ラベンダーの香る部屋
byりか

 勤務中ではあったが、氷川は一本の携帯電話で呼び出された。相手はこの世の中で、たった一人だけ、本当に氷川が信用している超能力少女、風谷真魚嬢だった。氷川は性格的に、強気の相手に強引に押されてしまうと従ってしまうところがあった。
 今回も、どうしても来て欲しいという彼女の言葉を、断ることはでき無かったのだ。
(今のG3チームの彼の立場が それを如実に物語っている。上司、小沢澄子には、何があっても逆らえない。尤も、これは彼だけではなく、同僚で先輩でもある尾室も同様だが)
 
「真魚さん!」
 指定された大型スーパーの前で、まだ制服姿のままの真魚が立っていた。午後の授業を終えて直ぐにやって来たらしい。氷川は周囲の視線には全く気がついていない様子で、息を切らしながら真魚の前に立った。長身で、モデルの様に綺麗な顔をした青年と絵に描いた様な美少女の組み合わせは、いやでも周囲の視線を引きつけてしまうのだった。
「お待たせしました。―それで、何か急用だったのですか?」
 子供に対しても、とても丁寧な言葉遣いをしてくれる紳士的な態度に、真魚はますます好印象を感じながら今回の目的を告げた。
「お買い物を、付き合って欲しいんです」
「え? 買い物…ですか?」
「ええ、重くて、どうしても運べないものなんです」
 にっこりと美少女の微笑を浮かべて、真魚はしっかりと氷川の手を取り、スーパーの中に入っていった。
 
 引っ越しの終わった夕方。翔一は、まだ亜紀の匂いの残っている部屋を改めてぐるりを見まわして感慨深げに溜息をついた。記憶が無くなってから今日まで、一人で夕方を迎えたのは初めてだった。今日からは…一人なのだと、改めて実感する。なんとなく気恥ずかしいような、それでいて不安を感じるそんな不思議な感覚だった。
 部屋の呼び鈴が鳴ったのは、そんな時だった。真魚が何かを忘れて戻ってきたのか? あるいは、太一も一緒になって様子を見に来たのか…と余り深くは考えないで扉を開けた。
「え? ひ、氷川さん?」
 玄関前では、何か大きな包みをかかえた氷川が立っていた。思わず自分の目を疑ってしまった翔一は、上から下まで、氷川の姿を確認する。
「どうしたんですか? その大きな荷物も…? だ、大体…どうしてここに?」
 矢継ぎ早の質問に、氷川は律義に荷物を抱えたまま答えてくれた。
「真魚さんに頼まれて、荷物を持ってきたんです。今日が引越しだというので、夜までに届けて欲しいと頼まれていましたから」
「は、はぁ。ま、上がってください! どうぞ、どうぞ」
 本当は玄関先で荷物を渡して終わりにするつもりだったのに、ここでは翔一に強引に押しきられてしまって部屋の中に通されてしまった。
「え、ええと、荷物はここにおいてください。お茶…そうだ、お茶入れますね。ええと、後お菓子とか…あ、それよりも食事を作りましょうか? 氷川さん、まだですよね? なにか好きなものありますか? 作りますよ? ええと…冷蔵庫の中…」
 リビングに氷川を通し、翔一は嬉々としてもてなそうとする。慌てて、氷川はその翔一の手を取って引きとめた。
「待ってください、津上さん。 今日は、これを届けに来ただけですから。おかまいなく」
「ええ? そんな、折角の引っ越し初夜なんですから、どうかゆっくりしていって下さい」
 にっこり笑って返しながら、翔一は氷川の手を外して、もう一度テーブルの前に座らせる。そうしてさっさと台所に向い、冷蔵庫の中を確認しつつ、料理の準備にかかってしまった。翔一がこうなるともう離してくれないのはわかりきっていることなので、諦めた。 テーブルの上には、真魚が持って来てくれた赤と白のデイジーがグラスに活けられていた。女の子らしい気配りで、つい氷川の口元が緩んだ。
「あぁ〜、それ真魚ちゃんが持ってきてくれたんです。引っ越し祝いだって。綺麗ですよね〜、やっぱり女の子は違うなぁって思いますよ」
「そうですね、彼女なら良いお嫁さんになってくれそうですね」
 何気なく言った一言だったが、途端、翔一は剥き掛けのジャガイモと包丁を持ったまま氷川の前に飛んできた。
