byりか
20話の、件のシーン…とりあえずなんかこう、メルヘンで…。
―襲え―
―襲え―
低い声が耳の奥から聞こえてくる。まるで自分自身の魂を根底から破壊していこうとするような、低く不気味な声だった。あがらい切れない、振りきれない重さがある。
涼は意識の無いまま、その声と必死になって戦っていた。
「うっ…くぅ…うう」
低く唸りながら、額には玉のような汗が浮ぶ。
その汗を、翔一は丁寧に冷たいタオルで拭ってから、額に新しいタオルを乗せてやった。
突然の訪問者は、酷く苦しんでいた。その顔には見覚えとささやかな恨みがあったが、しかし自分を殴った相手だから放り出すということはできなかった。
結局部屋のベッドに運び、そうして看病をする事になってしまったのだ。一旦そうすると決めると、翔一は手際が良かった。
一応、熱があるようなので、部屋に残っていた解熱剤を飲ませて汗で濡れている服を脱がせる。自分と身長が同じくらいなので自分のシャツを着せた。
全身に、打撲や擦り傷がある。しかし、それがこの発熱や苦しみとは関係があるようには見えなかった。もっと何か…とても深い部分で、彼が苦しんでいるのだろと言うことをなんとなく感じる。
「…たしか…葦原さん…だったよなァ…、何したんだろう?」
流石に殴られたその後で、真魚がその相手の事を調べてくれた。翔一が駆け去った後、慰謝料を請求するつもりで名前を聞いていたのだ。美杉教授がいる大学の学生だったのだとわかったときには、彼はもう大学には来ていなかった。
「まぁ、俺もあんまり人のことが言える状態じゃないか…」
小さく溜息を付いた時に、ずるり、と苦しさに身悶える涼の動きで、タオルが滑り落ちてしまった。
「あ…」
翔一は直ぐにタオルを取り上げて、もう一度涼の額に乗せようとした。が、突然その手がしっかりと掴まれた。
干からび、鋭く爪の伸び始めている涼の手。それが人の手ではないのは、薄暗闇の中でもはっきりと解った。
「なっ…! にっ…!」
咄嗟の事に振り払おうとしたが、思った以上に強い力であった。
「ちょ…葦原さん? なに…!」
ぐいぐいと強く掴まれる。もう一方の手も翔一にしがみ付いてきた。毛布を跳ね除け、伸び上がる様にして全身で翔一にしがみ付く。
「あ、葦原さっ…?! あっ…! ええっ…!」
必死になっている自分と同じ様な体格の人間にしがみ付かれ、翔一は不覚にもそのままバランスを崩して床に仰向けに倒れてしまった。そのうえに、また涼が伸し掛かるようにしてしがみ付いてくる。
熱に浮かされている息遣いと必死の力に、翔一はほとんど身動きが取れなくなる。床に縫い付けられる様にして、全身で涼を受け止める態勢になってしまった。
「うっ…ううっ…」
苦しそうに吐き出される息とうめき声を身近に聞いて 翔一の方まで辛い気持になってしまう。自分にしがみ付いてくる涼は、まるで何かに脅える小さな子供の様に頼りなく切ない気持にさせていた。
「葦原さん…大丈夫ですから、葦原さん」
自由になっている方の手で、そっと涼の背中を摩ってやった。抱きしめるよりももどかしい動きだが、しかし翔一は何度も何度も、涼の震えを押さえるように撫で上げて行った。
涼の震えや苦しそうな息遣いがいくらかは弱まると、翔一の腕にしがみ付いていた力が少し抜ける。そのタイミングを見計らい、翔一は涼から手を引き抜くと、今度は自分の方から両腕で逞しい背中を抱き止めてやった。
「葦原さん…」
優しい声で呼びかけてみる。目を覚ますのを期待してではない、こうして呼ぶ事で悪夢を見ているかもしれない彼を少しは呼び戻す事ができるかもしれないと思ってのことだった。
「うく…う…」
