幻 惑

 
 川縁に立って、額に乱れかかる髪を見ていた。
 やわらかく微笑んでくれた、大きくて澄んだ瞳を見ていた。
 いつだってすらりと背筋を伸ばした、その颯爽とした立ち姿を見ていた。
「どうした、五代。早く着替えないと風邪をひくぞ」
「え?」
 だから、いきなり現実的な言葉を投げかけられて、すぐには意味を理解することが出来なかった。
 多分、すごい間抜けな顔で聞き返しただろう俺に、一条さんはしょうがないな、という表情で繰り返す。
「だから、その格好じゃ風邪をひくだろうと言ったんだよ。川のなかでなど変身をとくからいけないんだ。どうして、こっちにあがってくるまで待たなかったんだ?」
 大きな目がそう言って、言葉と一緒に咎めてくる。
「戦う気持ちがなくなると、自然にとけちゃうんですよ。濡れるとか濡れないとか、そういうのはなんか、関係ないみたいなんですよね」
 正直な話、そこまでコントロール出来てないってことなんだけど、言い方を間違えるとこの人はまた心配して、あの監察医のところに無理矢理にでも連行しようとするだろう。だから、わざとあっけらかんと笑って言った。
「変身とくのにも、呪文とかあったらわかりやすくていいんですけどね。どろんっ、とか」
 ふざけて、忍者の真似なんかしてみる。
 一条さんはぷっと吹き出して、それから笑ってしまったことを悔しがってるみたいに眉間に皺を寄せ、きつい目になる。
「バカなこと言ってないで、行くぞ」
 それじゃあ、また変身するだろう。なんてツッコミをこの人に期待してはいけないのだった。生真面目で、真っ直ぐで、とっても心配性なんだから、今は俺の濡れた服や身体のことで頭がいっぱいなんだろう。それは想像すると、かなり嬉しい状況だけど。
「行くって、どこ行くんですか?」
「ここから一番近くて、着替えと着替え場所が調達できそうなところだ」
 すぐ近くだからと、バイクは置いていかされた。濡れた服で風を切って走るなど持っての外、との一条さんのきつい言いつけに、逆らえるはずもなかった。
「どこだろう。着替えと着替え場所って言ったら、どっかの高そうなホテルとかですかー?」
 スキップしそうな勢いで、俺の声ははずんでいた。
 でも、一条さんはコツンと軽い拳固をひとつ、俺の頭に返して寄越した。
「なんで、おまえとホテルなんか行かなきゃいけない?」
 俺の顔はこの切り替えしに、くしゃくしゃにほころぶ。だってね、少しは効果出てきてるんじゃないかな? 普通は、ホテルとか言われても別に一緒の部屋とか思わない場面だもん、ここは、ねぇ。
「一条さん、それって俺のこと意識してくれてるんだ。嬉しいな。いいでしょ、一緒にホテルでも。着替えも着替え場所もあるし。俺、一条さんのこと大っ好きだし!!」
「五代、寝言は寝て言え」
 一条さんは冷たく言って、そっぽを向いた。でも、その頬に少しだけ赤みがさしてることを、俺は知ってるんだからね。
 そして、効果ってのはこのこと。真面目に迫ったりしたら、会ってくれなくなるかも知れない。ホントに、なんでも真っ直ぐで真剣に受け止めちゃうタイプだから、急いで追い詰めるようなこと言ったら、胃に穴あけちゃうかも知れない。だから、当分は、ゆっくり外堀埋めていこうって思ってる。大切な人だから、時間かかっても本当の気持ち、解ってもらいたいって思ってる。
 それにしても、だからってどうしてここなわけだ?
 一条さんが俺を連れて行ったのは、そこから一番近い派出所。つまり交番というやつだった。
「ここ、着替え場所はあるかも知れないけど、着替えはないじゃないですか?」
「バスタオルならあるんだ。それと、夜勤のためにシャワーがある。で、近くにコインランドリーがあるんだ」
「はぁ?」
「シャワー浴びて、バスタオルにくるまってる間に衣類を乾燥機にかけてきてやる」
「一条さんだって、川に落ちたじゃないですか。一緒にシャワー浴びます?」
「バカを言うな。俺はおまえが戦ってる間に自然乾燥したから大丈夫だ」
 見ると、確かに一条さんはもう濡れてるようすがなかった。俺、そんなに長い時間戦ってなかったんだけどな。
「とにかく、早く服を脱げ」
 そんなこと言われてしまって、俺はかなりうろたえてしまった。
