悪 夢

 

 自分には大切なひとがいた。
 大切で、大切で―――もう、自分が何故こんな気持ちになるのかわからないくらい、哀しくなるくらいに失くしたくなくて、だから本当は誰にも見せず、誰からも隠して、そっと自分だけのものにしておきたいと、半ば本気で願っていた。
 狂っているのだ。
 自分の感情は、そこまでの狂気をはらんでいるのだと、日ごとに切なく自覚するしかないような、そんな存在だった。
 けれど、戦いは激しくて。現実の自分にはその人を隠しておけるようなそんな余裕はまったくなくて。
 なによりも、優先させると決めていた。誰よりも守るのだと、きっと守り通せるのだと、信じていた。
 いや、そう信じたかっただけなのかも知れない。
 そうして、終焉はあっけなくおとずれた。
 いつだって、やさしい笑顔をくれた。そして、大丈夫だと繰り返した。
 あれは―――? あれは、誰の言葉だったのだろう? 大丈夫だと言って笑ったのは、あの人だったのか、それとも自分だったのだろうか? 内心の不安を押し隠すように、まるで呪文のように、それとも祈りの言葉のように、繰り返した。繰り返すしかなかった、大丈夫と。
 おかしい。記憶が混濁している。
 それが、どちらの言葉だったのか、解らなくなっている。
 目の前で敵の刃に破れ、命の灯りを消そうとしているのは、あの人ではなく自分のほうなのだろうか?
 だからこそ、解らないのか? だから、記憶が曖昧なのか?
 そうであってくれ。そうなら、どんなにいいだろう。
 この命を引き換えにしても、守りたい。守れるなら、笑って逝ける。だからどうか、あの人だけは、あの人のやさしい笑顔だけは、守らせて欲しい。ほかには、なにも望まないから。
 目を開けても、辛い現実しか映らないというなら、もう二度とまぶたをあげたくはない。
 どうしようもないエゴイズムを自覚してる。それを、罵られようとも構わないと思ってしまう。
 あの人を喪うなら、世界は色褪せて、その存在すら意味を失くしてしまうだろう。
 決めたのに。必ず守り通すと決めていたのに。それが果たせない自分なら、せめてあの人の身代わりにさせて欲しい。自分の命で贖えるものではないと、解っていても。それでも。

 

***

 

「一条さん。一条さんっ!! 大丈夫ですか? ねぇ、俺の声聞こえませんか?」
 遠いところで、誰かが呼ぶ。
「一条さんっ」
 必死な呼び方だった。それは、懐かしい誰かに似ている気がした。
 ゆっくりと目をあける。目の前には、心配そうな男の顔があった。
 これは、夢の続きだろうか? 咄嗟にそんなことを考える。
 けれど、夢にしては、揺さぶる腕の感覚が生々しい。力強くて、温かい。そうだ。温かい。温かくて、ほっとする笑顔。それが、見たい。ただその一心で、思いまぶたを開いた。
「五代雄介・・・・・・」
 その名前は、考えるまでもなく口からこぼれた。
「あー良かった。俺がわかるんですね」
 雄介は、心底ほっとした、という表情で笑う。
「ああ、どうしたんだ?」
「どうしたじゃありませんよ。グロンギの奴にやられて、俺もさっきまでそこでのびてたんです。なんだか、酷い夢見ちゃって、それで怖くなったんですよ。一条さん、このまま目を醒まさなかったらどうしようかと思いましたよ」
 おどけた口調のなかに、内心の根深い不安が見え隠れしていた。
「酷い夢?」
 一条は、怪訝な表情で問い返す。酷い夢。まったく、厭になるほど酷い夢だった。
「ええ、あんまり縁起悪くて、言いたくないような夢でした。ちょっと、グロンギにやられた精神的ダメージが大きかったせいかも知れないです」
 辛そうにそう告白した雄介の顔は、よく見ると蒼白だった。
 言葉通り、かなり酷い夢だったのだろう。
 けれど、自分ほど酷い夢などありはしない、と一条は思う。
「そうか。でも、無事で良かった」
 一条は、心からそう呟いて、自分を心配そうに覗き込んでいた雄介を抱き寄せた。
「い、一条さん?」
 焦る雄介を無視して、そのぬくもりを確かめる。温かい。ただ、それだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのか? 何故こんなにも、安堵をもたらすのだろう?
「五代雄介、おまえ、俺を守りたいなんて思ってるのか?」
 抱きついたままで、耳もとにそっと問いかける。
「もちろんです、一条さん。俺、クウガですから」
 あくまでも明るく答える雄介に、いっそう切なさが増してくる。
「では、あれはおまえの夢か?」
 雄介の見た酷い夢に、シンクロしていたのだろうか? でも、あの辛い気持ち。あの、焦燥感。そして、絶望的なほどの執着、愛しさ、そして狂うほど大切だと感じる気持ち。それは、雄介らしからぬものに思える。あれは、自分自身の気持ちじゃなかっただろうか? と、一条はあくまでも自分の気持ちを冷静に分析しようとしていた。
「一条さんも、辛い夢を見たんですか?」
 雄介が、心配そうな顔で訊く。
「いや、そうゆうわけじゃないんだが」
 一条は、説明することも出来ず、半端な否定の言葉を呟く。
「でも、大丈夫ですよ。もう、グロンギの奴も逃げていったようですし。俺たちが本気を出せば、きっと無敵です。ね!」
 そう言って、得意のサムズアップを、全開の笑顔とともに決めて見せる。
 根拠の見えない自信で、鮮やかに笑える男。
 そして、どんなことがあっても守り通すと決めた相手。
「そうだな。けど、今日はちょっと疲れたようだ」
 一条は、かすかに笑ってまた雄介の腕のなかにもたれかかった。
 そして、悪夢から醒めた安心感から、そっと目を閉じてしまったせいで、雄介のどこまでも能天気で雪崩をおこしているのかと思うような幸せそうな表情を見ることはなかった。
 ―――なかったのだが、誰も見ていないところで、一条も雄介に負けないくらいのあたたかな笑みを浮かべていた。日頃の彼を知る者が見たら、驚くような無防備な表情で。
 同じ悪夢から醒めて、同じ未来の夢を見始めた。
 確かなものは、今近くにある体温と、自分自身の気持ちだけだったけれど。それだけあれば、明日からも戦える。いつか、こんな夢を見たと笑って語り合える日がくるのだろう。
 一条はそんなことを考えて、またくすりと笑いをもらす。
 まるで雄介の根拠のない自信が伝染したみたいだ。
 いや、根拠はあるのかも知れない。自分には、五代雄介がいるのだから。
 そして、下を向いたままくすくすと笑っていると、雄介が無理矢理顔をのぞきこんでくる。
「やだな、一条さん。思い出し笑いですか? すけべ」
「―――って、思ったんだよ」
「え? なんです?」
「あったかいなって。さすがに子供って体温高いなって思ったらおかしくなった」
「あー、ひどい。そんなこと考えてたんですか?」
 ひどい、と言いながら雄介は子供のように笑う。つられてまた一条も笑ってしまう。
 さっきまで見ていた悪夢など忘れてしまったように。さっきまで見ていた悪夢を忘れてしまうために。
 

fin.2000.4.13