はじまりの予感
byりか


 吹きすさぶ湖の風の中、華やかな笑顔がそこにあった。
「世界はこんなにも綺麗じゃないですか!」

 にこやかに微笑んでいた顔に、思わずこぶしを入れてしまった。地面に転がった彼はかなりびっくりした顔でこちらを見上げていて、しかし次の瞬間にはバイクに乗ってその場を駆け去ってしまった。
「あ…」
 反射的にしたことだったので、謝る時間はなかった。もう一度会えたら…そうしたら…ちゃんと謝りたいと…思った。なんとなく、彼とは―初めて逢った様な気がしなかった。
「翔一君なら大丈夫です」
 一緒にいた少女がそう断言する。その自信と確証はどこから来るのだろうと思ったが…しかし、確かにそのとおりだったのだ。


「こんばんは!」
 アパートの玄関に、彼は立っていた。湖で別れて以来…まさか再会するとは思っていなかった相手に、正直幻か…と疑ってしまう。
「何故…? きみがここに?」
「美杉教授に聞いたんです、真魚ちゃんが見覚えのある人だって言って、それで教授から大学の学生簿の中にあった住所を調べてもらいました」
「俺は、大学は…もう…」
「エエ、伺いました。事故で水泳が出来なくなって大学を辞めたんだって。すみません、俺 葦原さんにそんな事情があるなんて思ってなかったから、あんな簡単な風に言っちゃって。後で、真魚ちゃんにも叱られました。皆が翔一君と同じ能天気というわけじゃないのよ!って」
「…はぁ…」
 本当に悪いと反省しているのかと疑いたくなるような笑顔をしたまま彼、翔一は真っ直ぐに葦原涼を見詰めてきた。余りの真っ直ぐな視線に、居たたまれない思いがして目を伏せてしまう。
「…用件はわかったから、じゃあな」
「あ、まってください! 待って!」
 扉を閉じようとした時に慌てて足と手を差し入れる翔一。
「あの、俺…思うんですけど、やっぱりそれでも世界は凄く綺麗で楽しいところだと思うんです」
「……」
 そうしてあのにっこりと笑った顔で涼に再び喧嘩の原因となった言葉を続けた。眉を寄せて怪訝そうな顔になる涼に、翔一は更に畳み掛けた。
「僕が、それを葦原さんに証明して見せます!」
「…証明?」
「はい! 証明です、世界が凄く綺麗で、楽しくて…生きているのが嬉しいんだって事を知ってもらいたいです!」
 この間の少女と言い翔一と言い、一体どうしてこれだけはっきりと物が言えるのか、涼はその事の方が不思議だった。それに…どんなに手を尽くしても、自分が再びこの世界に希望を見出す事なんてできないだろう。本当の、自分の「正体」を知ってしまったら、きっと彼だって…こんな事は言えないはずだ。父親の様に慕っていたコーチでさえ、逃げ出した。心を通わせていたはずの恋人も―自分の存在に脅え、拒否した。家族のいない涼にはもう心を許せる人間はこの世では一人もいなかった。
「と言うわけで、まずは中にいれてくださいね」
「お、おい?」
 怪訝そうな顔をしている間に、翔一はぐいぐいと強引に部屋の中に入り込んできた。
これ以上どんなに押し出そうとしても無駄だろうと察した涼は、さっさと翔一のやりたい事をさせてから部屋から追い出す事にした。どうせどんな事をしたって、自分のこの絶望感を救ってくれるものなどないのだからという、諦めの気持のほうが強かった。

「わぁ、全然使っていない台所ですね。葦原さんは料理なんてしないんですか? もとスポーツマンだったら、健康管理はちゃんとしないといけないじゃないですか」
 部屋の中に入った翔一は、勝手に台所に入り込んで見渡し、好き勝手な感想を言ってから手にしていた買い物袋の中身を取り出した。肉や果物が出てくる。ついでに調味料の内容を確認して 手近なチラシの裏にさらさらと何事かを書き込んでから、涼に押しつけてきた。
「ハイ、じゃあこれだけの物を補充したいので、買ってきてください。その間に下ごしらえと…掃除もしておきますね」
「な? なに?」
 困惑して戸惑う涼を押し出す様に、翔一は早速持参してきたエプロンをして腕まくりをすると、作業にかかった。結局有無を言わせない、明るすぎる強引さに押される格好ですごすごとメモを持って部屋を出ることになった。どうやら彼は料理を作って、掃除をしてくれるつもりらしい。男の家事仕事…でどうせ大した事は無いだろうとそんなに期待をしないで涼はもう少しだけ、彼に付き合ってやる事にした。翔一の強引さは、不思議とそれほど不快ではなかったのだ。

