Byりか
32話より
「なんだか凄くズルイ…」
家出中だった真魚との話し合いを終えて観覧車から降り、再び教授や太一、氷川と合流した後の事。一応、家に戻ることに納得した真魚に、教授は狂喜乱舞となった。そうして、今度は自分が真魚と一緒に観覧車に乗る打と言い張って、その間に 翔一は何か飲み物と軽い食べ物を買ってきて欲しいという教授のお願いで、氷川と一緒に近くの売店へと向かう事になった。
そうして(北條の一言からの責任感からでもあるが)、真魚が戻ることになって、心底安心している風の氷川を見て、ぼそりと呟いた。
「え?」
最初は何のことを言われているのか、まったくわからなかった氷川に、翔一はもう一度同じことを呟き、恨めしそうに視線を向けることで漸く、その意味を示唆する事が出来た。
「それは…もしかして、私に関しての事ですか?」
「正確には正しくないけど、まぁ大体当たりです」
少しだけ、氷川の口調を真似て答える翔一。
「…ええと、待ってください、一体何がどうして、どこがズルイのか…はっきりとおっしゃってください。訳がわからないです」
困惑したまま、氷川はその場に立ち止まって、そうして改めて翔一を見下ろす様な格好で振り返った。
「俺の時は…心配してくれませんでした」
ぼそりと、少しだけ上目遣いになって呟くような声で答える翔一。言葉は更に続いた。
「真魚ちゃんだと、心配して捜索に付き合ってくれるし、わざわざ公用車でドライブに付き合ってくれるし、今だって…」
「ちょっと待ってください。私は、警察官として出来る限りの…」
「警察官としてだけですか? 俺が教授の家を出たときは、こんなに心配してくれなかったじゃないですか」
だだっ子の様な物言いに、氷川は軽い目眩を覚えてがっくりとうなだれる。
「それは―、それは、当たり前じゃないですか。津上さんはもう社会人だし、それにご自身の意志で、あの榊さんという女性のアパートに引っ越したんでしょう? 今回の真魚さんとは状況が違いすぎます」
少しだけの厭味を込めて、そうして正しく認識しなおしてもらおうと説明をするが、翔一は納得する様子はなかった。
「じゃあ、愛が足りないです!」
「あ、愛?」
頑としてその場から動こうとしないで、更に恨みがましく氷川を見上げる翔一の一言に今度はギョッとする。
「愛が足りないです、俺よりも真魚ちゃんのほうが好きなんですか? やっぱり、女子高校生のほうが氷川さんの好みなんですか? 俺、大抵の事は出来る自信が有りますけど、流石に女子高校生にはなれないですし…そっちのほうが良いって言われたら、俺、もうどうして良いのか…わからないですっ…」
「なっ…うっ…」
昼間の、しかも人通りの多い往来で、まるで恋人同士の痴話喧嘩のような言葉が出た事で、氷川は真っ赤になってしまった。周囲の人間の奇異の視線が、二人に向けられているが、翔一はまったく気にした様子は無い。ぎゅっと唇を噛み締めて、今にも泣き出しそうな雰囲気さえ見せたので、氷川は慌てて翔一の手を取ると、その場を駆け去った。
兎に角、誰にも見られない所に行かなくては…という、必死の思いからだった。
園内を駆け回って、結局、さっきまで乗っていた白鳥ボートに乗り込んだ。
「はぁ…」
それほど広くはない池の中までやって来て、漸くホッとする氷川。対して翔一は先程までの仏頂面とは打って変わった上機嫌な表情で辺りを見まわし、そうして氷川に微笑む。
「なんか、本物のデートみたいで良いですね」
「…津上さん…あのですね…」
「あの―、さっきは、ごめんなさい」
文句を言おうとした氷川に、翔一は意外なほどあっさりと頭を下げた。虚を突かれ、パチパチと瞬きをしてまた動きが止まってしまう氷川。
「俺、本当は自分でもわかってるんです。俺と真魚ちゃんじゃ違うってことも、氷川さんが一生懸命になってくれて有り難いって事も」
「…津上さん…」
「頭ではちゃんとわかっているけど、でも…やっぱりなんとなく、面白くないなぁって思ってしまうんです」
