心配しているに決まっている雄介のことを思って、一度は夜中に電話をくれた一条だったが、さすがに入院中にいつも通り毎日電話するわけにはいかなかった。どういうわけか・・・と本人は訝しいようすだが実際には誰にでもはっきりと解る理由で、看護婦たちがなにかと理由をつけては一条のようすを見に来たがるせいもあって、携帯電話がみつかってしまい、退院まで没収ということになってしまった。
という情報が、雄介のもとにもたらされたのは、一条の同僚である杉田からで、電話は出来ないが経過は良好だから見舞いの必要はない、というメッセージまで添えられていた。
雄介は会いに行きたかったが、来なくてもいいと先に言われてしまい、また自分から桜井に「一条さんだから大丈夫」などと言ってしまった手前もあって、関東医大の敷居が高くなってしまった。
会いたい。でも、一条さんの顔を見たら、見るだけじゃすまなくなっちゃうかも知れないし。怪我してる一条さんに無茶しちゃうわけにもいかないし。声も聴かないまま何日経ったかな? やっぱり、会いたい。だけど、来るなって言われてるし。
などと、雄介らしくもなくぐるぐると思い悩んで気がつけば深夜零時を少しまわる時間。
電話はもうかかってこないと解っていても、ついつい習慣で店のいつもの席に腰掛けて、雄介は今日は技とも趣味とも言える創作活動を続けていた。頭は一条のことでいっぱいだが、それでも手はしっかりと動く。
そこへ、電話のベルが鳴り響いた。
雄介は、がばっと顔をあげる。その瞳は、もしかしたらという期待に輝いているが、次の瞬間には気を落ち着けようというのか、大きく息を吸って、自分の胸をそっと宥めるように叩いたりする。
そして、ゆっくりと受話器をあげる。
「オリエンタルな味と香りの――」
『ポレポレさんね。遅くに悪いが、カレー2人前頼むよ」
「お客さん、もう営業のほうは終わってまして、明日の朝ではいかがでしょうか?」
雄介は聞き覚えのある声に、出前を頼まれてついつい調子を合わせてしまってから、笑う。
「なんですか椿先生、ホントにお腹すいてるんですか?」
「いや、オーダーは冗談だ。それより、ちょっと言っておくことがあってな』
「やっぱり、コーヒー3つ、とか言わないでくださいね」
『そうじゃねぇよ。うちの病院な、警備員室は禁煙なんだよ。でも、今日の当番はヘビースモーカーだから、よくおもてに出てタバコ吸ってるんだよな。その間は、そいつのおかげで裏口は鍵かかってないから』
「それって・・・・・・」
『一条のやつがな、消灯を守らないで困ってるんだ。夜遅くまで奴らの資料とにらめっこしてる。退院出来ないならせめて頭をつかって誰ぞのバックアップをしたいとかでな。多分、まだ今ごろは起きてるんだろうなぁ。これじゃあ、なかなか治らないかも知れないよな。あいつがいつまでも入院してると看護婦たちが浮き足立ってて、迷惑なんだよ。なんとかしてもらいたいもんだ』
「椿先生、ありがとう。俺、すぐ行きます!」
『俺は別に、礼を言われるようなことはしてねぇぞ。来いとも言ってないからな。ただちょっと一条のことで愚痴っただけのことだからな』
「わっかりました!」
雄介は、元気に返事をすると受話器を置いた。そして、創作活動の成果を手に持って、速攻で出かけていった。
裏口のドアは確かに開いていたが、こっそりと入ってみると、警備員は警備室でしっかり喫煙中だった。
雄介は、心のなかで再び椿に礼を言いつつ、一条の病室へ急いだ。ナースセンターのまえを通るときには、とくに緊張した。廊下に面した窓から見られないようにと中腰になり、ぬき足さし足で、まるで空き巣に入った泥棒のようだ。本当はもう、一分でも一秒でも早く会いたい。なのに、大きな足音を立てるわけにはいかないので、そろそろとしか前進出来ない。実際にはかれば数分間にすぎないだろうこの時間が、雄介には途方も無く長い間に感じられた。
そうしてようやく『一条薫』というプレートのかかった個室のまえにたどり着いてみると、椿の言った通り灯りが漏れてきていた。
雄介は、ドアをそっとノックして、ゆっくりと開ける。
「一条さん、俺でーす!」
と、中には入らずにただ顔だけをドアからひょっこり出して、一条のようすを伺う。
ノートパソコンを膝にのせて、なにやら難しい表情をしていた一条は、雄介の姿をみとめて目を瞠る。
「ば・・・五代、今、何時だと思ってるんだ?」
