷川に、低くしっかりした声で話しかけられた。慌てて意識を戻すと、さっきよりももっと険しい物騒な気配で、オーナーが氷川を睨んでいた。
「不祥事にはことのほか厳しいですね、特にプライベートなことは」
「は…はぁ…」
「今回、部署が変わったというのは―あれのせいですか?」
あれ=翔一だとすぐにわかった。たしかに、翔一の存在が関係ないわけではないが…しかし、彼のせいではない。
「津上さんは、関係ありません。これは…警察内部の決定ですから」
「…そうですか」
氷川の返事に、一応納得した様子でオーナーは腕組みを解く。そうして、今度は膝に手を置いて少しうなだれながら、とつとつと語り始めた。
「あれは、本当にいい奴なんです。たった一人の姉を亡くしてからも、一人でがんばってきたし、料理の腕もいいし、家事も万能だ。そこいらの今時の若い女達に、爪の垢をせんじて飲ませてやりたいくらいだ」
「は…はぁ…」
実際に翔一の家事能力の高さを知っている氷川は素直に同意した。
「出来るならもっと仕込んで、あいつにも店を持たせてやれるようにしてやりたかったが…まぁ、これも運命なんでしょうなぁ」
「…?」
感慨深い様子の彼に、ふと先ほど感じた危険の警鐘が再び鳴り始める。ちょうどそこに、翔一がいくつかの料理を運んで持ってきた。十分ほどで出てくるには充分すぎるほどの料理である。
野菜たっぷりのポタージュや、香ばしいハーブの香りのチキンと白身魚のグリル。胚芽小麦のパンはガーリックトーストに仕上がっているし、さらに普段の野菜不足を補っててもらおうとするようにキャベツととり皮の温かいオリーブオイルサラダもある。色とりどりの皿を前にして、オーナーはますます満足そうに大きく頷いた。
「どうぞ、残り物ですがちゃんと手を加えてありますし、もともとは先生の味なんで、きっと美味しいですよ」
「は、いただきます」
出されたものは綺麗に食べるのがしつけられている氷川は、少々ぎこちないながらもナイフとフォークをうまく使って料理を食べ始める。
「美味しいです」
どれを食べても、まず最初にそう褒めてからパクパクと食べる氷川を見て、幾分オーナーの表情が緩んだ。そうして、皿が綺麗に片付いて、デザートのバニラアイス添えのアップルパイと落としたてのコーヒーが人数分届いたところで、やおら翔一に一冊のノートを差し出した。
「これは、俺の長い間に書き溜めたレシピ集だ。持っていくといい」
「え?」
「向こうの知り合いで、店をやっている奴にも声をかけてやるから、仕事のほうは大丈夫だ」
「オーナー?」
何を言われているのか首を傾げる翔一。そうして、背中に脂汗が流れ出す氷川。
「世間の目は厳しいだろうが…大丈夫だ。お前なら乗り越えられる、お前はだから彼のそばで彼を支えてあげるんだ、いいな」
「ええと…オーナー…それって、俺と氷川さんが…」
「一緒に行きたいんだろう? 香川に」
オーナーの問いかけに、翔一は一瞬息を飲んだが、しかしすぐに頬を赤くして小さく頷いた。いつもは豪快に笑う翔一の、繊細な反応は逆にリアルに見える。
「あ…あの…」
氷川は嫌な予感が的中したことに驚いたままで、すぐには訂正の言葉が言えなかった。
「お前の保証人から好きな人が居て、それが警察官だって言うのは聞いていたがな信用してなかったんだ。しかし、彼なら大丈夫だな」
『ちょっと待ってください、保証人というのは…美杉教授…?』
口をパクパクさせて言葉が出てこない氷川。
「一生日陰の身で構わないとお前が言っていたと聞いたときには、相手がどんな奴なのか気が気じゃなかった。もしも、お前の純情を踏みにじっているのなら、逢ったらぶっ飛ばしてやろうと思ったが…。どうやら大丈夫そうで、安心した」
目頭を濡らしつつ翔一を見つめるオーナーの瞳は真剣だった。美杉教授以上に翔一を我が子のように可愛がっているらしい。
「オーナー…そんなに俺のことを心配してくれてたんですか…」
「ああ、お前は本当に優秀な生徒だったからな…、応援する。二人のことを納得するにはまだ時間がかかるが…、あんた」
ぎろりと氷川に視線を戻し、睨んでくる。一瞬、ぎょっとする氷川はまた口をつぐむしかなかった。
「こいつを、泣かせるようなことがあったら、タダじゃおかないからな」
「うっ…あ、あの…」
瞳の力のあまりの鋭さに、氷川は完全に飲まれてしまった。警察官の自分が、シェフの迫力に負けてしまったのだ。完敗だった。
「香川はなかなかいい食材がそろっている。まず、魚介類が…」
「はい、はい」
小さくため息をつきながら、氷川は香川の実家に「嫁」を連れて帰ることになったのを報告しなくてはいけないとぼんやりと考えていた。朱に交わって赤くなってしまった氷川だった。
―END―
2002.1.24
PS―きっとこうしているうちに、あの見習い女シェフは飛び降りちゃうんだろうなぁ。きっとそのときには本物津上が助けるだろうから、まぁいいやぁ…って事で。