にが笑いを浮べつつ、肩を竦める翔一。
「俺だって…真魚ちゃんの事は大事だし、好きだと思うけど…」
ふわりと、翔一の顔が氷川の直ぐ側までやって来た。瞳の中に映るのは自分だけという状況の中、自然に唇が重なり合って離れた。
「…でも、キスしたいって思うのは、氷川さんだけです」
微かに触れたまま小さな声で告白する翔一。
「だから、氷川さんが…仕事ででも、誰か、俺以外の人に優しく親切にするのが…面白くなかったんです、それが…真魚ちゃんでも」
「わかっていて…さっきみたいにごねてたんですか?」
呆れてしまいますね…と、言う氷川の言葉にますますしゅんとする翔一。うな垂れて、肩をすぼめると長身の体も小さく感じられた。
「そんなに…不安なんですか?」
静かな声で、今度は氷川のほうが尋ねる。
顔を上げ困ったような表情で、小さく頷いた翔一に、氷川はまた肩を竦めて溜息をついた。それから、何かを決意した顔で、口ごもりながらゆっくりと言葉を吐き出す。
「本当は、ずっと言うつもりはなかったんですが―でも、この際だからはっきりと言わせてもらいますと…」
ビクっと、翔一は一瞬だけ肩を竦めて氷川に視線を戻した。
「不安なのは、私のほうばかりだと思っていたんですよ」
「え?」
「先の、榊さんの時は、真魚さんが心配して私のところに相談に来てくれたのに、津上さんはまったくなにも相談してくれませんでしたからね。自信喪失だったんです」
「あ…、ええと…そうでしたっけ?」
「そうなんです。忘れちゃったんですか? あの時は…かなりショックだったんですよ、実は。私のことなんて、本当はどうでも良いのかもしれないなぁって」
「そんな事ないです!」
バランスの悪い白鳥ボートの上だというのを忘れて 氷川の言葉に思い切り興奮して立ち上がった翔一。ボートは大きく揺れて、氷川はとっさに翔一の腰を抱きとめて押さえ込んだので、寸前で転覆は免れた。
「く―――! つ、津上さん…! びっくり…させないでください」
深く溜息をつきながら、翔一の体を席に戻した氷川。あまりの愕きに、腕が硬直し、翔一の体を抱きしめたままの格好になった。
そっと、翔一の手が氷川の背中に回ってから小さな声で、ごめんなさいという呟きが聞えた。指先は、小刻みに震えている様だった。
そうして、耳を押し当てている翔一の胸の鼓動が酷く早くなっているのに、氷川は直ぐに気がついた。
「俺も…びっくりしました…」
「…君といると本当に驚かされてばかりだ…」
「…すみません」
消え入りそうな小さな声は、まだ少し緊張で震えているようだった。
「そんなに素直に謝られると、逆に心配になってしまいます」
「そ、そうですか? ええと…」
珍しく困った顔をする翔一から腕を離し、氷川はゆっくりと元の体勢に戻った。ボートの揺れも元に戻って、静かな波の動きに微かに揺れる。
「別に、それは構わないんです。津上さんには―こちらも結構無茶な事をお願いした事もありましたから」
まだ制御装置の付く前のG3−Xの搭乗員として、強引に翔一を乗せた事を思い出しながら 氷川は微かに目を細め、遠くを見る。
「俺、氷川さんのための無茶だったら全然平気ですよ?」
遠くを見詰める氷川の前に手を翳して、翔一はにっこりと笑い掛けた。
「…津上さん…」
「俺達、きっと良いコンビなんだと思いませんか? あ、俺、今度警察官の採用試験受け様かな? そうしたら、氷川さんとも一緒にいられる時間が増えますよね」
「…それは…どうでしょうか?」
能天気な翔一の言葉に、一々真面目に答える氷川。
「なんでですか? 俺、身長も体力も、運動神経も、反射神経だって氷川さんよりは自信が有りますよ?」
手先の器用さというのを入れなかった辺りは、翔一の心遣いなのだろう。
「…もしも採用になっても…その、同じ部署に配属されるとは限らないんですよ。新人がいきなりG3システムのほうに加われるとは…」
