形あるものは、いつかは壊れると言うけれど、それを惜しむ心はどこへ行けばいいだろう?
「ゆうすけ、雨がふってきたから。それ、またあとでもいいよ」
あどけない頬をした少年は、そう言って雄介のシャツの袖を引いた。
少年の無残に壊された自転車の修理をしていた雄介は、油で鼻の頭を黒くした顔で振り向くと、やさしく目を細める。
「うん。だけど、もう少しだけ。裕斗くんはお店に入って待っててくれるかな?」
裕斗は首を思い切り横にぶんぶん振って、この場に居座る意志を伝えようとする。
「だってそれ、ぼくの自転車だもん。ゆうすけがまだここでなおしてくれるなら、ぼくもここにいるよ」
「そっか、じゃあ、傘を持っておいで」
「うん!」
こんどは素直に頷いて、裕斗は傘を取りに店に走った。
少年は、近所に住む小学生だ。確かまだ二年生で、平均より小柄なせいか体格はみのりのところの幼児とあまり変わらない印象だ。
子供は見た目にどれだけ可愛らしくても、すべてが天使のような心を持っているわけではない。人間関係のしがらみなど知らず、建前で世を渡るなどという知恵もなく、自分の欲求に正直な幼さというのは、残酷である場合が多い。
優越感を得ようというよりも、単なるその場のひまつぶしのためだけにでも、弱者をいたぶるような行為を恥じない。
いじめのターゲットとなりうる理由など、ほんの些細なことで充分らしい。
裕斗は明るく素直で聡明な少年だが、そのせいで少々担任の先生に可愛がられすぎた。細くて小柄で暴力を避ける性格が、いじめっ子には好都合であったのかも知れない。裕斗は転んで壊したと言い張っているが、その壊れ方は、転んだせいにはとても見えない。誰かが故意にハンドルを捻じ曲げなければここまで曲がらないし、こんなにペダルがひしゃげるはずはない。わざとタイヤとサドルに釘を刺したのでなければ、こんなに何箇所も穴があくはずはない。
「おかあさんは新しいのを買ってくれるってゆったんだけど」
店から大きな傘を持って戻り、自分が濡れるのもかまわず雄介のうえにさしかけながら、裕斗は言った。
裕斗の母親は、明らかにいじめられた挙句に壊されてきた自転車を嘆かわしく眺めて、すぐにでもスクラップ置き場に捨ててこようとしたらしい。
「これね、九州のおばあちゃんが、買ってくれたんだ。ぼくの小学校の入学祝なんだよ」
「知ってるよ。もっとぴかぴかのおニューのときに、真っ先に見せに来てくれたもんな」
雄介は答えながら、傘の位置を裕斗のほうへ押しやる。
「うん。それだから、新しいのはいらないんだ。ぼくがもうすぐ大きくなるから、そしたらどうせ乗れなくなるんだからって、おかあさんは言うんだけど。でも、まだ乗れるんだし」
押しやられた傘を、裕斗は押し返そうとし、雄介に「め!」と睨まれ、しかたなくその二人が少しずつ濡れる位置で妥協する。
「裕斗くんはおばあちゃんが、大好きだもんな」
忙しく手を動かしながらもそう言った雄介に、裕斗は笑顔を咲かせて大きく頷く。
「いつもニコニコやさしくて、むかしばなしとおうたを、やまほど知ってるんだよ。お正月にしか会えないけど、おはなしをたくさんしてくれて、いっしょにうたってくれるんだ」
裕斗の両親は彼が生まれたときからずっと共働きだ。休日も疲れたと言って、あまり話し相手にもならないという。年に一度しか会えなくても、つきっきりでずっと相手をしてくれる祖母が誰よりも自分の一番の味方だと思っているのだろう。そして、留守がちではあるけれど、在宅で店がひまな時間帯であればこうしてかまってくれる雄介にも、かなり懐いている。
「おーい、雄介。ハンサムさんから電話だよ!」
そこへ、店から顔を出したおやっさんの声がした。
「はーい。今行きます!」
雄介は大きな声で答えてから、自転車に銀色のカバーを被せる。
「ごめんな。雨も強くなってきたし、ここで中断。でも、きっとなおすからね!」
「うん。ありがとう!」
雄介は工具を左手に、右手に裕斗の手をとって店に戻った。
奴らが現れたというので、雄介は現場までBTCSを走らせた。だが、ついたときには逃げられたあとだった。
「悪いな五代。大事な用の途中だったんだろう?」
雨のなかバイクを飛ばしてきた雄介をねぎらうように、一条が言った。雨が激しくなってきたので、すぐにバイクで戻るのも危険だからと、今は雄介も一条の覆面車の助手席にいる。
「大事なって・・・おやっさん、なんか言ってました?」
「ああ、おまえが電話口につくまで、なにをしているところか説明してくれた」
