Roast rice cake
Byりか
―16話より
「…もっと…しっかりして下さいっ!」
「は…はぁ。すみません、お父さんの件ではなかなか…手がかりがなくて…」
ビデオテープの中に隠されるようにして入っていた言葉について、何か知っている事は無いかという確認でやって来た氷川刑事に、その目的が果たされた後―真魚は待ちかねていたように、きつい口調で切り込んできた。咄嗟のことに、氷川は父親の事で真魚が苛立っているのだと判断したのだが、しかしもっと強い口調で睨まれた。
「違います! 父の事も…今のビデオテープの音声の事も、確かに気がかりではあるんですが、もっと大事な事です」
いつにない真魚の剣幕に、氷川は返事に困ってしまった。そうして いつもなら絶妙なタイミングで現れるこの家のもう一人の同居人の姿がない事に気が付いた。
「あ、ええと…、そう言えば津上さんは?」
救いの突破口のつもりでの名前だったが、真魚の表情は険しさを増す。
「その翔一君の事です、しっかりして欲しいのは!」
見事に自分が地雷を踏んでしまったのだと、鈍い氷川も漸く気が付いた。真魚は綺麗な眉を厳しく寄せて見せながら、氷川を睨み付けてきた。これは、前に父親の捜査の進展が遅れていると文句を言いに来た時の表情に似ていた。
「あの…」
真魚の剣幕に、氷川は何故自分が津上の事で真魚に叱られなければいけないのか、ピンと来ない。
「氷川さんが何時までもぐずぐずしているから、翔一君が変な人に関心を持っちゃうんですよ!」
「え? ア…あの? 真魚さん? それは一体どういう…?」
ますます混乱している氷川に、真魚は最近の美杉家の様子を訴えた。極力自分があの家政婦に嫉妬しているとは思われないように言葉を選んでの説明は、ともすると言葉を濁しがちになってしまう。それでも、どれだけあの家政婦が怪しいのかは、氷川には伝わった様だった。少なくとも、彼自身も…翔一に好意を持っているので、彼に胡散臭い女が接近すると言う事は心配になったらしい。
「今だって…なにかと理由をつけて二人で買い物に行ってしまっているし…。氷川さんから、翔一君にもっとびしっと言ってください!」
「び…びしっと、とですか? ええと…なんといえば…」
「―そんなの、自分で考えてください!」
相変わらずの鈍さで真魚をまた怒らせてしまった氷川は、速攻、美杉家を追い出されてしまった。仕方なく警視庁に戻ろうとする道すがら…ふと思い立って、普段翔一が買い物に行くと言う商店街の方を回ってみる事にした。
彼が懐いているという女性がどんな人間なのか…? 一応真魚の話だけではなくきちんと自分が見ておいたほうが良いかもしれないと思っての、無意識の行動だった。
「あ…」
車でゆっくりと商店街を走っている時に、ほとんど偶然に近い形で氷川は翔一を見つけた。魚屋の店先でしゃがみ込んで何かをしている。側には…誰かがいるという様子ではなかったのだが、つい氷川は車を降りて翔一の近くへ寄ってしまった。
「津上さん、こんにちは。―何をしてらっしゃるんですか?」
「……」
何時もなら饒舌な翔一からの返事は無く、彼は小指を魚の口に突っ込んだまま目を閉じているだけだった。もしかすると、氷川がここにいることさえ気がついていないような態度だった。
「津上さん?」
「…」
もう一度名前を呼んでみるがやはり返事が無くて、少し考えた後氷川は自分も同じ様に魚の口に小指を突っ込んで、目を閉じてみた。―別段…何かがあるわけではなかった。
ハッと、周囲の視線を感じて目を開け、そうして慌てて翔一に向き直る。
「そうだ! 津上さん、こんな事をしている場合じゃなくて…! 真魚さんの様子がおかしいんですよ。なんだか元気が無い様で…」
真魚の名前を出してみても、屋張り結果は同じで反応は鈍い。さて、これからどうし様か…と、思った時に。唐突に、二人の背後に人が立って柔かな女性の声で「津上さん?」と呼びかけられた。
顔を上げたのは、氷川の方だった。そうして、自分がここにやって来た理由を思い出し、彼女が真魚の言っていた胡散臭い家政婦なのではないかと珍しくちゃんと気がついた。
「君は…」
ふと、氷川の記憶の中に、彼女の顔が一瞬よぎった。ほんの一瞬で、それが何なのか、わからない。だからより一層、その事をはっきりさせたくて 氷川は謎の家政婦に歩み寄ろうとした…時に、彼女の方が先に表情を変えて、店を飛び出してしまった。
「君! 待ちなさい、一寸話しを…!」
警察官の自分を見て駆け出してしまった事に、条件反射の様に氷川も後を追って駆け出した。女性の足だと思っていたが、意外に早くて下手をすると見失ってしまいそうだ。
「君! 待ちなさい!」
階段を駆け降りて行く女の前に若い男が現れた。ふたこと、みこと、何か話をして、そうして―次の瞬間、その男はいきなり殴りかかってきた。避ける間もなく拳が頬にヒットして地面に転がってしまった。目の前に星が散らばって、瞬間頭の中が真っ白になる。
