渇 望

 

 水彩絵の具。油絵の具。コンテパステル。色鉛筆。クレパス。ポスカにロットリング。パレット。墨汁に色インク。羽箒と丸ペン。定着スプレー。色画用紙。ケント紙。カンバス。白いハンカチ。

 統一性のない画材道具が、床いちめんに散乱している。
「これ全部、使うのか?」
 当惑気味に問いかけた一条に、もちろんです、と雄介が胸を張って答える。
「全部同じ一枚の絵に使うわけじゃないですけどね。描きたいって思ったものに、一番似合いそうなのを選ぶんです」
 言いながら雄介は、赤い絵の具をといたパレットに左手をついて真っ赤に染めている。
「似合いそうなの・・・な」
 一条は、なんとコメントしたらよいものかと、途方に暮れた表情でそんな雄介を見守っている。
 そんな一条の戸惑いになど頓着せず、雄介は真っ赤な手形を白い画用紙にぺたりとつけたところだった。
 そこは『ポレポレ』の二階。雄介の自室である。めずらしく時間があいた一条が立ち寄ったところ、店は定休日だった。それならば出直そうかと踵を返しかけたところを、外出しようと店から出てきたおやっさんに出くわし、雄介なら二階で遊んでいるから寄っていけと半ば強引に通されたのだ。
 おやっさん言うところの雄介の「遊び」とは、絵を描くことだったらしい。
「絵も技だったんだな」
「はい。一条さんには退屈かも知れませんけど、良かったらそこのスケッチブック、見てみてください」
「退屈なんてことはないぞ」
 一条はそう答え、雄介の肘でさしたスケッチブックを手にとった。
 それらは、雄介が今までに描いた作品たちだった。
 明るい色調で、楽しげなものもあれば、全体的にくすんだ色合いで、重々しい雰囲気の絵もある。
 風景や静物などは一枚もなく、シュールで抽象的な作品ばかりだが、力強く訴えかけてくるものを感じる。だが、一条はそんな感想を美辞麗句を述べ立てて語る器用さは持ち合わせていない。
「うまいものだな」
 と、呟くのが精一杯である。けれど、これが決して仕事以外のことで饒舌にはなれない一条の精一杯の誉め言葉であることは、雄介になら解る。
「ありがとうございます!」
 だから雄介は、満面笑み崩れながらそう答え、また描きかけの絵に没頭していく。
 が、ふとその手を止めて、水入れにつっこみ赤い色をばちゃばしゃと洗い落とす。それから、ボロ布で手を拭いつつ、未使用の少々小さめのスケッチブックを取り出してきて、一条に差し出した。
「一条さんも、見てるだけじゃつまらないでしょう? なにか、描いてください」
 言いながら雄介は、スケッチブックのうえにコンテパステルをのせた。72色もある、大きなセットである。
 一条は、年季が入って使い込んであるそれらと雄介を交互に見ながら、綺麗なおもてに困惑の色を浮かべる。
「そういったことはあまり得意ではないんだ」
「別に、二科展に出品しましょうって言ってるんじゃないんですよ。絵なんか、うまく描く必要ないです。出来栄えより、一条さんが描いた、ってことが俺には大事ですから」
 一条は、聞き捨てならないことを聴いた、というように雄介を睨む。
「描いても、やらないぞ。下手くそなんだからな、捨てるか持って帰るかする」
「捨てるなんて、もったいない。でも、無理にとは言いません。ただ、ひまつぶしの落書きでもいいです。はい、どうぞ」
 雄介が熱心に勧めるので、一条はそれ以上固辞するのもおとなげないかと思ったらしい。押し付けられる恰好で、スケッチブックとコンテパステルを受け取った。
「ホント、落書きでもしててください。俺、も少し描いちゃいますから」
 どうやら、描きかけの絵はもう少しで完成するところだったらしい。一条が見ても、その絵がどういう状態になったら完成なのか、さっぱりわからないのだが。
 雄介はその場に一条がいることなど忘れたかのように、絵を描くことに集中している。