「だって、衣類って下着も? 一条さんに渡すの? イヤです。俺、お婿にいけなくなります」
 ところで、こんなやりとりを、交番の若い巡査が不思議そうな表情で見ていた。
 一条さんは警察手帳を出して「ちょっと事情があって、シャワー室を借りるから」などと言っている。
 そして、抵抗する俺の手を引いて、どんどん中へ、シャワー室に入っていった。
「おまえのほうこそ、妙なことを意識しないで着てるものを早くこっちに渡せ」
 脱衣場までついてきて、一条さんは平然とした顔をして手を差し出す。もう、も少し意識してくださいよー。
 と、内心で泣きを入れながら、俺は観念してまずはシャツを脱いだ。
 そのとき、一条さんが真剣な目で俺をじっと見ているのに気がついた。
 一条さんの、大きな綺麗な大好きな目で、じっと―――見られていて、俺は動きを止めた。間近でそんなに見られたら、硬直するなってほうが無理な話。
 一条さんは、俺を見たままで距離をつめる。俺の肩に手をかけて、もっとよく見ようとしているように、真剣な表情で顔を寄せてくる。
 ここには今、一条さんと、俺しかいなくて。
 それは、あまり広いとは言えない、密室に二人きりって意味で。
 一条さんの瞳にとらえられて、心臓はばくばくいってる。血管は倍に脈打ってるばかりか、このままじゃ逆流してきちゃいそうだ。頭がくらくらする。くらくらする意識のなかで、俺は『チャンスだ!』という声を聞いた気がした。
 急いで追い詰めちゃいけないって、ずっと自制してきたのに。もう、自制心も限界、なのかも。
 ああもう、どうしてこの人は、こんなに自覚もなく魅力を振り撒いてくれるんだろう?
「一条さん、俺。俺ね、ずっと冗談めかした言い方しかしてこなかったけど。ホントは、俺―――」
 言いながら、俺は一条さんの肩を抱きしめるために手をあげようとした。なのに。
「五代、ちょっとじっとしてろ」
「え?」
 間近まできていた一条さんの顔は、俺の顔の寸前でそらされた。俺の肩に手を置いたままで、どうやら首筋のあたりを凝視しているらしい。
 そして、ふいにその冷たい指が、俺の首筋にそっと触れた。ぞくり、と背筋をかけぬけるものに、俺はめまいを感じた。そんなこといきなりするのって、反則じゃありません?
 でも、一条さんは真剣そのものって顔をしてる。
「五代。これ、さっきの戦闘でついた傷だろう? みみず腫れになってて痛そうだ。やっぱり、交番なんかじゃなくて、椿のところに行けば良かった。いや、これからでも遅くないな。よし、シャワーを浴びて服を乾かしたら椿のところだ。急げ」
「ちょっと引っ掻いただけですよ。こんな傷くらいで、椿先生をわずらわせることありませんよ。ね、一条さん、大丈夫ですから」
 俺は笑ってサムズアップした。
「とにかく、シャワーだな。そのあとでもう一度見て、よくなってたら今日は帰ってもいいぞ」
 俺の体組織はクウガになってから強化されてる。シャワーを浴びるだけの時間があれば、みみず腫れくらい治ってしまうだろう。いや、なんとしても治さないとね。あの解剖したがる先生のところに連れてかれるのは願い下げだ。
「はーい」
 元気にそう返事する以外、俺にどうすることが出来ただろう?
 せっかくの告白のチャンスを、呆気なく逃してしまった。せっかくの密室に二人っきりって大チャンスも、色っぽいことなんにも出来ないで、シャワー室に追いやられた。
 熱いシャワーを浴びながら、さっき間近で見た、一条さんの美貌を思い起こす。
 そして、深い深い溜め息が勝手にもれる。
「一条さん、アレわざとじゃないのかな?」
 だって、俺がなにを言いかけたのか、あそこまで聞いたら察しがついても良さそうなはずだ。
 なのに、平然とした顔で、俺の首筋の傷なんか確認してくれて。
 でも、あんなに心配してくれてるんだし、今だって俺のためにコインランドリーまで走ってくれてるんだ。俺、愛されてるんだよね、多分。
 自分の思い込みに、ちょっとだけ気分が浮上して目の前にある曇りかけの鏡にぼんやり映った自分に向かって、サムズアップしてみた。
「ホントは俺、本気ですから。真剣に、一条さんが大好きです」って、そう言おうとしたんだよ。
 一条さんだって、もう気がついてるんでしょ?
 
 

fin.2000.5.17