舞台がはねて、翌日は稽古も休み、というのは今の僕にとっては絶好の「長野日和」だ。
皆が打ち上げやるぞって、盛り上がってるときに、聴こえないフリでこっそり抜け出して、バイクに飛び乗る。
着くのは深夜になるかも知れないけど、一条さんの仕事もどうせ遅くまでかかってるから、丁度いい。
実際、マンションに着いたときには一条さんも帰ってきたばかりだったらしく、バスタブに湯をはっている最中だった。
「軽い夕飯作ってますから、一条さんはお風呂どうぞ!」
と言って笑うと、一条さんは困惑しながらも頷いた。こんな時間に食材抱えてやってきた僕を、無碍に追い返すことも出来ないんだろう。
本当に簡単に出来る白身魚のソテーに、温野菜をそえた。それから、コーンスープと、神戸直送の白いパン。
「次の芝居は、長い台詞があるんです」
「どんな役なんだ?」
「木なんですわ」
「き?」
「もうすぐ切り倒されようとしてる公園の老木です」
「それはまた・・・」
なんと言っていいか解らない、という正直な一条さんの反応がたまらなく可愛い。
「酷いでしょう? こんな男前をつかまえて老木の役やなんて。けど、主人公の女の子が心のより所にしてる木やから、動きはなくても、大事な役なんですわ」
と、説明すると一条さんは、嬉しそうに笑ってくれた。
「そうか。それならやり甲斐があるな」
「はい。一条さんも観に来てくれます?」
「ああ。是非観させてもらおう」
「やったぁ!! きっとですよ。僕、特等席をキープしますからね!」
刑事さんの仕事の話をするわけにはいかないから、僕らの会話はどうしても、こんな風になる。けど、一条さんは穏やかに僕の話を聴いてくれて、僕にとっては至福のひとときだ。
そんな楽しい会話がはずんだ後で、ワインを飲もうとしたら、怒ったようすで必死に止めた。
「まだ未成年じゃないか。ジュース・・・は、ないからコーヒーかお茶にしておきなさい」
ひどく生真面目な言いようが、あまりにも一条さんらしくて嬉しくなってしまいながらも、一杯だけだからと言ってみた。
「せやって、料理に使った余りなんやし、まさか一条さんかて二十歳になるまで一滴も飲まなかったわけとちゃいますよね?」
「飲まなかったに決まってるだろう」
「ええっー!!」
なにをそんな当然なことを聴くのか、といった調子で即答されて、僕はのけぞってしまった。
僕があんまり驚いてみせたものだから、一条さんは自分の常識が少し変なのかと思い悩むような顔を見せた。少しじゃなくて、今時天然記念物的真面目さ加減やと思うけど、まさか、そこまでは言えない。だから、ただ、黙って一条さんに両手をあわせてお願いのポーズをとってみた。
「しかたないな。一杯だけだぞ」
そしたら、ようやく一条さんが折れてくれたので、僕は心のなかで、ガッツポーズを決めた。
ほんまは、ワインなんか一杯や二杯くらい飲んだところで、どうということはない。けど、この一条さんのようすからして、未成年が酒に弱くても当然だと思っていることだろう。
だからワインに酔ったフリをして、一条さんに抱きついた。抗う気配を見せた一条さんの耳に囁く。
「もう、五代さんを待ってなんか、いないんでしょう?」
一条さんは、とても正直に、その名前を聴いて動きを止めた。
「僕なら、あなたを独りにしたりしない」
「七緒君・・・」
「ずっと、ずっとそばにおるから。せやから、僕を拒まないで」
「君は、酔ってるんだ」
「そうやね。酔ってますよ。一条薫って甘くて苦い酒に、もう、泥酔しとるかも知れへん」
我ながら気障で陳腐な台詞やと思ったけど、ここまできたらとことん、って気持ちやった。
「ただの料理用のワインだろう? 甘いから意識しなかったんだろうが、ワインはけっこうアルコール度数が高いからな」
一条さんは、優しい声で、なだめるように言ったけど、僕の腕から逃げ出そうとはしなかった。
「一条さんがそうしたいんやったら。酒のせいがいいなら、それでもいいです」
「なにを、言って・・・」
最後までは言わせずに、唇を重ねた。
一条さんは、大きな瞳で僕を見詰めた。戸惑いと、不安と、艶がにじんでる、複雑な色をした瞳に見えた。
「君は、五代が好きだったんだろう?」
「僕は今いないひとを、いつまでも待ってなんかいませんから。一条さんも、そうやって言ったでしょう?」
そう言って、しばらく見詰め合った。
息を詰めるように僕を見ていた一条さんは、やがてその切ない瞳をまぶたのしたに隠した。
激情は、なかった。最初から、そういうのとは違ってた。ただ、こんな綺麗なひとが、自覚もないままに傷ついて、ひどく淋しい思いをしていることが、耐えられなかった。この腕のなかで、憂悶から解放してあげられるなら、そうしたい。無理に笑うことなんかないから。孤独な魂ごと全部、抱きしめてあたためて、自分もあったまりたかった。
五代さんがいなくて、僕もずっと淋しかったから。
こんなのは、間違ってるのかも知れない。淋しい同士で慰めあっても虚しいだけなのかも知れない。
でも、一条さんを愛しく思う気持ちに、嘘はない。
間違いだって、かまわない。
一条さんは、忘れられないひとの面影を、僕のうえに重ねているだけなのかも知れない。
それだって、かまわない。
僕はずっとそばにいるから。一条さんのそばで、あのひとに似た誰か、ではない僕自身を見てくれるようになるまで、長いときを一緒に過ごすことが出来るから。
いつか僕が、一条さんの心のより所になりたいと思う。
翌朝、とても満ち足りた気持ちで目が覚めた。隣ではまだ一条さんが、規則正しい寝息を聴かせてくれている。
寝顔は安らかで、今まで見たなかで、一番おだやかなようすだ。
目を醒ましたら、僕みたいな未成年を相手にしたことを、ものすごく後悔するのかも知れないけど、その後悔よりも大きな幸せを、僕はきっとあげられる。
そんなわけで、僕らはおかげさまで平和に幸せに暮らしています。もう五代さんがいなくても大丈夫。ミイラ取りがミイラって感じですか? 最初はマジで、約束守ろうとしてたのは本当なんですよ。でも、あんな綺麗なひとをずっとそばでただ見てるだけなんて、そんなこと僕じゃなくても無理やったと思いませんか?
なんて近況報告を、五代さんはどこまで信じますか? 僕の書いた手紙の内容と、一条さんの五代さんへの思いと、どっちを信じられますか?
だって五代さん、このままやったら、浮気されても、それが本気になったって、文句なんか言えへん立場でしょう?
残念ながらこの手紙は途中から脚色入りまくり(でも、どこからが創作なのかは、内緒です)やけど、全部本当になる日も近いんやないかと思います。
せやから五代さん、一条さんがすっかり五代さんを忘れきるまで、帰ってこないでくださいね。
五代雄介様
朝日奈七緒
fin.2001.2.24