それがおやっさんなりのサービス精神なのだろう。ラジオの放送中ではあるまいし、沈黙のまま保留にしても誰も文句は言わないだろうに、雄介が戻ってくるまではと場を繋ごうとしていたらしい。
「スクラップ同然の自転車を、近所の子供と一緒にむきになって修理しているところだとか言っていた。ものを大切にするのはいいことだが、限度問題かも知れないと」
「あの子の親は、新しいのを買うって言ってるらしいんです。ただの《もの》なら、それでいいんでしょう。でもね、あれはあの子にとってはとっても大切な自転車なんですよ。そう簡単には替えられない。乗れるうちは乗りたいって気持ち、俺にもよく解ったから」
言いながら、雄介はどこか淋しそうな表情で近くのビルのひさしのかげに置いたBTCSを見る。
「TRCSのこと、まだ気にしてるのか?」
眉をひそめて、一条は訊いた。雄介は新しいバイクを喜んだけれど、心のどこかで今まで大切に乗っていたTRCSを壊されたことを今も悔しく思っている。
「その子が自転車を大切に思ってるのは、大事なおばあちゃんから小学校の入学祝に買ってもらったものだからなんですよ。俺も、出会ったばかりの頃に一条さんが渡してくれたものだから、だからあれがすごく大切だった」
「五代・・・」
一条は、一瞬だけ辛そうな表情をしたが、すぐにかき消して微笑みを浮かべた。
「なんだ、俺はおまえにとって、おばあちゃんか?」
「ええっ。なんてこと言うんです」
雄介の慌てぶりに、一条が楽しそうに笑い声をあげる。かなりめずらしい状況なのだが、雄介のほうにはそんなことを喜ぶ余裕がない。
「祖母だというなら、こんどから俺の話は正座して聴いてもらうかな。気安く触れるなど、もってのほかだな」
「一条さんのおばあさんは、そういう厳しいかただったんですね。でも、あの子のおばあちゃんはもっと気さくなようすなんですよ。会えばたくさんお話してくれて、うたを歌ってくれたり」
雄介は、大袈裟な身振り手振りをまじえながら必死になって言葉を重ねる。
「そうだ。膝枕なんかもしてくれるって、言ってました!」
心で裕斗に手を合わせながらも、雄介は一条に期待の眼差しを向ける。
「それは俺に、膝枕して欲しいっていうことか?」
雄介は冴え冴えとした美貌を間近に見て圧倒される気持ちになりながらも、大きく頷いた。
「そうか、じゃあやっぱりおばあちゃんでいいんだな」
「え?」
「普通おばあちゃんとは、キスしたり寝たりしないよな。そうか、よく解った。これからは、おばあちゃんって呼んでもいいぞ」
雄介は背筋に冷たいものが走るのを感じて身震いした。一条薫に「おばあちゃん」などと突拍子もない呼びかけが出来るものか。そんなこと自分が許せないし、周囲だって許すはずがない。
だが、どんな風に見られているのか、まるで無自覚な一条はすました顔で続ける。
「俺もまさか、この歳でこんな大きな孫を持つことになるとは思わなかったな」
「一条さーんっ」
雄介は狭い車内でじたばたと暴れる。まさか、こんな風に話が転がるとは思ってもいなかった。
「おまえが、悪いんだ」
「え?」
「いつまでも、壊れたバイクのことを気にして」
「だから、あれは一条さんに――」
もらったから、という言葉は一条の真剣な視線に遮られた。
「俺はおまえのおばあちゃんじゃないだろう?」
「当たり前です!!!!!」
雄介は、ここぞとばかりにコクコクとなんども頷く。
「だったらよく考えろ。《俺が渡したバイク》と《俺》と、どっちのことを思うべきなんだ? おまえが辛そうにしているのを見るのは、俺だって・・・・・・」
辛い。という一言は、聞き取れないくらいに小さな声で呟かれた。
「一条さん」
嬉しくて、嬉しくて、あんまり嬉し過ぎるので、名前を呼ぶほかに、言葉が出てこない。
「雨、あがったみたいだな。早く帰って、自転車の修理の続きをしてやったらどうだ?」
車外に視線をうつすと、いつのまにか雨はあがっていた。東の空はうっすらと明るくなっている。
「ありがとう、一条さん。俺、BTCSは、もっともっと大事に乗りますから!」
「おまえ、俺が言ったことちゃんと聴いてたか?」
「はい。だからあとで、行ってもいいですか? 今晩は一条さんに」
そこまで言って、雄介は一条の耳もとに口を寄せる。
――のってもいいですか?
「バカ! 早く帰れ!!」
一条は、雄介を車から邪険に追い出した。それでも、目は笑っている。雄介も、頭を抱えて退散しながら、BTCSにまたがって、サムズアップを決めた。
雨上がりの空には、虹がかかっていた。
fin.2000.9.30