逆 転

 
 昼間は気の利いた店で、ワインと食事。知り合って間もない彼女は、その店の料理も気に入ってくれたようだった。さて、これからどうやって口説き落とそう? 椿はそんな楽しい時間を過ごしていたのに、電話で一条に邪魔された。
「また、おまえか」
 と、思わず口をついて出た言葉。二度目ともなれば、言いたくもなる。
 けれど、続く悲痛な声に楽しい昼下がりのひとときは、一変した。
 ―――五代が倒れた。
 一条の言葉が、そう告げたせいで。
 
 
 同じ26号の被害者は、次々に息を引き取っていった。正体不明の猛毒。それが、被害者の内臓を溶かしたせいで。
 対抗手段はどこにもない。五代の身体は、普通の人間のそれとは違うものに変化しているせいで、即死は免れたようだが、楽観は出来ない。レントゲン写真にうつった体内のベルトは、今までにはない変化を見せ、回復の兆しが見られない。
 椿は現場にいる一条に電話して、そうした状況を説明した。
 なにかをこらえるような、一瞬の沈黙。そのあとで、押し殺した声が訴える。
「五代に伝えてくれ。俺は待ってると」
 一条は、いつだって冷静沈着を装って、感情の激発など見せない男だ。なにごとにも、理路整然と筋を通す.生真面目で、仕事熱心なカタブツ。「おまえら全然似てないのに、仲がいいんだな」と、高校時代からよく言われた。そう言われたら笑って、まぁな、と答えてきたが、そう言う奴らには一条薫のほんの一面しか見えてなかったことは明らかだ。
 強引でわがままで、無茶で無謀な男。冷静そうに見えても、いざとなれば勝算などなくても迷わず最前線を突っ走っていく危なっかしい奴。
 そんな奴だから、気負いのない笑顔でいつも楽観的な五代雄介がそばにいるのは、丁度よくバランスがとれて有り難いことだと思った。いい相棒じゃねぇか。そう、本人に言ってやったこともある。
 その相棒が今は瀕死の重傷で生死の境をさまよっている。
―――俺は待ってると。
 一条の言葉は、相当無茶な要求だった。
 担架で病院に運び込まれて以来、五代の意識は戻らないままだ。そんな奴に、伝言だという。しかも、待ってるだなんて、そんな台詞で。
 椿は一条の無茶を責める言葉を飲み込んで、受話器を置いた。
 泣き喚いて、早く五代を助けてくれと懇願されるよりも、ずっと重いプレッシャーをかけられた。
 なんとか五代の意識を戻させて、自分の言葉を伝えろと。
 そして、どうにか回復させて、早く現場に相棒を返せと。
 一条は、多くを語らなかったが、つき合いの長い椿には、それがどういう意味だったのかくらい、嫌でも解ってしまう。
「解りたくもないぞ」
 溜め息とともに呟いて、解毒方法を模索すべく毒物に関するデータを集めにかかる。
 自分の場所で、自分の戦い方で、五代雄介をバックアップするんだと宣言して、この場を去った女性たちに遅れをとるわけにはいかない。彼女らの言い方を借りるなら、こここそが、椿の場所であるのだから。
 重いプレッシャーをかけてくれた友人も、現場で戦い続けているはずだ。
 
 
 女性とランチを楽しんでいたのが、ほんの数時間まえのことだったなんて、信じられない事態になったものだ。
 世界が、自分たちを取り巻く現実がすべて、逆転してしまった。
 数時間まえの平和でのんびりとした昼下がりが、今ではあまりにも非現実的であることに愕然としているとき、五代についていた看護婦から容態の急変を告げられた。
 五代のいる集中治療室にかけこむ。
 やがて聴こえてくる、心臓停止を告げる電子音。
 椿は無意識のうちに、血の気の失せるほどに拳を握り締めて、生気の失せた五代雄介を見下ろした。
 冷や汗をかいた額。その下の、閉じられた目に手をかけて、瞳孔を確認する。
 彼の時が、止まってしまっていることを確認する。
 伝言を頼まれたのに、間に合わなかった。伝えなければいけないのに、目の前にいる男に。
 一条の言葉を、どうしても伝えなければいけない。間に合わなくても、それでも。
「一条が待ってる。待ってるんだ。五代、おまえ、俺に解剖されたくないんだろう?」
 だったら、早く目を醒ませ。能天気な笑顔を見せて、いつものサムズアップをしてみせろ。
 あれだけ平和で楽しい世界が一瞬にして逆転した。一条からの電話がこのふざけた現実に繋がっていた。
 それならば、と椿は考える。
 もう一度、逆転すればいい。こんな事態を唯々諾々と受け入れるなんて、冗談ではない。自分は、自分たちは、こんな現実を認めない。医者らしからぬ非現実的な発想だと、心の片隅で自嘲しながら、そう思わずにはいられない。
 もの言わず横たわる五代雄介を感情の失せた瞳で見下ろしながら、椿はただそれだけを考えていた。

 もう一度、起死回生の逆転を―――。
 
 

fin.2000.5.29

 
 

 書いてから2.3日経ってみたら、やっぱりも少しふざけたもんが書きたくなってしまいました。
 なので、書いてしまったんですが、この先の話は、あのシリアスな放映のあとでそれを茶化しても許せる心の広いかただけお読みくださいませ。というわけで『蛇足』です。