「そんな目をしても、今日はやめませんからね!」
まるで自分に言い聞かせるかのように、雄介はそう言った。
一条は、戸惑いを含んだ笑み、などという難しい表情を見せる。
「やめてくれなんて言ってない。明日の朝早く起きねばならないことや、今日も遅くまで会議で疲弊しきっていることや、だから少しでも身体を休めておく必要がある、なんてことよりも、おまえの気持ちが大切だから」
いつも、耳にやさしく響く声。なのに、語る内容は、随分と刺々しい。
「一条さん」
「だから、やめようとは言わない。俺の体調より明日の仕事より、なによりもおまえのことが最優先事項だから。気が済むまで、相手をするから」
いまひとつ感情をうかがわせない声。厭味やあてこすりなのか、本心からの言葉なのか、雄介には察することさえ不可能だった。
「解りました。もういいです。疲れてるの解ってたのに、すみませんでした」
雄介は、のしかかろうとしていた一条から離れ、恨めしげに一条を見る。
「ずるいじゃないですか、一条さん。そんなこと言われたら、俺が萎えるの知ってて」
笑い話のように終わらせたかった。なんでもないことのように、少しだけくだけた口調で拗ねてみせたのは、雄介なりの一条への気遣い。
そして、しょんぼりと肩を落として、ベッドから降り絨毯のうえで膝を抱える。
一条はそんな雄介をしばらく無言で見ていたが、やがて自分もベッドから降りてその隣に座り込む。
「本気でやめさせたかったわけじゃない」
静かな声が耳もとで囁く。
一条の右手が、雄介の肩にかかる。それから、ゆっくり雄介の髪を梳く。
「遠まわしにやめさせようなんてしない。嫌なら、嫌だと言えばいいんだろう?」
超至近距離に、一条の瞳がせまる。
「そ、それは・・・・・・時と場合によります」
目をそらすことが出来ずに、雄介は意地になったように否定する。とめようと思っても、止まらないことだってある。自分だって、いつも言いなりになってるわけじゃない、と肩に力を入れる。
そんな雄介のようすを見て、一条はくすっと笑いをもらす。
「俺に無理強い出来るとは思えないな。現に今だって―――」
と、こんどは左手で雄介の頬に触れる。
「あれだけの言葉で、やめたくせに」
責めるように言って、一条は雄介の唇に自分のそれを重ねた。両手を雄介の首のうしろにまわして、深く口づける。
息が苦しくなるほどの長いキス。
雄介の困惑を映した瞳が、徐々に官能を感じさせるそれにとって変わろうかという頃合を、まるで見計らったように一条は唇を解放する。あっさりと身体を放して、ひとりでベッドに戻る。
「さて、本当に明日も早いから、寝るよ」
キスだけで、すっきりしたような顔をして、一条は絨毯のうえに雄介を置き去りにした。
「一条さん、俺で遊んでませんか?」
言葉で挑発して、態度で煽って。やはり、このままではもう止まれない。そう思った矢先に、手のひらを返す。疲れているのだと言いながら、雄介の反応を楽しんでいるような一条の態度だった。
「遊んで欲しいのか?」
雄介は、予想外の返答に息を飲む。一条は、挑むようにそんな雄介に艶めいた視線を向けている。
「なんか今日の一条さん、ようすがおかしいですよ。なにかあったんですか? また、上層部ともめたりしてませんよね?」
命令違反。単独行動。越権行為。それが、エリート警部補で、一見優等生風な一条の得意技だった。ただし、どれも功を焦った出世欲からのものではなく、いつでもその場で最良の策をと判断した結果の行為なので、繰り返していても処分の対象になったことは今までなかった。
だが、今までなかったから、これからもないとは言い切れない。はたで見ている人間がはらはらさせられる無謀な行動がおさまったわけでもない。
雄介は一条のいつもとは微妙に異なる態度が、なにかのストレスからきているのではないかと心配になった。
「別に、俺はいつも通りだ。なにもない」
けれど、一条は微笑みさえ浮かべて答える。
「おまえが勝手に美化して、俺のうえに綺麗な理想を重ねてただけなんじゃないのか?」
皮肉な言葉に再び驚かされて、雄介はベッドにあがる。一条の両手を自分の両手で包み込んで、首を振る。
「そんなことないです。一条さん、最初から綺麗過ぎて美化する余地なんかありませんから!」
気合いの入った言葉に、一条は苦笑する。とられた両手を雄介に預けたままで、遠くを見るような目になる。
「昔、読んだ本に書いてあった。それによると、地球ほど命にあふれていて醜い星はないそうだ」
世間一般では、地球は青く美しい星だとされている。地球に住む人間の言葉なのだから、一度くらい疑ってみても良かったのかも知れないが、雄介はそんなことを考えてみたこともなかった。
「たいていの星には石ころや大地があるだけで、この星のように生命に溢れてはいない。だから、殺しあうこともない。けれど、この星では、その生命が喰らいあって生きている。喰らいあわずば生きられない」
「喰らいあうって・・・・・・食物連鎖のことを言ってるんですか?」
「最強かに見られた動物でさえ、死んで土に還れば、植物や小さな虫の養分になる。そうした連鎖の輪のなかに、人間もいるんだ。自分も、醜くこの星に溢れる生命のひとつってことだ。あれを読んだときには、カルチャーショックだったな」
今よりももっと傷つきやすい少年時代の読書体験。それを急に雄介に語る気になったのは、気まぐれだろうか?
