氷川刑事の理想と現実

〜もしくは憧れの人とのティータイム〜

byりか

39〜40話にかけて



「…ごくん」
 と、大きく嚥下する音が頭の中で響いた。ギクシャクした足取りで前に進むが、上手く呼び鈴が押せない。二、三度失敗して、なんとか呼び鈴を押すと、直ぐに真魚の声で返事が聞こえた。
『はぁい、どなたですか?』
「あ、あの…! 氷川です」
『ハーイ、今開けます♪』
 心なしか、うきうきした口調の真魚に、氷川は更に緊張を高めてしまった。
「いらっしゃいませ〜!」
 そして元気良く玄関の扉を開けて出迎えてくれたのは、翔一だった。途端、氷川の心臓が飛びあがって、そのまま止まってしまいそうになった。
「あ、あの。…お、お邪魔します…」
「どうぞ、どうぞ。 氷川さんなら何時でも大歓迎ですから」
 言葉以上に、大歓迎の意思を示す様に翔一は氷川の腕を取って家の中に引き入れようとした。
「うわぁっ!」
 咄嗟の出来事に大声を上げてしまった氷川、翔一は楽しそうに微笑みながらズルズルと硬直している氷川の体をリビングに案内した。教授と小学生の太一は、親子レクレーションで留守だった。真魚は、のんびりとリビングのソファに座って、楽しそうに氷川を出迎えてくれた。
「こんにちは、氷川さん。うあわぁ、もうすっかりラブラブって言う感じですね」
「か、ラ…ッ、真魚さんっ!」
 真魚のからかいの言葉に本当に真っ赤になって焦る氷川。が、上手く反論の言葉が見付からなくて、結局はそのまま何時ものソファの指定位置に座らされてしまった。
「何を飲みますか? あ、やっぱり暖かなコーヒーとかが良いですか? それとも、ココア入れましょうか? 紅茶のほうがいいですか?」
 氷川の背後から、わざとだろう? と、思うほど接近して顔を覗き込んで尋ねる翔一は何時もと同じ筈なのに何時もよりも少しだけ意地悪に見えた。
「え、あの…ええと、なんでも…結構です…」
 翔一に対して、こんなにもギクシャクした態度に出てしまう自分を、氷川は認識する事さえ出来なかった。
 そして、氷川の返事に翔一は一寸だけ眉を寄せる。
「駄目でしょ、氷川さん。大人なんだから、ちゃんと欲しい物をはっきりといわないと。なんでも良いって言うのは、一番主体性が無くて困る返事なんですよ」
「す、すみません! では…あの、コーヒーをお願いします」
「はい! 丁度良かったです、焼きたてのお菓子があるんですよ。食べて行ってくださいね!」
 漸く氷川から返事を聞き出した翔一は、軽い足取りでキッチンへ向った。残された氷川がほぉと深く溜息をつく。そんな様子さえ、真魚は楽しそうに眺めていた。
「最近、翔一君はケーキ屋さんが舞台のドラマに嵌っているので、ケーキ作りに凝っちゃっているんです。私も毎回付き合わされて、いい加減太っちゃいそうで困っていたんですよ」
「そ、そうなんですか…。津上さん、料理が趣味でしたしね」
「趣味って言うか、家事マニアって言う感じですよ。おかげで、私もおじさん達も綺麗なお家で美味しい物をいっぱい食べられますけどね」
「マニア…ですか? はぁ…あ…」
「氷川さん? ちゃんと、頭働いてますか?」
 反応が一々鈍い氷川に、真魚は漸く心配になって気がついてくれた。氷川自身は結局苦笑いを浮かべて肩を竦めるのがやっとだった。
「はぁい、ケーキとコーヒーです〜! 後、折角なので、スコーンとクロテッドクリームもつけてみました、どうぞどうぞ」
 トレイいっぱいに焼き菓子とカップを乗せて翔一が戻ってきた。甘いバターと砂糖の匂いが辺りに立ち込めてくると、文句を言っていたはずの真魚も目を輝かせて身を乗り出して来た。
「わぁ、翔一君また腕を上げたみたいね。美味しそう。これは?」