「小沢さんに引っ張ってもらうって言うのでも、駄目ですかね?」
ニヤリと笑って提案する翔一は、半分以上本気に見える。しかし、―氷川の渋い表情は変わりなかった。
「…それは…あり得ない事ではないかもしれないですが…。でも…それでは、私が…」
そっと、珍しく氷川のほうから翔一の手を掴んでくれた。
「君が何をしでかすのか心配で…、私のほうが仕事になりません」
きっと無茶をするに決まっていると氷川は確信していた。
「俺は、氷川さんのほうが心配です! 氷川さんの方が絶対に…」
最後まで言う前に、綺麗な顔がぐんと翔一に近づいて、信じられない位、素早く唇を掠める。
あ、っという顔をした直後に、翔一の顔一杯に幸せそうな笑みが広がった。指先が輪郭と感触を確かめる様にして、もう一度自分の唇をなぞる。
「……この際なので、はっきりと言っておきますが…私がこう言う事をしたいと思うのは、君だけですから。―だから…無理に一緒にいなくても…」
「氷川さん…」
ぎゅうっと、氷川の方から抱きしめてくる。
「待っていてくださいとは言いませんから…。もう少し、落ち着いて、そうして私を信じていてください…。君を再び危険な場所に向かわせたくないんです、それに…」
「落ち着いて…?」
ちょっと首を傾げる翔一の耳元で、氷川はさらに言葉を続けた。
「いつもの君を見ていると、なんとなく、目を離すとその名前のように、そのままどこかに行ってしまう様な気がします…」
それは、翔一を深く知ることになった最近、氷川がよく感じるようになった感覚だった。
放したくない、しかし危険な場所にも来てほしくない―言いようのない不安が胸の中に広がってくる。そうして、その不安を感じ取ったように、翔一がわずかに身じろいで氷川の瞳を見つめて来た。
「…もしも、俺がいなくなったら…ちゃんと探してくれます?」
「津上さん、君は…!」
ぼそりと呟く様な翔一の言葉に、ぎょっとする氷川。またしても、真魚との一件を蒸し返すつもりなのかと焦ったが、しかし―。
「…俺が、たとえば何者でも…探してくれますか?」
珍しく真摯な、今にも泣き出しそうな不思議な瞳の表情を見せて、翔一はまっすぐに氷川を見上げて、その答えを待っていた。ふざけている訳ではない様子に、一瞬、氷川は返事に詰まってしまった。
「私は…」
翔一の問いかけに答えようとしたそのときに、ごつんとボートが大きく何かにぶつかって揺らいだ。キャーという声が後から聞こえてきて、どうやらほかのボートが二人の白鳥にぶつかってしまったらしい。
氷川はそれまで翔一を抱いていた腕をはずして、そうして元のように座りなおした。
「そろそろ戻らないと、皆さんがおなかを空かせて待っているんじゃないですか?」
「……はい」
せっかくの氷川の返事が聞けなくて、しかしそれ以上問い詰めることも出来ない雰囲気で 二人は予定通り売店で買い物をすませ、みんなの元へと戻ったのだった。
三人の元に戻った後は、翔一は表面的にはいつものニコニコとした笑顔を向けてはいたが、ふとつく小さなため息に真魚は気がついてしまった。
「帰りは、私は後ろに乗るから。翔一君は前に乗ってね」
そういうと、真魚はさっさと教授や太一と一緒に後部座席に乗り込んでしまった。必然的に、翔一は助手席に乗り込むことになってしまう。かすかに緊張した横顔を横目で見ながら、氷川は帰路につくために車を出した。
まっすぐに美杉家に向かうのではなくここしばらくお世話になった相手に一言お礼を言いたいという真魚がマンションの前で降りたとき。
教授も太一も、一瞬、意識と視界が前に座る二人から離れた。
『…え?』
ギアを握っていた氷川の手が、本当にさりげなくしっかりと翔一の右手を掴んで離れる。
言葉でなく、その一瞬に、先程の氷川の返事を感じ取った翔一は、小さく笑った。
あまりにも氷川らしく、でも彼のぬくもりが心から嬉しい翔一だった。
―END―
2001.9.16