や・く・そ・く
byりか
―15話より
「―ハイ、終了です。着替えてくださって結構ですよ」
ガラス窓の向うから、検査技師がマイクで声をかけてきた。翔一は腹筋を利用してきあがった。そうして真っ直ぐにガラス窓に振り返り、そこに立っている長身の刑事の姿を見つけてにっこりと微笑んだ。途端、バッと彼の顔が赤くなる。その反応が楽しくて、少しだけ鼻歌交じりに、着替えに戻った。氷川誠―とっても綺麗でりりしい響きで、口にするだけでも幸せな気がした。
更衣室というよりは、ただ検査室の隅にカーテンを引かれた狭い空間。一人一人が着替えるだけなので別に問題はないが、細身だが通常の企画よりも少しだけ大きな翔一が一人入ると、結構窮屈なものだった。
翔一は、少しだけゆっくりとした動作で検査衣を脱いで…そうしてちらりとカーテンの隙間から顔を出した。タイミング良く氷川がこちらを覗き込んでいて、こちらを見ていた。
唇だけで声を出さないで「やくそく」と二回動かす。怪訝そうな顔をして、直ぐに氷川は部屋の中に入ってきた。すっと翔一はカーテンの中に引っ込んだ。
「どうかしましたか? 津上さん」
「氷川さん、あの…一寸中に良いですか?」
「?」
疑いもなく、氷川はカーテンに手をかけて、中を覗き込む。と、綺麗な薄い小麦色をした背中が目の前に現れた。真っ直ぐな背骨、肩甲骨の辺の盛りあがりから引き締まった腰までの線が氷川の目にも綺麗だと思わせるものがあった。
「津上さん? 何かあったんですか? 具合でも悪いんですか?」
「約束」
「え?」
「忘れちゃったんですか? 昨日、言ったじゃないですか?! 俺が死ななかったら、う〜んとHの濃いキスをしてくださいって」
「あ……」
途端、氷川の顔が真っ赤になった。引きつった口元からは直ぐに言葉が出てこなかった。約束を忘れたわけではなかったが…しかし、まさかこんな所で言い出すとは思わなかった。
戸惑い、その場に硬直した氷川を、翔一は強引にカーテンの中に引っ張り込んだ。よろめく様にして氷川は翔一のなすままに狭い空間で体を合わせる格好になる。検査衣を脱いで、下着一枚になっている翔一の体温は背広の上からもはっきりと解った。翔一は裸の体全部を使って氷川を壁に押さえ込み、間近に顔を寄せてきた。瞳や口元は何時ものように笑っているが…ふとした熱気が、昨日よりもより濃密に彼が男なのだ…と伝えてきた。
ゴクリ…と、喉が鳴ってしまった。約束は昨日翔一が勝手にしたもので、自分がそれを承諾したつもりはなかった。しかし、それでも…彼に「約束」といわれてしまうと、悲しい警察官の正義感ゆえに、それを果たさなくてはならない物のように思い始めてしまう。
「忘れちゃったんですか?」
しゅんとした子供の顔をするが、瞳は真剣だった。氷川は更に言葉を失って、そうしてどうして良いのか困った表情を、あっさりと見せてしまう。
「…別に、忘れたわけではないですが…」
君が勝手にしたことだとは、言い返せなかった。かと言って、自分の方からキスをするなんて到底できない事だった。勤務時間だし、それに…。
「やり方が…」
濃厚なキスというのをどうやってしたら良いのかも解らない。自分にとってのキスは、高校の時付き合ったGFと触れ合うだけの物と…後は、昨日の翔一との…。
思い出すと、また顔が真っ赤になってしまう。一人でどんどんと赤くなって行く氷川を見つめながら 翔一はクス…っと小さく笑った。
「そうでしたね、氷川さんって…不器用でしたものね」
「ぶ、不器用なのと、キスは…関係無いじゃないですか!」
かなり「不器用」という言葉に刺激を受けてしまうのか、瞬時に氷川はムキになって反論する。
「でも、下手でしょう? 氷川さんは」