「そっちはマロンパイ、で、こっちがアップルパイとクレープケーキ、で、焼きたてのスコーンとクロテッドクリームに、俺特製のイチゴジャムと、ブルーベリージャム」
 にこにこしながらテーブルいっぱいに並べられて行くケーキを前にして、氷川は目を白黒させるばかりだった。もともと翔一が料理上手なのは知っていたし、パン屋をやっていたこともあるくらいなのだが、ここまでプロ並だとは思っていなかった。
「さぁさぁ、どうぞ。氷川さん。俺の、愛情がいっぱい詰まっているケーキですから」
 当然の様に氷川のとなりに座って、翔一はさっさと一番大きなマロンパイを一切れ、氷川の皿の上に載せた。更に、アップルパイも載せる。シナモンの香がふわりと氷川の鼻腔を擽った。
「では、遠慮無くいただきます」
 つやつやシットリのマロンパイをフォークで切り取り、一口を口に運ぶと―アツアツのマロンクリームがいきなり口の中に広がって、飛びあがりそうになった。
「あつうぅ! ううう!」
 急いでコーヒーを口に運ぼうとしたが、しかしそれもまだ熱かったので、口内の惨状は更に悪化してしまった。
「―!」
「ひ、氷川さん?!」
「氷川さん」
 マナー的に吐き出す事をしなかった氷川は、上半身を屈めて熱さに身悶える。翔一は急いでキッチンに駆け込み冷たい水を持って戻ってきた。
「ハイ、氷川さん、お水です!」
 涙目になった顔を上げて、急いでコップを受け取り一気に口内に流し込んで漸く一息をつくことが出来た。
「大丈夫ですか?」
 びっくりした顔の真魚に、コクコクと頷きながら答える氷川。
「は…はい」
「気をつけてくださいね。パイ関係は、中味が熱いですから」
 笑いをかみ殺しながら、翔一はもう一度コップに水を入れてきてくれた。結局、アツアツのパイをコーヒーと水の両方で食べる結果になってしまった。
「なんだか、氷川さんって、思っていた以上に不器用ですね」
 熱いパイも難なくクリアーしている真魚は余裕の笑みを浮かべている。当然、翔一も余裕で食べているので、氷川一人が少し情けない状況だった。
「はぁ…元々、猫舌なものですから…」
「そうだったんですか? じゃあ今度は焼き菓子じゃない方が良いですね。何がお好きですか? 生チョコ関係とか、カスタードクリームとか…」
「い、いえ! そんな、気を使わないで下さい!」
「遠慮しないで下さいよ、俺、こう言うの好きですから」
「は、はぁ…それはそうなんでしょうが…。しかし、あの…あまり負担になってしまっても困りませんか? その…」
 チラリと真魚の方を伺いながらの氷川の視線に、彼が何を言いたいのか本人がさきに察した。そうして肩を竦めながら微笑む。
「大丈夫ですよ、氷川さん。私も、アギトの正体が翔一君なのは知っていますから」
「そ…それは、そうですよね、ああ…そう、当然ですよね…真魚さんなら…そうなんですよね」
 つまり、もしかして気がついていなかったのは自分くらいだったのかもしれないと思い至り、氷川はまたがっくりとしてしまった。
 思い起こせば、小沢にも北條にもそれなりのヒントは与えられていた。しかし、最初からアギトの人間体に対してかなりの理想を持っていた氷川には、それが翔一に結びつかなかっただけの事で…。
「氷川さん、こんな時も鈍いんだなァ」
 くす、っと笑いながらのんきにトドメを刺す翔一に、氷川はぐっと声を詰まらせた。何時もの彼なら、素早く反論するが―しかし、今回は尤もな意見であり、そうして、相手がアギト=翔一だと思うと、本当にそれだけで思考がストップしてしまっていた。
「それに、全然負担じゃないんですよ、ケーキ造りとか、家事とか。俺の、存在意味って言うか、そんな感じですから」
「存在意味…ですか?」
「そう」
「でも、貴方は…」
「アギトで闘うって言うのも大事な事だとは思うし、俺の力で大事な人を守れるのは凄い貴重な事だとは思うけど、でも…何時までも闘っているわけじゃないだろうから」