「そう思いますか! 氷川さんは、真魚ちゃんが好みなんですか?」
「はぁ?」
 いきなり勢い良く包丁をつきつけたまま翔一は氷川の前に座り込んだ。ギョッとしつつ、氷川は引きつったような表情を浮かべてコクコクと頷いた。
「…可愛いから…ですか? やっぱり」
「エ、エエ。そうですね…それに、気が利くし、少し気が強いかもしれませんが基本的には優しいですし…」
 ドキドキしながら答える氷川に、翔一はだんだん元気が無くなってきた顔をして、最後にはがっくりと肩を落としてしまった。そうして口の中でぶつぶつと小さな声でなにか呟き出す。
「…仕方ないよなァ…真魚ちゃんは…確かに可愛いしなァ…、気が利くし…、なによりも女の子だしなァ…」
「あ、あの? 津上さん?」
 ただならぬ翔一の様子に、氷川は困った顔をしつつ顔を覗き込んでくる。と、その瞬間に、またバッと勢い良く顔を上げて、そうして今度もかなり真剣な表情で氷川の顔にぐんと近づいていった。
「―でも、料理は…俺の方が上手いですよ!」
「は…はぁ?」
「後、洗濯と掃除も、俺の方がきっと上手いです!」
「はぁ…それはなんとなく…わかります…」
 実際、あの家では翔一が今まで家事一切を切り盛りしていたのだと、真魚から聞いているし、自分も何度も目撃していた。ご飯も御馳走になった事があった。
「問題は…俺、赤ちゃんは生めないんですよね」
「―――!」
 ぎゅ―っと、心臓が強く掴み込まれてしまったような愕きに、氷川はそのまま固まってしまった。咄嗟には、翔一に何を言われたのか、理解不能な状態に陥った。
「でもまぁ…氷川さんが、どうしても赤ちゃんが欲しいって言うなら…俺、頑張ってみますけど…あんまり自信は無いです」
 更に、翔一の顔が近づいてくる。ほとんど息がかかりそうな状態になり軽く唇が触れ合った時になって、漸く氷川は正気に戻った。ハッ、として思わず後ろに引いてしまった氷川は、そのまま畳の上に仰向けに倒れてしまった。
「つ、津上さんっ!」
 上ずった声で翔一の名前を呼ぶ氷川の腰の上に、どっかと馬乗りになる。手に包丁を持っているので、迂闊に暴れられないという考えが瞬間的に閃いた氷川は動きを止めた。
 自分の上で、にっこりと微笑んだ翔一の笑顔が…少し怖いと思った。何時もの様に優しげなのに、しかしどこか胸の奥に響いてくる冷たい振動がある。翔一は、顔で笑っていても実は…泣いているのだと言うのが、なんとなく感じ取れた。
「…津上さん…僕は、なにか貴方の悲しむような事を言ってしまいましたか?」
 諭すような優しい声で尋ねる氷川に、翔一は一瞬瞳を大きく見開いて、そうして息を飲んだ。途端、ふにゃりと何時もの笑顔が崩れそのまま氷川の上に上体を倒してくる。しなだれかかるような恰好で体を重ね合わせ、そうして両手で氷川の体を抱き締めた。
「津上さん…?」
「―どうして…凄く不器用なくせに、こんな時だけ機敏に…気がついちゃうんですか? 隠している自信はあったのに…」
「済みません…一応、僕も刑事…ですから」
 本当に泣いているのかと思うようなか細い声が氷川の肩口に響いてくる。なんとなく、氷川も翔一の体を抱き寄せる様に両腕を回してしまった。何時も振りまわされてばかりだけれども、こんな風に弱った姿を見せられると…つい、それまでのことを忘れて優しくしてしまう。
「それで? 教えてください、僕のどこが津上さんを傷付けたんですか?」
 とんとん、と背中をなでさすりながら尋ねる氷川に、翔一は小さな声で答えた。
「…氷川さんが…真魚ちゃんのことが好きだって言うから…」
「はぁ?」
「俺が、一生懸命にアプローチしているのに全然気にしてくれていないくせに、真魚ちゃんだと…簡単に…。今日だって、まだ仕事が残っているんでしょう? なのに、真魚ちゃんに頼まれて…わざわざここまで様子を見にやって来るんだもの…へこみます」
「それは…しかし、ええと…」