果たして、その期待通りに、ほんのわずかに、涼の瞳が開いて翔一の姿を見る。
「うう…」
苦しさから来る生理的な衝動で、涼の瞳に涙が滲んだ。
その涙で、彼がどれほど苦しいのかを、翔一は想像する事ができた。できるなら、そんな瞳をさせたくはないと想う。
知っている人間が苦しんでいる姿を見るのは翔一には切ない事だった。苦しみから救ってあげたい…と言う、その思いがどんどん深くなる。
涼はますますすがる様に、翔一の体を抱きしめた。二人でしっかりと抱き合い、その重なり合った部分から涼の痛みを癒せる様に―と翔一は何度も何度も、涼の名前を呼びながら、背中を摩り続けた。
「う…」
まだ節々が痛むが、それでも死にたくなるような苦痛やダルさが納まっている中、涼はゆっくりと目を開けた。
酷く不自然な恰好で自分が寝ていたのだと気がついたのはその直後だった。
床の上で、誰かをしっかりと抱きしめる格好で眠っていたのだ。触れ合っている部分が熱くなっているいるが、肩口は少しだけ涼しかった。
涼の目の前に最初に飛び込んできたのは、若い男の寝顔だった。甘い、優しげな雰囲気は眠っている顔からもはっきりとわかる。いつのまにか着替えさせられていた自分と違い、彼の方はシャツもジーンズも乱れた様子は無かった。
そうしてその顔には…見覚えがあった。けれど名前は出てこない。
じっと顔を覗き込んでいると、すぐに視線に気がついたように翔一が目を覚ます。
「ア…、目が覚めました?」
起きぬけでもにっこりと、天使の様に眩しい笑顔を涼に向けてゆく。
「う…?」
ボンヤリとした意識の中、自分がどうして彼と一緒に眠っていたのかを思い出そうとするが、記憶は混乱している。そもそも、自分がどこに行こうとしていたのかも…良く思い出せなかった。
困惑しているまに、翔一の手がそっと額に当てられた。暖かな掌の感触に、ビクっとしてしまったその顔を見て、翔一は小さく微笑んだ。
「熱…大分と下がったみたいですね、よかった」
「…俺は…」
掠れた声の涼に、翔一は心配そうな表情を浮べて額に当てた手をそっと頬に滑らせた。かさかさに乾いている唇に、指先を添えると少しだけ辛そうに笑う。
「無理に声を出さない方が良いですよ、酷くうなされていたから喉が疲れていると思いますから…何か、飲み物を持ってきますね」
そう言って、涼の腕の中から抜け出そうとするが…、しかし涼の腕は強張ったまま翔一を放そうとはしなかった。
「…葦原さん?」
困った様に眉を寄せ、困惑の口調で名前を呼ぶ翔一を 涼はもう一度強く抱きしめた。
体がこの温もりを離したがらない。ここ数日の、不安や重苦しさが 抱き合っている事でほとんど感じない。こんなことは初めてだった。
「もう少しこのまま…このまま……」
そう言いながら涼は再び目を閉じた。力が抜けてゆく様に感じる。
忽ち、安らかな寝息となり…翔一にしがみ付く恰好で深い眠りに落ちて行った。
不自然で、眠りにくいはずなのに 涼の睡眠には全く影響は無い様だった。
「葦原さん…?…ふぅ、しょうがないな…」
今度も子供の様に背中を丸めて眠る涼の顔を盗み見ながら、小さく笑う。
そうしてまた両腕でしっかりと涼の体を抱きしめた。
誰かを守る…それを最も強く実感できる時間となった。
「なんか…母親の気分…」
そう呟きながら翔一もまた朝日の上る前、二度目の眠りに引き込まれてゆく。
涼だけではなく、翔一自身もまた…誰かの温もりを感じながら眠る事に、不思議なくらい安堵感を覚え始めていた。何か、涼とは…運命のようなものも感じる。
今度涼が目を覚ました時には 色々な話をしてみたい…と思いながら、一人ぼっちではない幸せを噛み締める翔一であった。
―END―
2001.6.16