 笑いながらも、言葉の内容は重いものだった。
「……」
「戦いが終わった時、俺に何が残るのかって思ったら、やっぱりこれだなぁって思うから。だから、今この時も大事にしたいんですよね」
「……」
「氷川さん?」
 呆然として、翔一を見ている氷川はなにも言わない。 
「あれ? どうしちゃったんですか?」
 不思議そうに顔を覗き込む翔一の瞳が直ぐ近くにきて、漸く氷川は正気に戻ったようにパチパチと瞬きをして、小さく息を吐き出した。
「…なんだか、驚く事ばかりです…。僕には。…そんな、戦いの後の目的なんてなかったから…今が精一杯で…」
 ギュッと、両手を握り締めて少し俯く。長い睫毛が困惑した様に震えていた。
「くす、思っていた理想とはあまりに違うので、混乱しているんじゃないですか?」
 先に、この家に来てアギトの人間体がどう言った人間なのか熱く語っていた時の内容を思い出して、真魚が囁く。途端、氷川はまた真っ赤になってうな垂れ、口篭もった。
「それは…、それはイエ、まぁ、あの…」
「すみませんネェ、氷川さんの理想とは全然違う人間で」
 翔一も真魚に習って肩を竦めながらそう言うが、顔は全く済まなそうでも恐縮している様子も無かった。しかし、冗談の通じない氷川はすっかりしょげてしまう。
「あ…、の。すみません、僕…なんだか、上手く言えませんが…でもやはりアギトは君で良かったのだろうなぁって…思います」
「本当ですか? 今俺がここに居るからじゃないんですか?」
 ぶんぶんと頭を振って全身で否定する氷川。
「そんな事は絶対に無いです! ―ただ…僕は、これからどうやって津上さんに接して行けば良いのか…ちょっと悩んでます…」
「ぷっ…」
 思わず、真魚が吹き出してしまった。
「…どこまでも素直だなァ、氷川さんは」
 翔一も呆れながら苦笑する。そうして、チラリと真魚の方に視線を向けると、彼女は小さく頷いて、自分の分のケーキとコーヒーのカップを持って、そっとソファから立ちあがった。静かにリビングを出て行くが、氷川は二人きりになるまで気がつかなかった。
「…今のままの接し方で良いですよ?」
「今のまま…ですか? でも、あの、やはりそう言うわけにはなかなか…」
「そうかもしれないですね、氷川さん不器用だし、素直過ぎるし。でも、教授や太一にだけはこの事は内緒にしておいてくださいね。余計な心配を掛けたくないですから」
 ギュッと翔一の人差指が、氷川の唇を押さえて閉じさせた。反論は許さないという、無言のプレッシャーである。
 氷川はその言葉の意味を理解して、頷く。確かに、あの人の良さそうな教授や小生意気な小学生に、余計な心配を掛けるのは忍びないものがある。真魚が家出をした時にも大騒ぎをした家族なのだ。もしも、翔一の正体を知ったら…もっと、大騒ぎになってしまうだろう。 
「…今までのままが無理なら、一寸だけ変りませんか?」
「…?」
「俺…アギトの津上翔一じゃなくて、氷川誠の恋人の津上翔一になりたいです」
「えっ!」
 ギョッとする氷川。
 が、驚いて顔を上げると直ぐに唇には翔一の指以外のものが押し当てられていた。
 アップルパイの甘い蜂蜜とシナモンの香りのするキス。素早く、しっとりと合わさった唇が離れた後、翔一はにっこりと動けない氷川に笑い掛けた。
「いいですね?」
「え…あ。…あの…」
 憧れの『アギト』の言葉を、氷川が断れる訳はない。
「いいんですよね? じゃあ、もう一回。今度は氷川さんからキスしてください」
「え? ええっ!」
 とん、と。甘えた格好で翔一は氷川の膝の上に座り込むとそっと目を閉じた。
 氷川からのぎこちないキスが贈られたのは、それから暫く経ってからの事だった。

―END―
2001.11.8