浅い春

 敢えて時間は知らせていなかった。というより、思い立ってから実際に帰るまでが急だったから、キャンセル待ちをしながら帰ることを連絡した。多分、この日には帰る、と。そんな曖昧な連絡をわざわざいれてしまったのは、迷惑をかけたくないと思う反面、少しでも早く会いたいと思う気持ちからだっただろうか。
 真冬で深い雪のなかでの戦いの後、日本を離れた。
 三ヶ月経って、戻ってきた日本は、もう暖かくなっている。飛行機から降り立って振り仰いだ空は、見事に晴れ渡っている。異国の地で見たあの空と、確かに繋がっている、それでも微妙に色合いの違うあお。
 通路を渡りながら伸びをする。エコノミーで縮こめていた身体を、思い切り伸ばす。
 入国手続きの列に並ぶ。日本人用の列だから、当然まわりはみんな日本人ばかり。交わされる言葉も、みな日本語ばかり。帰ってきたんだな、と思う。ここはもう、日本なんだな、と。
 もうあまりに遠くて思い出すのも難しいような気がするけれど、以前冒険から戻って成田に降り立ったときには、欠片も感じることのなかった、思いがある。それは、もしかしたらひとが『感傷』などと呼ぶ種類の気持ちかも知れない。以前と今とでは、決定的に違ってしまっていることがあるせいで、そう感じられるのかも知れない。
 帰ってきた。
 日本に。
 そして、その日本には一条薫がいる。
 成田に降り立ったというそれだけで、心が浮き立つような嬉しさがこみあげてくるのを止められない。
 今ごろになって、自分がどれだけこの国に、ここにいる一条に、心を残して旅立ったものかを思い知るなど、なんてトロいのかと思う。
 雄介は、入国手続きをなんの問題もなく済ませると、足早にゲートを進む。
 荷物は機内に持ち込める小さいサイズのリュックのみ。それを、無造作に肩にかけつつ、足が急ぐのを止められない。
 帰ると予定だと告げた日の、正午を少しまわったところだった。
 到着ロビーに足を踏み入れると、見知った顔が待っていた。
「お帰りなさい」
 元気のいい声。なのに、その笑顔は三ヶ月まえよりも少し大人びていて、なんだか苦いものを含んでいる。
「七緒・・・わざわざ迎えに来てくれたんだ」
「当たり前やないですか。僕、五代さんが帰ってくるの、首をなが〜くし過ぎて化け物になりそうなくらい心待ちにしとったんですから!」
「もう、帰ってこなくていいって葉書寄越したくせに」
「そう言ったら、速攻で帰ってきはるって思ったからに決まってるでしょう」
 ふと、そんな七緒の軽口に違和感を覚える。
「それにしては、あんまり嬉しそうじゃないな」
 雄介の知っている七緒は、もっとTPOに見境なく元気で溌剌としていて、自分が帰ってきたら真っ先に飛びついてくるような奴だった。
 だけど、今日はただ言葉で「お帰り」と言うだけで、なんとなく距離を取ろうとしているように見受けられる。手放しでの歓迎ぶりとは言い難い態度だった。
「そんなことないです。それより、おじさんも楽しみに待ってますから、帰りましょう」
「あ、だけど俺は・・・」
 帰ってきたのだから、当然下宿先に戻るものと七緒は決めてかかっている。どこかに寄るとしても、せいぜいが都内にある城南大学あたりだろうと。
 けれど雄介は、ここから真っ直ぐに行きたいところがあった。
「一条さんとこ、ですか?」
 七緒が言葉を濁した雄介の意を汲んで言う。
「そう。やっぱり、店よりも長野に先に行こうと思うんだ」
 雄介の言葉に、七緒の表情が目に見えて曇る。
「一条さんは、五代さんより仕事のほうが大事なんです。せやから、行っても無駄ですよ。多分、しばらくは会えません」
「なにか、事件でも?」
「守秘義務があるって、詳しいこと教えてくれませんでしたけど、ほんまは今日ここまで一緒に来とったんです。五代さんが帰ってくるほんの30分前に一条さんの携帯に連絡があって、ここんとこに」
 と、七緒は眉間を指差す。
「こ〜んな皺を寄せて、深刻そうな会話をぼそぼそとしたあとで、速攻長野に戻っていかはりました」
 不機嫌な七緒とは対照的に、雄介は明るい笑顔を浮かべる。
「なんだ、そっか。もう少しで会えるところだったんだぁ。けど、そんなようすなんだったら、きっと大変な事件なんだよ。なにか、一条さんがいないと困るような状況になっているんだろう。もう奴らと戦ってるわけじゃないから、俺が手伝うわけにはいかないけど」
「当たり前です。せっかくここまで来て、あんな想いで待っとったくせに、一条さん土壇場で仕事のほうを選ぶやなんて」
「いいんだ。不器用で、仕事熱心で、そういうところも大好きなんだから」
「うわー、なんや五代さん、いきなりノロケですか?」
 嫌そうに顔を歪めて言う七緒に、雄介はくしゃりと微笑む。
「そうだよ、ノロケ。もうね、ずーっと、誰にもノロケられなかったからさ。一条さんの話が出来るだけでも、幸せだな」
「あかんわ。処置無し」
 そう言って竦められた七緒の肩を、雄介がどやしつける。
「なんてこと言ってないで、長野に行こう、長野に」
「せやから、一条さんはほんまに忙しそうやからって―――」
「いいんだ。仕事なら、終わるまで待つだけだから」
 迷いのない晴れやかな表情で、雄介はきっぱりと宣言する。
「ずっと待たせてしまったから、これから一条さんの仕事が一段落するまでくらい、俺が待つのなんか、なんでもないことだよ」
 七緒は、バイクのキーを雄介に投げ渡す。
「そしたら、それで長野行ってください。僕は、スカイライナーで帰りますから」


