「しっかりしろ、五代!」
そう叫んで、やや乱暴に抱え起こされたことが、なんどあっただろう?
けれど、そのときは、ひどくゆっくりとした速度で、まるで壊れ物を扱うみたいな慎重さで、一条は雄介を抱え起こした。
まぶた1mm動かすだけでも、ひどく億劫に感じられたけれど、その暖かい腕が、小刻みに震えていることに気がついたから、雄介は持てる力を振り絞って、なんとか目を開いた。視界は最初かすんでいたけれど、いくどか瞬きを繰り返すうちに、大切なひとの顔がはっきりと見えるようになった。
鏡なんかなくても、自分がどれだけ酷い状態であるのか、そのひとの表情を見ただけで解った。
一条は、ハンカチで雄介の顔にこびりついた血をそっと拭う。
雄介よりも、そうしている一条のほうが痛いような、そんな辛そうな表情で、丁寧に、慎重な手つきだった。
「一条さん、俺・・・」
やりました! と、言いたかったのか。それとも、大丈夫です。と続けたかったのか?
雄介は、痛む喉から声を押し出したけれど、今にも泣きそうな一条の瞳と出会って、言葉をなくした。
一条は、涙も流さず、声を立てず、それでも心はひそやかに、泣いているかのように見えた。
それは多分、嬉しさや安堵だけではなく、雄介がめのまえで傷つき満身創痍であるこの状況や、今まで長いときを戦ってきた辛い記憶、そしてそれが終わったのだということを、まだ信じていいのか迷うような気持ち、そんな様々な思いが入り混じって、感情が激しているためなのだろう。
「一条さん」
だから雄介は、ただ名前を愛しげに呼んで、その背中に腕をまわした。
一条もただ黙って、抱きしめ返した。
二人とも、互いに渡すべき言葉がみつからなかった。あふれそうな思いは、とても言葉で伝えきれるようなものではなくて、ただ抱きしめる腕に力をこめた。
関東医大に連れ帰ろうとした一条を、雄介が止めた。椿とはもう、別れの挨拶をすませてきているし、長野からでは遠すぎる。
「俺、明日から冒険に行ってきます。でも、今日は一条さんと二人きりでいてもいいですか?」
警察官としては、後始末がまだ残っている。けれど、今を逃せば当分は会えないかも知れない。しかも、雄介はまだ体中怪我だらけだ。
「しかたないな」
そう言って一条は、長野市内でも大きめのホテルにツインの部屋をとった。
まだ霊石の力は続いていて、雄介は見る間に回復している。それでも、病院が嫌ならせめてふかふかのベッドでやすませたいという、一条の配慮だったのだが。
「わー、こんなにおっきなベッドだったら、二人で一個で充分ですよねv」
雄介は、毛足の長い絨毯を踏みしめて部屋に入るなり、歓声をあげた。
「なにを言っているんだ。これは、君が怪我をしているからゆっくりやすむためにとった部屋だぞ。その顔!」
と、一条は雄介の頬を指差す。青黒く腫れあがった、ひどく痛々しい頬。
「そんなにしておいて、はしゃいでる場合じゃないんだぞ! 腹だって、肩だって、胸も、足も、そこらじゅう大怪我してるじゃないか。少しは、自覚しろ!」
「でも俺、あんまり痛くないんですよね。大好きなひとと、おあつらえむきのおっきなベッドを目の前にして、怪我が痛いなんて言ってる場合じゃないでしょう」
雄介は、強い語調で叱られてもめげない。例え腫れあがるほど酷く顔を殴られていても、おひさまのように明るい笑顔は健在である。
「もう、奴らはいなくなったんです。もう、今日はこのあと奴らが出たって呼び出されることもないんです。俺たち、どれだけベッドで楽しんでても、誰にも邪魔される心配はないんですよ!」
今まではずっと、抱き合っても慌しくて、いつ一条の携帯が未確認生命体の出現を伝えるか解らないような状況下だった。そんな緊張感は、もしかしたら甘い媚薬であったかも知れない。そうした切迫感が、二人を煽ることだって、少なからずあったのかも知れない。
「あれは、あれで、ちょっとスリルだったかも知れませんけどね」
と、雄介はうっとりと一条を見詰めて、意味深な笑みを浮かべる。
「でも、心置きなく、っていうのもいいでしょう?」
そう言いながら、一条に手をのばす。
一条は、そんな雄介の顔と、差し出された手を交互に眺めて、軽い溜め息をもらす。