余裕の笑みを浮かべる翔一。
「なっ…あっ…あ…」
そのままズバリの言葉に、氷川はますます言葉に詰まってしまった。
「女の子と…した事、ないんですか?」
「ば、ばかにしないでください! そのくらい…」
あっても、一回か二回程度。触れるだけの、お子様のキスでは胸を張っては言えないが今はそこまで詳しい事は言わないでおく。
「ふぅん…残念」
「残念?」
「―俺、キスでは氷川さんの初めてになりそこねちゃったんだもの」
「―――き、君はっ…!」
「Hは? まだ未経験なんですか?」
クスクスッと、チェシャ猫のように笑う翔一に、氷川はますますカッカとするが言葉は空回りするばかりだった。丁度そこに、氷川を呼ぶ声が聞こえる。女性の声に、はっとして漸く正気に戻り、かなり不毛な事で自分がムキになっていたことに気がついた。
「氷川君!」
「…呼んでますね。行って下さい、俺も直ぐに行きますから」
「……」
からかわれたままというのは癪に障るが、それでも彼の直属の上司のお呼びでは仕方ない。氷川は急いでカーテンの向うに消え、そうして検査室を出ていった。
「…ふぅん…、なんか…やっぱり良いなァ…」
くすくすと笑いながら、翔一は漸く服を着始めた。身支度を整えてから検査室を出ると、先ほど撮影された自分の内臓の写真が医師の机の上に呈示されていた。氷川と医師、そうして見なれない美人が一人、その写真を覗き込んでいた。彼女が先ほど氷川を呼びつけた上司だと直ぐにわかる。美人で、なんとなく真魚に似てない事も無いように感じるのは、きっとその意思の強い表情のせいだろう。好き…な感じの人だと直感的に判断した。
医師に、心臓近くの異物がすっかり無くなってしまっていることを説明され、一応ホッとした顔をする。あのアンノウンを倒した時から、異物感が消えているのは察していたが…どうしても氷川に会いたくて、わざわざ病院までやって来たのだ。自分のけなげさに、自分で感心してしまう。
「―それで、アギ トのことは? 何か気がついた事は無い?」
「ハァ…とくには、何も。それより、俺はあのアンノウンって言うのが気になっていて、あれは何もなんですか?」
「それは我々もまだ…」
「一寸待ってください、君、身近にアギ トを見ていたのに、何も気がつかなかったんですか? 仮にも君を助けてくれた…」
「あれぇ? 氷川さんこそどうしてそんなにアギ トにこだわるんですか?」
「う…それは…」
「もしかして、氷川さんアギ トの事が好きなんですか? やだなぁ」
クシャっとした、あの全開の笑顔で氷川の心情を思いきり言い当ててしまう翔一。氷川はパクパクと反論しけたが、しかし、小沢が面白がっている顔が見えて口をつぐんだ。頬がまた熱くなってきてつい俯いてしまいがちになる中、翔一はふと真顔に戻る。そうして、免許証と小銭入れくらいしか入っていないキットバッグを抱えなおすと、じゃあ帰りますと小沢と氷川に軽く頭を下げた。
「ア…つ、津上さん…」
約束は…と尋ねかけて、直ぐ側に上司がいるのを思い出し口を閉じる。翔一は何も無かった様にして、どんどんと病院の廊下を進んでいった。
「変わった子ネェ、でも気に入ったわ。氷川君もアアいった子と付き合った方が良いわね、良い影響が受けられるわ」
「は…はぁ…」
一瞬、心臓が止まりそうなほど驚いて、小沢を盗み見る。うで組みをした小沢の言葉には全く裏は無くて、多分本心からなのだろうと直ぐにわかったが…今の氷川には冗談にもならない一言だった。
背中に流れた冷や汗を気付かれ無いようにそっと息を整えながら、氷川はやはり捕らえどころの無い翔一を、見送るのだった。
―END―
(2001.5.20)