「―ぉ…ああ…?!」
 やがて頼まれた香辛料を買ってきた涼は、部屋に一歩入るとそこが自分の部屋とは思えないほど綺麗に片付いていて驚かされた。元々そんなに物は置いていないほうだったと思うが、ここ暫くのごたごたで掃除らしい事をした記憶はなかった。しかし今の部屋は、読み散らかしていた雑誌や新聞をきちんとまとめられ、掃除機と雑巾がきちんとかけられたフローリングの床が輝いている。窓もピカピカと磨き上げられていて、午後の日差しが部屋中に差し込んできていた。早速、翔一がキッチンから出迎えに現れ、新しい買い物袋を受け取った。
「ア、お帰りなさい。頼んだもの、解りましたか? じゃあ、ちゃっちゃとお茶でも入れますね、ア。あははは」
 どうやらギャグのつもりだったらしく、一人で笑いながらキッチンへ戻っていく。彼がかなり本格的に家事をこなすのだとわかって、涼は愕きながらリビングのソファに腰を下ろすと、タイミング良く急須と湯のみを持って戻ってきた。
「美味しいお茶を入れますから、ゆっくりしてくださいね。―って、はは。ここはもともと葦原さんの家でしたよね、すみません」
「……」
 ニコニコしながら翔一は時間かけてゆっくりとお茶を蒸して、そうして湯のみに注いでくれた。そんなに高いお茶ではなかったはずだが、こうして本格的にいれると、それは嘘の様に美味しく仕上がっていた。
「…美味い…」
「そうでしょう? こうしてちゃんと入れるとお茶も美味しいんですよぉ。じゃあ、俺食事作ってきちゃいますね。嫌いなものはないですよね?」
「ア…アア。特別には…」
 はぁーいと、元気良く返事をして、翔一は再びキッチンに戻っていった。狭いシステムキッチンは一人暮しの男性用で今までほとんど使ったことのないような状態だった。元の恋人も、ここまでやってきて料理を作ってくれるほどではなかったし、勿論掃除だってしてもらった事はなかった。
「結構…やるんだな…」
 自分と同じ様な年齢のはずだったが、こんなにも家庭的な男性と言うのは初めてだった。大学の同級生にもこんなタイプはいなかった。何から何まで、あの津上翔一という男は…涼の交友半径の中にはいないタイプだった。
 