「五代。おまえの辞書に、羞恥心とかデリカシーという言葉はないのか?」
「へ?」
めっ、というように睨まれて、雄介はのばした手を引っ込めて、一条の顔を見返す。
「真っ白い雪のうえに、おまえの血が真っ赤に広がってた」
まだ記憶に新し過ぎる光景を、一条は淡々と口にした。
「そこに、おまえが倒れていた」
雄介は、肩をすぼめて小さくなる。さっきまでの、おどけたようすは影をひそめる。
「死んでしまうかと思わされる場面はいくどもあったが、それでも君は無事だった。しかし、あの0号だけは別だ。もう、こんどこそ、二度とあそこから起き上がることは出来ないのかと思った。これで、永遠に、君をなくしたのかと思った。心臓を、素手で鷲掴みにされたような気がした。あんなこと、二度とは耐えきれない」
「一条さん」
「あのときの俺が、どんな気持ちを味わわされたものか、少しは想像してみろ。無事で良かった、もう邪魔も入らないことだし、思いきりしよう、なんて、そんな気分になれると思うか?」
雄介は当惑の表情で押し黙る。
一条はそんな雄介を強引に寝かしつけようと、ベッドにおいやる。掛け布団を肩まですっぽりかけて、耳元に口を寄せる。
「生きてるって解ったときの、俺の気持ちも想像してみろ? どれだけ嬉しかったと思う。どれだけ、ほっとしたと思う? だから、頼むからぬか喜びになんかさせないでくれ。おとなしくやすんで、すっかり回復して欲しいんだ」
「でも一条さん」
言って、雄介ば布団から手だけ出して、一条の手を握る。
「言ってることとやってることの、このギャップはなんなんですか?」
「ギャップって?」
一条が、困ったような表情で首を傾げる。
「とぼけないでください。そんな色っぽい目をして、そんな甘い吐息混じりの声を耳元で聞かせて。それで、おとなしくしてろって、本気で言ってるんですか?」
一条は、さきほどまでの真剣な態度をかなぐりすてて、くすくすと笑い出す。
「解ったか?」
「俺だって、挑発されてることくらい気づきますよ。もう、どれだけちゃんと回復したか、よーく解らせてあげますからね」
雄介は、一条をベッドに引きあげた。掛け布団を押しのけて、一条を仰向けに寝かせて、覆い被さる恰好でその綺麗な瞳に向き合う。
「暴挙だな」
「え?」
「こんなこと警察官になって以来の暴挙。昼間っから、なんの報告もせずにさぼってホテルで、こんなことを・・・」
「いいんじゃないですか? 一度くらいこういうことがあったって」
雄介は、にっこり笑って、唇を一条のそれに寄せる。
寄せた・・・のだが。
「うっ」
「やっぱり君は、まだ反省が足りない」
雄介は腹を押さえてうずくまり、一条はベッドから半身を起こしていた。
唇が触れるか触れないか、という瞬間に、一条の拳が雄介の腹を直撃していた。
「な・・・なにするんですか、一条さん!」
涙目になって訴える雄介に、一条は悠然と微笑んだ。
「君が言ったんだ、狙うときはそこを狙えって」
「それは、俺が究極の闇をもたらす存在になっちゃったら、の話じゃないですか〜!!」
「あの場面で、あんなことを了解しなきゃならない俺がどんな思いをしたかも、よーく考えろ。あまりにも情緒というものが欠落している。立ち直りが早すぎる。少しは反省しなさい」
「一条さんに、情緒なんか要求されると思いませんでしたよ」
と、雄介はふかふかのベッドのうえで、足をばたばたさせている。子供の駄々のような騒ぎかただ。
「ねぇ、一条さん。俺、ちゃんと反省してますよ。だから、ね、一条薫始まって以来の暴挙。くらいのすんごいのしようよ!」
叱られても、殴られても、雄介は一条に懐いてまた暴言を吐きまくる。
一条は、ようやく目元を和ませて、そんな雄介に笑いかける。
「怪我の具合が悪くなっても、それで途中でやめたくなっても、そんなのは許さないぞ。それでも、いいのか?」
「望むところです!」
そうして二人が、どんな暴挙に及んだものか、は、三ヶ月後のあの一条刑事の満面の笑顔と、雄介のあたたかですっきりしたような表情が、如実に教えてくれている。・・・・・・多分。
fin.2001.1.25