 警察官である一条に一刻も早く会うために、スピード違反で捕まるわけにもいかない。なので、雄介は、車の隙間を縫いながらもなんとか違反すれすれのところで急く心をなだめつつバイクを走らせた。
 ピストル乱射だの爆破テロだの、そうした目に見えるパニックは起きていなかった。一条が携わっている事件でなにか警察側が慌しくなるとような事態に陥ったということなのだろう。もうそれは、雄介の介在出来る範疇にはない事件だろう。
 長野市に入ったあたりで偶然、一条の運転する覆面車に行き会った。
 信号待ちで停まったところをバイクで追いつき、運転席のガラスをノック・・・しようとした。
 けれど、そのまえに一条の視線がこちらに向けられるのが解ったので、手を引っ込めて笑いかけた。
 しかし、一条はそのまま視線を信号に戻した。まるでなにも見なかったみたいに、表情を変えないまま。
「一条さん」
 ヘルメットをかぶったままの呟きが、すぐ隣に停車しているとは言え、窓を閉めたままの車のなかまで届くことはない。
 やがて信号が変わると、一条の乗る車はそのまま発進した。
 会わないでいた数ヶ月で、一条は自分を忘れてしまったのか? それとも怒っているから、知らないふりをするのだろうか? もしかして一条さんはもう自分なんかいらないって思ってるのか?
 恐ろしい考えが雄介の頭のなかをぐるぐるまわる。
 雄介はアクセルをふかすことも出来ずに、呆然とその車を見送った。
 そして、覆面車が右折していく直後に、一条は背中を見せたままで軽く片手をあげた。
 まるで髪をかきあげるフリをするようにして手を持ち上げ、ほんの一瞬だったが、親指を立てていたのが雄介には見て取れた。
 それに気がついた雄介は、バイクのエンジンを切り、路肩に駐車すると舗道にへたりこんだ。
「良かった〜」
 誰にともなく呟いたその表情は、晴れ晴れとしていた。


 事前調査済みであった長野の一条宅の、そのまえで雄介は居眠りをしていた。
 極度の緊張とそのあとの安堵で、精神的にも疲労していたし、時差ボケというのもある。
 だから、鍵をあける音にも気がつかず、寄りかかっていたドアを開けられ、玄関に転がりそうになってようやく目を覚ました。
「おはよう。まだ、夜だが」
「い・・・うわっ、ホントに、本物の一条さん!」
「こんなところで寝ていたら風邪をひくだろう。早くあがれ」
「はい」
 お茶なら自分が、と雄介はキッチンに立とうとしたが、一条におしとどめられて、ソファに座らされた。
 湯を沸かしたりして流しに向かいながら、一条が声をかける。
「昼間は、尾行の途中だったんだ」
「そっか。多分、なにか話しかけちゃまずい状況だったんだろうな、とは思ったんですよ」
 マグカップを二つのせたトレイを運んできて、一条は雄介の向いに腰かけつつ頷く。
「追ってきたらどうしようかと思った」
「まさか。俺、そこまで短慮じゃありませんよ」
「だといいが」
「うう、そんなに信用ないとは知りませんでしたよー」
 頬をふくらませて言う雄介を見て、一条は笑う。その綺麗な笑顔につられるように、雄介もまた心から幸せそうな笑みを浮かべる。
「なんか、普通でいいなぁ、こういうのも」
「え?」
「どんな感動の再会が出来るかって、色々と考えてたんですよ、これでも俺は」
「大袈裟だな」
「だって、久し振りなんですよ。無言で抱きしめてあたりはばからぬキスをして・・・とか、いや、そのまえに一条さんの顔を間近でたくさん見ようとか、ただいまって言ったほうがいいかな、とか・・・」
 雄介は、ソファでじたばたしながら指折り数える。
「おまえはまた、冒険に出かけるんだろう?」
「は?」
 一条は、冷静な声で雄介の暴走を止めた。
「だから、どこかに出かけて戻ってくるたびに、そんな大袈裟なことをしていられるか、と言っているんだ」
「一条さん?」
「いつも普通にしておけ。昨日会ってまた今日も会ったくらいいつも通りでいたほうがいいだろう?」
「それっていつも一条さんのところに必ず帰ってこいってこと? それで、会えなかった時間を、意識しなくてもいいってこと?」
 一条は照れくさそうとそっぽを向いて、返答を避けた。それが、肯定の意味だということを、雄介は知っている。
「やっぱり、一条さんは一条さんですよね!」
 雄介はそう言って、立ち上がり、一条の手からマグカップを取り上げてテーブルに置くと、その首に腕をまわした。
 それ以上、二人に言葉は必要なかった。

 

fin.2001.4.4