 別に真魚の事が好きだから、彼女の言うままにしているわけではない。それに いつも彼女の頼み事は翔一がらみばかりで、決して彼女自身のものはない。本当に彼女の事が好きだったら、ほかの男の為に力になって欲しいと言われたら…いやがって断って、そうして…こんな風にその相手に対峙する事は無いだろうと、氷川は胸の内で思っていた。翔一自身は…しかし、その事には気がついてくれてはいないらしい。
「僕は、別に真魚さんのことを特別に思っているわけではないですよ。彼女がとても真剣だから…。今日だって、結局は彼女は津上さん関係の事で僕を呼び出したんですからね?」
「…」
 翔一が顔を上げて、疑わしそうに氷川を見詰める。
「…彼女は、津上さんに引っ越し祝いの布団を贈りたいから、それを買うのを協力してくれと言ったんです。スーパーの安い布団ですけど、でも高校生のおこずかいじゃ買えないし、ここまで運ぶのも大変だからって」
「布団…?」
 先ほど抱えていた大きな荷物の正体を聞いて、翔一はびっくりした顔になる。
「可愛いですよね、翔一君が、得体の知れない女の使っている布団をそのまま使うのなんて我慢できない。新しいのを買ってあげたいから、協力してください―って言うんです」
「真魚ちゃん…が」
 ふぅっと、翔一の表情がまた緩やかに綻ぶ。氷川はその変化を間近に見て、不覚にも少しだけ鼓動が早くなってしまった。
「見てみますか? 僕も一緒に選んだんですよ」
「はい!」
 とん、と氷川の上から飛び起きて、そうして子供の様にはしゃぎながら翔一は包みを開く。括ってあった紐を解くと、ポンと勢い良くシングル用の布団のセットが広がった。カバーをかけていないので生成りそのままの布で覆われた布団のセットは、サービスでついていたラベンダーポプリの香がちゃんと移っていた。
「うあわぁ…良い香りで…ふかふかですね。ありがとうございます!」
 子供の様にはしゃぎながら翔一はその布団の中にダイブして、感触を楽しむ。その姿を見ながら、氷川も嬉しそうに笑っていた。
「真魚さんにも後でちゃんとお礼をしておいてくださいね、カバーは自分で買ってくれとの事ですけど」
「はい! 勿論です! スゴ…ふかふか…気持良いです〜! 氷川さんもどうですか?」
「いえ、僕は…」
「何を言っているんですか、折角氷川さんも買ってくれたんですから、その感触を確認して下さいよ。買った人間の義務です」
 それを言うなら、真魚も…こうしないといけないのか? という突っ込みを口にする前に、強引に引き寄せられた。
「え? あの…! うわっ!」
 断ったはずなのに、強引に手を引かれて、氷川も布団の中に倒れ込んでしまった。翔一は更に氷川をまるで縫いぐるみの様に抱きしめて、うっとりと目を閉じる。
「…良い匂い…」
「アア、ポプリの…」
「違います、氷川さんの匂いです」
「僕の…ですか?」
「コロンと…ムースと…あと、氷川さん独特の匂い。男らしくて、でも凄く爽やかで…好きです」
「えっ?」
 ドキッとする。
「ポプリの匂いも良いけど…このまま氷川さんの匂いも残していって欲しいなぁ…」
「あ、あの…津上さん? あの…」
 あたふたとしている間に、ネクタイが引き抜かれた。シャツのボタンも上から素早く外されて、首筋に翔一の顔が埋まった。
「つ、津上さっ!」
 本気で焦り、氷川は強引に翔一の肩を掴んで自分から引き剥がしつつ、起き上がった。思わず肩で息を整えてしまうほどの重労働になってしまったのは、翔一が思いの他それを嫌がってしっかりと氷川に抱き付いていたからだった。今も、まだべったりと体を寄せ合って、そうして起き上がった氷川を恨めしそうに見上げてくる。
「…どうしていやがるんですか?」
「あ。あの…こう言うことは…僕ではなく…」
「俺、氷川さんのことが好きですよ?」
「ですから…」
「好きな人ととひとつ布団の中に横になって、キスをして…そうしたらそれ以上の事だってしたくなるじゃないですか…。ダメなことですか?」
「……僕は、男ですよ?」
「はい――じゃ、それを確認させて下さい!」
「ちょ…! 津上さん! 津上…っ、こ、こらッ! 止め…!」
 今度はダイレクトにズボンのベルトを外していきなり中に手を突っ込むと、布の上から氷川のものを握り込んだ。勿論外観を裏切らない逞しい男性のものが存在していることがはっきりとわかった。