「凄いな…これは…」
 一時間程してから、涼はダイニングキッチンのテーブルの上に並んだ美味しそうな食事の数々に息を飲んだ。それは高級と言うのではないが、家庭的な野菜をメインにした彩りの良い物ばかりだった。
「ハイ、これが豚肉と春キャベツのスープ煮。レンコンの辛子挟み揚げと、ピーマンとサーモンのマリネ風、白菜とグレープフルーツのサラダにふのりのお味噌汁。後、特製の出し巻きも作ってみました、どうです?」
「全部一人で?」
「はい、そうです! 味も保証しますよ、後…これはとっておきの、大根の漬物! これだけは家から持ってきました。俺が作った大根で漬けたんですよ、氷川さん…あ、家に来る知り合いなんですけど、美味しいって言ってくれているんで味も保証付きです!」
 ニコニコと全開の笑顔を見せながら、次々と料理の説明をして見せる。漬物の下りでは聞きなれない名前が出て来たが…、どうもその一瞬から察するに彼は、その氷川さんと言う人間にかなりの好意を持っているのが感じ取れた。もしかしてあの少女の事かとも思ったが、イメージではない…。誰かまだ他の誰かなのか?と少しだけ気になった。
「ふぅん…」
 わざと気のないそぶりで料理に手をつけるのは、丁度空腹だったからに他ならないと自分の心の中にいい訳をする。最初はクールに料理を口に運んでいたのだが、しかし―。実際に食べ始めてしまうと、それはとても薄味で涼の口に合った。全部を食べるつもりではなく、後一口、後一口と思いつつ…。
「わぁ!綺麗に食べてくれましたね、感激です!」
 嬉しそうに笑いかけながら、翔一はすっかり空になった皿をシンクに運んで行く。涼は、呆然としながら自分の行動に驚いていた。本当は、マズイとかなにか文句を言って残してやろうと思っていたのに―そんな事をすっかり忘れてしまうような料理だった。口惜しいが、全部が涼の好みの味だったのだ。
「あんた…プロなのか?」
「まさか?! 普通の、家事のプロですよ。あ、でも教授には調理師学校に行ってみないかって言われて入るんですけどね。中々忙しくて、ソンな気にはなれないんです」
「……忙しい?」
「そうですよ、俺がお世話になっている美杉家っていうのが家事音痴ばっかりなんで、本当に俺がいないとまともなご飯も食べられないような家なんです。アイロンがけも、掃除も出来なくて、で、庭には家庭菜園も作っているんで、無農薬だからマメに手入れをしてやらないとすぐに虫食いになっちゃうし。そうだ、良かったら今度見に来て下さい、今ならキャベツが食べごろなんですよ、今度はキャベツの朝漬を作って見ますね。あれ、それとも、粕漬の方が好きですか?」
「別に…なんでも…って、あんた、また来る気なのか?」
「きちゃいけませんか? だって俺、ちゃんと葦原さんに世界が凄く綺麗で楽しいんだって事を伝えないといけないと思っているんで、それならやっぱり一回じゃなくて、通ったほうが良いでしょう?」
「……何故、そこまでムキになる?」
「別にムキになっているわけじゃないです、だって寂しいじゃないですか? 本当に楽しい事があるのに、生きているって言うのが素晴らしいのに、葦原さんはそれから目をそらしちゃっているんだもの」
 首を傾げつつ、本当になんでもないことのようにさらりとしている翔一の言葉に 涼はまたカァっと頭の中が熱くなる。やはり、何も解っていない、自分がどうしてそんな風に思っているのかを、この男は何もわかっていないのだと思うと―無性に、理不尽だと分かっていても怒りのような感情が心の中から浮かんで来た。
 目の前で、ニコニコと嬉しそうに笑っている彼。きっと―彼だって自分のあの姿を見ればこんな顔をしていられなくなるのだ。絶対に…そうなのだ。
「あ、じゃあ俺そろそろ帰りますね。家の方もご飯の用意をしないと。食器、洗えますか? 無理だったら、明日俺が来て洗いますからそのまま…、葦…さ…?」
 テーブルをサッと拭いて綺麗にしてから涼の前から立ちあがり、玄関脇においてあった彼の荷物のリュックを手にする。スニーカーをはいて、そうして玄関に立とうとしたその時に、涼の手が唐突に翔一の肘をつかんでそのまま引き寄せた。
「…葦原さん?」
 まっすぐに自分を見詰めてくる涼の瞳に、翔一は困ったような表情を少しだけ浮かべて首を傾げた。
「なにかありました? あ、もしかしてデザートですか? すみません、それはまだ用意してなくて、明日なら…って…え?」
 翔一が喋り終わるよりも先に、涼は強引に翔一の体を部屋の中に引き戻した。それは余りに唐突で乱暴で、翔一は抵抗するまもなく、リビングのソファの上まで引き戻された。
「あ、葦原さん? あの? ええと、どうしたんですか?」
「俺にも…あんたの見ている、綺麗な世界を見せてくれよ」
「え?」
 低い真摯な涼の声に、翔一は息を飲んで自分の上に覆い被さってくる涼を見詰めた。
 何が起こっているのか全く解っていないと言う顔をしている翔一の唇にキスをするのは簡単だった。重ね合わせ、そうして舌先で唇をこじ開けると中に舌をもぐり込ませ、掻き回すような深いキスへと変えてゆく。流石にそこまで行くと、ようやく自分が何をされているのか理解出来た翔一の腕が涼を押し退けようともがき出すが、全体重をかけられていては抵抗らしいことが出来ない。「津上翔一」としての記憶を形成をはじめてから、彼にはこういった経験は皆無で キスの体験は「初めて」だった。しかも、涼の唇はそのキス以上のことを予感させる激しさと淫猥さで熱くなって行く。
「やッ…めてくだ…葦原…さぁ…」
 必死に頭を振って、漸く唇を自由にしてからの抗議の言葉は、しかし息が乱れていて余り力が篭ってはいなかった。
「見せてくれるんだろう? 綺麗な世界っていうのを。楽しい世界って言うのを」
 再びの口付けを嫌がる翔一に、涼は低い声で耳元で囁いた。
「だ…けど…これは…、あの…」
「俺が一番欲しいものはさ、温もりなんだよ。人肌…が恋しいんだ…」
「え…」
 囁くような、祈るような声に聞こえたのか。翔一は動きを止めた。少し潤み始めた瞳がまた涼を見上げる。彼の言葉が本当かどうかを見極めるような瞳であった。
 涼自身、今の言葉には嘘はなかった。しかし、それが全部でもない。人肌が恋しいのと同じだけ、その人肌を大事に持っている翔一に少しでも衝撃を与えたかった。彼の能天気なまでの笑顔や、言葉を傷つけたかった。自分と同じように、絶望的なくらい負の感情を味合わせてやりたかった。
「あ…しはら…さ…」
 途惑う瞳、涼の言葉に嘘がないのを翔一は読み取ってしまった。温もりを求めていると言う言葉に嘘がなくて、そうしてさらにもっと心の奥にある深い闇も薄々感じてしまった。
「ダメなのか?」
 その冷たい想いを感じ取ると…自然、抵抗にも力が入らなくなってしまった。戸惑うまま再び唇が重ねられて、今度は逃れらなくなってしまう。涼の手が、翔一のシャツの裾から直に肌に触れてきた。
 ひんやりと冷たい指先を感じながら、翔一は―何故か氷川の顔を思い出していた。