もうとうに消灯時間は過ぎているので、一条はあたりをはばかるように低めた声を早口にした。
「すみませーん」
雄介は、小さくなりながらも病室に入る。
「見舞いはいらないって言われて、先に釘指されちゃったから、ずっと我慢してたんですけど、やっぱりもう限界で」
と、言いながら雄介は持ってきたものを一条の目の前に差し出す。
「それに、これも出来上がったから、どうしても渡したかったんです」
「これは・・・」
雄介が差し出したのはスケッチブックだった。なかを開いた恰好で、そこには何枚かの落ち葉が貼り付けてあり、その周囲に色鉛筆で絵が描き足してある。
「こっちは純和風」
と言ってみせた画用紙には、いちょうの枯れ葉を扇子に見立てて、周囲に着物の模様のような金色の川や花があしらってある。よく見れば、花も小さな枯れ葉で出来ていたりと、かなり凝ったつくりである。
一条は、言葉もなく雄介の作品に見入る。
「でも、これだとちょっと発想が普通過ぎるかなって思って、もう一つ作ってみたんですよ。こっちは、雄介風ってところですか」
そう言って、一枚めくると、こんどはいちょうの葉をらっぱに、もう少し大きな葉をドラムに、虫食いの葉をバイオリンに、細い葉をフルートに、それぞれ見立てて絵を継ぎ足した可愛い音楽隊が描き出されていた。
「なるほど、こんな風にも出来るものか」
一条は、ひたすら感心したように呟いた。
「病院にいたら、季節感なんか解らないだろうと思って。もう、落ち葉の季節ですよって、一条さんにも教えてあげたかったんです」
少しだけ怪我をするまえよりも、痩せた頬が、雄介の言葉にゆるむ。
「病院にいなくても、季節感なんか感じる余裕はなかったかも知れないな」
「それで一条さん、これとこれ、どっちが好きですか?」
と、雄介は無造作に最初の一枚をスケッチブックから切り離して、二枚の絵を並べて訊いた。
「そう言われても、こちらは綺麗だし、こっちのは楽しい感じがとてもよく出ているし」
わくわくとした目で返事を待たれ、一条は真剣に考えこむ。どうにも甲乙がつけがたいようだ。
しばらくの間、真面目に悩んだ挙句に、ちょっと困ったような表情で言う。
「どっちも、じゃだめか?」
「え?」
「どっちも好きだ。両方とも、とてもあったかい感じがする。眺めるだけで、ほっとする。安堵する」
「一条さん」
「もうすぐ退院出来るはずだが、それまで病室に飾らせてもらうよ。まるで、君がそばにいるみたいな気持ちになれそうだから」
夜は、人間を素直にするものなのかも知れない。
雄介は、嬉しさに言葉もなく、ただふわりと一条の肩を抱きしめた。怪我を気遣っているせいで、まるで大きな羽で包み込むような、やさしい抱擁だった。
「ところで、君はどうして入ってこられたんだ?」
抱きしめられた体勢のままで、一条は訊いた。
「椿先生が入れてくれたんです。一条さんが入院してると、椿先生ファンの看護婦さんまで一条さんに夢中になっちゃって迷惑なんだそうです」
椿の台詞を雄介は、勝手なアレンジを加えて一条に伝えた。
「まさか、そんなことはないだろうが・・・・・・それにしても素直じゃないのは、あいつのほうだな」
「素直じゃありませんか?」
「ああ。五代に見舞いに来させたかったんだろう。俺が、君の話ばかりしていたから、これでも気を遣ったつもりなんじゃないか」
「俺の話って、一条さん。例の早く別れられるといいとかってやつですか?」
雄介の声が心なしか沈む。けれど、一条はそんな雄介を目を細めてやさしく見詰める。
「そればかりじゃないさ」
言ってから、少しだけ考えこみ、雄介の持ってきた絵をじっと見る。
「だが、いくら話しても伝えきれないことのほうが多いな。こんな風に、この絵みたいに。君のそばで安堵することなんか、どう言っても、言葉じゃ足りないから」
雄介は、そう言った一条がどこか頼りなげに見えて、抱きしめる腕に少しだけ力を入れた。
「言葉じゃ足りない部分を行動で埋めるのは、俺にだけにしといてくださいね」
耳もとで囁かれた言葉に一条は少し照れたようすで雄介の腕を振り払い、そのかわりのようにスケッチブックを抱きしめた。
「ありがとう。大切にするよ」
振り払われたことを不満に思いつつも、スケッチブックを愛しそうに抱きしめた一条の滅多に見せない穏やかな表情に、雄介は心から安堵していた。
fin.2000.11.7