「初めて(童貞)…じゃないですよね?」
 サワサワと、下着の上から輪郭をなぞる様にして確認する翔一の質問も、下手をするとのそのまま頭から突き抜けてしまいそうだった。
「…津上さん…本当に…洒落になりませんから…もう…」
「ダメです、ちゃんと…証拠、見せて下さい。氷川さんが男だって…」
 息を必死になって堪えつつ、なんとか手から逃れ様と身を捩る氷川。しかし、変に器用な翔一はポイントを押さえて上手く氷川が逃げ出せないようにしている。しかも再び布団の上に押し倒して…。
「うわッ! ひ、うっ! つ、つがぁみさぁ…! ウワァ…!!」
 甲高い悲鳴に似た声を氷川が上げた時には、彼の下着はずり下ろされて中から彼のものが顔を出してしまっていた。真新しい布団の感触をお尻に感じて、氷川は絶望的な状況に追い込まれてしまっていた。
 あろう事か、津上の唇が自分の物に触れているのを感じ取った。生まれて初めての衝撃に、心臓が止まりそうになって、もともと上がりやすいボルテージが一気にマックスに到達してしまう。
「津上さ…っ、……―――」
 そして 上がった声は、そのまま布団の中に吸い込まれてしまった。
 
 
 真新しい布団はぬくぬくで、そのまま眠ってしまいたい誘惑にかられてしまう。しかし―幾ら疲れているとはいえ…それはマズイだろうと言う最後の理性が、氷川に身支度を整えさせていた。そばでは少し恨めしそうな顔をしている翔一が、それでも やはり嬉しさを隠せない表情で氷川の動きを見つめている。
 きちんとネクタイを締め終えたところで、端に追いやられていたテーブルの向こうから翔一が氷川を呼んだ。
「氷川さん、夕食が出来たので食べて行って下さいね」
「…」
 のろのろと振りかえった氷川は、ニコニコ笑っている翔一を見て…結局はなにも言えなくなってしまった。この笑顔と強引さ…。小沢女史同様…言う事を聞くしかない気分にさせられてしまう氷川は、勧められるままテーブルについた。
 テーブルの上には、珍しくパンとミニステーキと白身魚のムニエルの盛り合わせに、サラダとスープと言う洋食が並んでいた。今まで何度か食べた翔一の料理は和食がほとんどで、何となくこの組み合わせは意外だった。
「君は…洋食も出来るんですか?」
「ええ、料理はなんでも好きですから。さぁ食べてください。体力使わせちゃったから、お腹空いているでしょう? 奮発しました、引っ越し祝いも兼ねてますし」
「奮発って……材料費くらい…払いますよ、あの…」
 おごってもらうのは公務員としては禁止されている事なので この辺りはしっかりしておこうと身構える氷川。背広の内側にしまいこんだ財布に手を書けた時に、また津上の手がそっと触れた。そうして真剣な瞳がむけられる。
「恋人からはもらえません」
「えっ―――こ、こい…こ…こ…いびと…?!」
 上ずった声が上がる。あまりに驚く氷川に、一気に翔一の顔が曇った。
「…散々…あんなことをした間柄なのに…。遊び…のつもりですか? …やっぱり…氷川さんは真魚ちゃんの方が…? それとも、他に好きな人が…」
「ど、どうしてそんな話しになるんですか! だ、大体…さっきのは…君の方から…」
「やっぱり…遊びで済ませるつもりなんですね…。…いいですよ、それでも。俺…それでも氷川さんが構ってくれるなら、それで充分に嬉しいです。日陰の身でも我慢します」
 よよよ…と、昼メロのドラマの様に身を崩す翔一に、漸く氷川はからかわれていたのだと気が付いた。
「津上さん…もしかして…からかってますか?」
「あはは、やっと気がついたんですね、良かった。氷川さん、不器用なだけじゃなくて鈍感だから、本当にこのまましめっぽくなっちゃうのかって心配しました」
「……津上さん…」
「あはははは、さぁ、食べましょう、食べましょう!」
 悪気のない笑顔に、氷川は反論を諦めた。そうして、勧められるままに夕食を御馳走になってしまう。その雰囲気は まるで…初めて一緒の夜を迎える恋人同士の様だった。
 
 氷川が 材料費を払うのをすっかり忘れていたのだと気が付くのは…翌日になってからだった。
―END―