 一条は、確かにちょっとひまな気もして、スケッチブックを開くと、適当に手に取ったパステルで、画用紙のうえをこすってみる。深くものを考えるでもなく、ただパステルを適当に往復させる。
 それがなにかの形になってきたところで、ふと我にかえり、スケッチブックをぱたりと閉じた。
 そして、焦ったような表情で傍らでまだ絵を描いている雄介のようすを伺う。
 雄介はしかし、そんな一条の態度を気にすることなく、黙々と絵筆をふるっている。
 一条はなぜだかほっとしたように肩で息をつくと、壁に作りつけられたラックから、別のスケッチブックを取り出した。
「これも、見せてもらうぞ」
 律儀に断ったが、雄介はかすかにこくりと頷いただけで、一条がどれを手にとったのかなど、解っていないようだ。
 構わず一条は、引き寄せた大きなスケッチブックをめくっていく。
 赤やオレンジや黄色で表現された炎の乱舞。太い輪郭を持つ魚の絵。巨大な花のなかに佇む貧相なヒト。
 どれも、さきほど見たものと同じで、抽象的な作品ばかりだ。
 けれど、最後の一枚だけが、何故だかほかの絵とは雰囲気が違っていた。それもまた、抽象的ではあるのだけれど、色使いや、筆のタッチがとても丁寧で、はりつめた緊迫感が身に迫ってくるかのようだ。
 青や濃紺、紫、黒、そうした色で表現された微妙な闇を白い光が切り裂いていて、そのさきには、美しい月が見える。新月ではなく、十六夜の月。そして、画面の下方からは、細い手が伸ばされている。届かない月に、焦がれるように。
 一条は、瞬きも忘れてその絵に見入った。
 目が、離せなくなった。
 どうしてか、なにに引きつけられるのか、言葉ではとても説明出来ない。これを描いた雄介の気持ちに引きづられていくような錯覚を感じる。切なくて、苦しくて、もどかしくて、さびしくて。
 がたんっ、という音で、一条は現実に立ち返って雄介を見た。
 雄介もまた夢から覚めたばかりのような、呆然とした顔で一条を見て、それからすぐに慌てたようすで倒してしまった水入れを起こし、ボロ布で水浸しになった床を拭いた。
「一条さん、それ、見ちゃったんですね」
「いけなかったのか?」
「いけなく・・・ないですけど、なんていうか、あの、あまりにも感情入り過ぎてる作品見せるのは、ちょっと照れるっていうか、なんていうか」
 らしくもなく語尾を濁した雄介は、言葉通り照れて恥ずかしがっているようだ。いつもなら、ずっと見ていたいと言ってはばからない一条の顔を見られずに、俯きがちに喋っている。
「いい絵だと思うがな」
 一条はそう評して、なにげなくその絵の裏を見た。
 そこには、雄介の奔放な文字で、タイトルらしきものが書いてある。
「『渇望』か・・・」
「わー、もう、それ以上いじめないでくださいっっっ!!!」
「別に、いじめてないだろう?」
 雄介は、それでも恥ずかしいのか、一条の手からスケッチブックをひったくって、胸に抱え込んだ。
「これは、一条さんのこと思いながら描いたんですよ。もう、こんなバレバレな絵なのに、はっきり言わないと解らないんですね」
「俺のことを?」
 一条は、本当に想像もしていなかったらしく、ひどく驚いたようすで目をまるくした。
「で、一条さんはなにを描いてたんですか?」
 と、雄介が言うのと、さっき一条が気まずげな顔で閉じた小さなスケッチブックを取り上げるのはほぼ同時だった。
「わーっ、バカ。見なくていいっ!!」
 こんどは一条が慌てる番だった。
 だが、雄介はもう、一条の制止など無視して、その絵を目にしていた。
 やがて、その目が細められ、口許がだらしなく緩む。
「一条さん、これ、家宝にしますからね!!」
 雄介は、そう言ってさきほど一条から取り上げたスケッチブックとあわせて重ねると、いとおしそうに抱きしめた。
 
 
 一条の描いた絵は、本人が下手だと言った通り作者の意図とは関係なく、抽象画のような印象である。
 けれど、そのパステルが描き出した人物のあごには、確かに特徴的なほくろが描かれていたのだった。
 
 

fin.2000.9.22