「君は…なっ…ん?…」
ぐらぐらとする足元でなんとかふんばって立ち上がった時には、二人の姿はもうそこから消え去ってしまっていた。
「…一体…なんだったんだ…?」
不審者を逃してしまった事と、訳のわからないまま殴られてしまった事に戸惑って立ち尽くしてしまう氷川。しかし呆然としている背後から、良く聞いた声がかけられた。
「大丈夫ですか? アア、折角のスーツなのに、汚れちゃいましたね」
「つ、津上さん…何時から…」
振り返ると同時にスーツの背中やお尻の汚れをはらってくれる翔一に、恰好悪いところを見られてしまったという顔になる氷川。
「いま来た所ですよ? それよりも…大丈夫なんですか? 誰かを追っていたんですか? 追いかけなくても良いんですか?」
「な……、もとはといえば、津上さんの…」
「え? 俺…? ヤダなァ、俺は別に悪い事してないですよ? あ、でもまた警視庁であの美味しいカツ丼を食べさせてもらえるなら嬉しいですよ」
にっこりと笑って見せる翔一を見て、氷川ががっくりと肩を落とした。こういった掴み所の無い部分に何時も誤魔化されてしまっている様な気がする。
「魚屋さんで折角氷川さんに会えたのに、急いで出て行ってしまうだもの。思わず追いかけてきちゃいましたよ」
まるで悪いのは氷川の方のように言う翔一。
「本当は、あの女性を追いかけてきたんじゃないんですか? 真魚さんも心配していましたよ、貴方が…最近妙な…」
氷川はつい厭味の篭もった口調になってしまった。
だいたいさっきは無視をしていたのに、どうして今は…こんな心がざわめくような事を簡単に言うのか…。なんとなく、自分だけが真剣に対応してしまって、その事を翔一にからかわれているのではないかと、学習してしまっていた。
しかし、言葉は最後まで言えなかった。翔一の手が、しっかりと自分の手を掴んで引き寄せるようにして、瞳を覗き込んできたのだ。
「氷川さんは? 真魚ちゃんじゃなくて、氷川さんは…心配してくれないんですか?」
「わ…あ、私は…」
咄嗟の事に、直ぐには返事ができない。
「俺は、何時だって氷川さんの事をしっかり見てますよ? 氷川さんが一番ですから」
さっきは…無視したくせに、という言葉を飲み込みつつ氷川は注意深く翔一の表情を見詰め返した。全開の笑顔が、今は何故だか虚構の匂いがする。これは刑事の勘だった。
「……本当に…そんな風に思っているんですか?」
氷川の言葉に、翔一は小さく微笑んで肩を竦めた。翔一には珍しい、苦笑である。
「それは、氷川さんが自分で考えてくださいよ? 直ぐにわかると思います」
そう答えてから、翔一はそっと殴られた氷川の頬を撫でた。大きくて暖かな掌に顔全体が包み込まれる様だった。痛みがうっすらと消えてゆく。不思議な掌だった。
「…俺の言葉が嘘かどうか…解るでしょう?」
「……」
真っ直ぐな視線に、吸い込まれそうになる。氷川は言葉を失い翔一の視線を正面から受け止めた。逸らせない、緊張の篭もった空気が二人の間に流れる。
嘘だといえば、きっとこの手はそのまま離れてしまう。しかし、本当にそうだと断言できるだけの自信が、氷川には全く無かった。第一に今現在、どうして翔一が自分に懐いて来るのかさえも、良くわかっていない。つい難しい顔になって、考え込んでしまった。
「氷川さん…そんなに考えなくても…」
無言の氷川に、翔一のほうが先に苦笑混じりでふっと息を吐く。
「だけど…そうかぁ。信じてもらえてないんだ…。じゃあ…何時か…。いつかちゃんと信じてもらえる様にしますから。覚悟していてくださいね」
「え?」
囁くような翔一の声が聞こえたと思った時には、暖かな感触が唇を掠めた。軽く触れ合うだけだったが、間違い無く自分がキスをされたのだと解った瞬間、ガクンと氷川の膝から力が抜けて、再びその場にへたり込んでしまった。
今度は助けないまま、翔一はそんな氷川に一旦背中を向けて、歩き出す。しかし、一歩を踏み出す前に、もう一度振り返って氷川を見下ろした。
「ね、氷川さん。やきもちって。…妬かれると結構気持良いですね」
「え?」
一声言い残してから、翔一は駆け去ってしまった。完全に姿が見えなくなってから、残された言葉の意味に気がついた氷川が真っ赤になって慌てて訂正を入れようとした時にはもう翔一の姿はどこにも見当たらなくなってしまっていた。
「―――ちが…う、やきもちじゃな…」
出遭う度に交わすキスの、その一つ一つの意味を氷川はようやくしっかりと考えなくてはいけない事に気がついた。
あれはからかうためではなく…ちゃんと意味のあるキスだったのかもしれないのだと、ようやく『やきもち』という言葉に刺激されて気がついたのだ。
「まさか…そんな事…」
頭の中は、まだ混乱している…。しかしキスがゆっくりと自分の中に溜まってきているのは間違いが無い様だった。
―END―
(2001.5.25)