「無機物も有機物も等しく命だとするなら、どちらも摂らずには生きられない。つまり、ベジタリアンも同罪だ。それだけでも、耐えがたい事実のように思えたのに、ひとは、ひとを殺したりまでする」
たとえその本に出会ったのが、感性が瑞々しかった十代の頃だったとしても、今でもそれを覚えている。今でも、その事実に傷ついている。それは、一条の心が綺麗だからだ。気高く清廉であるからこそ、そんな解釈は極論だと切って捨てることも出来ないでいる。
「一条さん。俺は、そんな考えかたがあってもいいし、そういう発想が出来るのはある意味すごいことかなって思いますよ。だけど、宇宙飛行士でも異星人でもないから、見たこともないしこれからも見ることのない余所の星と比べて地球がどうかなんてこと、どうでもいいです」
そう言って、一条の身体にふわりと覆い被さる。
「ただ俺は、そんな言葉を真摯に受け止めて、ずっと覚えてる一条さんはやっぱり綺麗だって思うだけです」
一条はまた、必死な目をした恋人のようすを見て、くすくすと笑う。
「俺が、おまえで遊んでいても?」
「弄ばれてるんでもいいです。一条さんなら、嬉しいです。だから、ほかの誰かでは遊ばないでくださいね!」
雄介は、こんどこそ止まらなかった。
そうして、すっかり思いのたけを言葉だけではなく行為で伝えたそのあと。
「俺、さっきはどうでもいいとか言いましたけど、一条さんが読んだ本なら、俺も読みたいです。タイトルと作者名、教えてください」
「嫌だ」
ぐったりと疲れたようすで天井を見上げながら、一条は雄介の願いをあっさり断った。
「なんでです?」
「3Pあり、緊縛プレイありの、ハードな内容だったから、おまえには読ませたくない」
「ええっ」
雄介は、一言叫んだあとで口をぱくぱくさせた。もう、なにを言ったらいいのか解らない。まだ、一条は自分で遊ぶつもりで冗談を言ったのだろうか? それとも、実際にそんな本だったのか?
「壮大なスケールの論理展開。それに加えて激しい性描写。未成年にはなかなか刺激的な作品だった。ん? どうした? やっぱり、俺のことを誤解してたってやっと気がついたのか?」
冗談・・・・・・では、なかったらしい。
「誤解なんかしてません。それより、誤解してるの一条さんのほうじゃないんですか? なんで、それを俺に読ませたくないんです? 俺、それくらい読んでショックを受けるほど初心な子供じゃないですよ!」
雄介としては、これでもぎりぎりのところまで意地を張った台詞だった。ところが、それを聴いた一条は、意味深な笑みとともに爆弾を落とす。
「子供扱いしたわけじゃない。ただ、あれの影響受けて縄を持ち出されたら困ると思ったんだ」
雄介は、爆死。ベッドになついて、起き上がれない。
「おやすみ」
そんな雄介の頭を一条がかるくなでて、自分も目を閉じる。
やさしい指の感触に、雄介の心は簡単に浮上する。
学生時代、なにを読んでいたのか。それでどう考えたのか。そんな一端でも覗き見ることが出来て嬉しい、と思うことにしよう。誤解してるんじゃない。ただ、お互いに知らないことがたくさんあるというだけのこと。
ゆっくり知っていけばいい。ゆっくり知らせていけばいい。
雄介はそんなことを考えながら、幸せな眠りにおちていった。
fin.2000.10.16