「…済みません…連絡が遅くてご心配かけてしまって。もうすぐ帰りますから…はい、え? あ…そうなんですか、氷川さんが来てたんですか…」
 ぼそぼそとした小さな声がリビングから聞こえてきた。シャワーを浴びて戻ってくると、さっきまで気を失っていた筈の翔一が電話をかけているところだった。「氷川」と言う名前は…さっきも聞いたばかりだった。苦いものが胃の中に広がるような感覚がする。
 かろうじて身につけていたシャツを引き下ろしただけの格好で、下半身は剥き出しになっている。受話器を置くと同時に、腰にタオルを捲いただけの格好の涼がすぐ背後に立っていることに気がついて、決まりの悪そうな表情で肩を竦めた。
「すみません勝手に電話を使ってしまって。家に、何も連絡していなかったので…時間も時間だったから…心配しているんじゃないかと思って…」
 あの優しい自然の笑顔が、少しだけ雲って見えたが自分を強姦した相手にまだ笑いかけられるだけの翔一の精神力に涼は驚かされる。泣いて暴れられるのも面倒で嫌だったが、こうも平然とされてしまうのも奇妙な感じがした。
 彼の体の隅々には、涼の刻印がまだ生々しく残っていた。ジーンズも下着も、ソファの下のほうに丸まっていて、下半身には特にキスマークが多い。しかも内腿には、傷ついてしまった翔一の流した血と涼の放ったものが溢れ出していくつかの筋を描いていた。なのに 身支度を整えるよりも先に、翔一は家への連絡を取っていて、その事が…また涼を不愉快にさせた。
 肉体も精神も傷つけたはずなのに、彼には全くダメージはないように見えた。無言で険しい表情をしている涼に、翔一は戸惑いを含んだ笑みを浮かべつつ彼を見詰める。まっすぐな、優しい瞳だった。居たたまれなくなってしまい、涼の方から目をそらしてしまうのは、二度目になる。
「葦原さん?」
「……」
 呼びかけられても顔を上げられなかった。酷く胸の奥が痛みを覚える。それは罪悪感と言う響きににている様な気がしたが、認めたくはなかった。こぶしを握り締めて、息を詰める。と、不意に、暖かなものが俯いている涼の頬に触れる。
「―?」 
 驚いて顔を上げると、翔一の手の平が静かに頬に添えられていた。
「葦原さん、さっきよりも傷ついた顔をしてますよ? 大丈夫ですか?」
「……」
 唇を噛み締めて、涼は翔一の手を振り払うと反動の様に翔一の体を強く抱きしめた。完敗だと―唐突に思った。まだ、こんな感情が残っていたのだと、痛感してしまう。
「あ、葦原さん? え? あの…」
「…もう少し…一緒にいてくれ。もう…酷い事はしないから、だから…せめて朝までここに…いてくれないか?」
 掠れるような小さな声が翔一の耳元で囁かれ、抱きしめる腕に力が増す。涼の胸の中、翔一は困った顔をしていたが、小さく溜息をつくと電話を…と答えた。
「―先生に、戻れないって連絡をいれたいです。良いですか?」
 涼には、遮る理由は全くなかった。
 胸が痛み、もっと苦しくなる予感があるのに 腕の中の温もりを放したくないと言う気持ちの方が強かった。そうしてその想いは口付けに再び置き換えられてしまった。翔一の腕は、最初は途惑い、しかしすぐに諦めた様にして涼の背中へと回された。
 包み込む、深く優しい笑顔を 涼は精一杯抱きしめた。


―END―