風 花

 
 バイクの音は聴こえていたはずなのに、一条は頑なに振り返らない。
 切ない瞳で、覆面車に寄りかかったまま夕陽を見上げていた。
 雄介はしばし息を飲んでその後姿を見詰めて立ち尽くした。なにかを迷うように唇をかみ締めて、やがてその迷いを振り切るようにして最初の一歩を踏み出す。
 駅まで送っていった実加の、一条に対する言葉が頭のなかでまわっているのかも知れない。
 そんな雄介が近付く足音も、聴こえていないはずはないのに、一条は微動だにしない。
 雄介はそんな一条の両肩をそっと押して車から引き離し、無理矢理後ろに回りこんで、冷え切った両手で一条の両目を隠す。
「だーれだ?」
 以前、一条もこんなことをしていたが、思い切り照れていた。雄介はとても楽しげで、照れるようすなどかけらもない。
 けれど、そんなお遊びに付き合う気分ではなかったのだろう。一条は、無言で雄介の手を押しのけて、ようやく振り返った。
「もう、帰ったのか?」
 それは、実加をさしての言葉だったのだが、雄介は大袈裟に唇をとがらせて不満そうな表情を作る。
「駄目じゃないですか、誰だか当ててくれなきゃ」
「ひどく、怯えているようすだったが、大丈夫だっただろうか?」
 一条は、そんな雄介の抗議の声も無視して、長野に帰っていった女の子のことを気にしている。
 雄介は、仕方なさそうに肩で息をついた。もう、これ以上かみ合わない会話を続けるのも不毛すぎる、と判断したのかも知れない。
「また一条さんは、そんなことばっかり気にして、夕陽を見上げて黄昏ちゃってたんですか?」
「別に黄昏ていたわけでは・・・」
「なにやっても、恰好いいんだから、参りますよねー」
 雄介の軽口に、一条は眉を寄せる。
「そんな風に思うのは君くらいのものだろう。現に彼女はひどく怖がっていたようだし」
 怖かった。そう言ったのは雄介に対してであって、一条本人にはなにも言わなかった。けれど、あれだけ露骨な態度を見せられたのだ。一条にだってその思いは伝わっていた。
「ギャップが激しかったから、驚いたんでしょう。そのまえに見せてもらった、一条さんのとびきりの笑顔と、犯人逮捕の瞬間の厳しい表情が、あまりにも違ったせいで。一条さんの笑顔は、ものすごく綺麗だし、稀少価値だから見られたらもうすっごい得した気分になるし。あの子にそんな顔を見せたのかと思うと、ちょっと俺、心中複雑なものがありますけどね」
 雄介は、わざとおどけて、上目遣いで一条に言った。
 けれど、当の一条は弱々しく首を振って目を伏せる。
「そうじゃない。そんなんじゃなく、見透かされていたんだろう」
 雄介は、意外な言葉を聞かされたというように、きょとんと目を大きく見開いて首を傾げる。
「所轄の人間があれだけ出動していたなかで、それでもこの射撃の腕に自信があって、自分ならって気持ちがどこかにあったんだ。刑事だからってこと以前に、犯人逮捕を楽しんでいる。あんなことを、生き生きとしてやってるなんて怖いって、そう見られてしまったんじゃないだろうか」
 雄介は、自分が無理矢理引き離した一条の身体を、引っ張ってもとの体勢に戻させてまでして、その隣にぴったり寄り添って、一緒に覆面車に寄りかかる。
「通りすがりの女性が人質にとられていたんでしょう? 一条さんが助けなければ、もっと怖い目に遭っていたかも知れない。一条さんは犯人を捕まえることを楽しんだわけじゃない。ただ、その女性を助けられることを、嬉しいことだって思うのは当然でしょう」
 ほかにも周囲には人がたくさんいた。むやみに発砲されたら、人質以外のひとたちだって危険にさらされていただろう。そして、誰もが助けに入れるような勇気を持っているわけではない。所轄の人間も多く出動していて、それぞれに機会はあった。それでも犯人に誰よりも早く追いつくことが出来たのは一条だったのだ。
「五代」
 雄介の力説に、一条が困惑の表情で顔をあげた。
「たとえばうちの店でお客さんにカレー運ぶときだってね、美味しいんですよ、たっぷり味わって食べてくださいね!って気持ちをこめて、笑顔で運んでいくのと、足取り重たく仕事だからねって無愛想に配膳するのとでは、食べるお客さんの居心地も多分料理の味さえも180度違っちゃうと思うんです」
「それは・・・そうだろうが」
 いきなり始まったカレーの話に、一条は面食らったような顔をしながらも、律儀に相槌をうつ。
「仕事なんて、日々の生活の糧を得るための手段だって思って働いてるひと、多いと思います。でも、どうせ同じ働くんだったら、楽しく働いたほうがいいじゃないですか。一条さんがこの腕で」
 と、雄介は一条の右手を大切そうに握る。
「多くの一般市民を助けられることを誇りに思いますよ、俺は!」
「五代」
 一条は、それでもまだ思い惑う気持ちを持て余しているようだった。
「一条さんがいろんなこと考えて、もしかしたらもうそんなに考え過ぎなくてもいいのにってくらい悩んだりとかするの、そういうところも俺は大好きです」
 振り払われないのをいいことに、雄介は一条の腕を自分の胸に引き寄せる。
「今が楽しければいいって考え方もあるし、あんまりモノを考えない奴多いみたいだし、世間一般がそういう風潮なのかなって感じるけど。刹那的な楽しさのあとに残るのは、虚しさばかりだと思うから」
 雄介の両手が一条の冷え切った手を包み込む。雄介も冷たい手をしていたが、触れ合ったそこは、少しずつ温かさを取り戻していくようだった。
「俺は欲張りだから、今だけじゃ満足出来ないんですよ。今だけの楽しさなんかじゃね」
「それは、同感だな」
「でしょ。手に入れたいものはたくさんある。そのためには、いっぱいいっぱい考えないと」
 そう言った雄介の肩に、小さな白いものがふわりと落ちてくる。
 通りがかりの車のヘッドライトが、舞い散る白い花びらのようなものを映し出す。
「ずーっと昔、小さい頃に聴いた歌にね『冬に風花〜』ってのがあったんですよ。これが、その風花ってやつですよね」
 風花―――寒い季節に、空気中の水分が一瞬にして小雪のように凍って舞うさま。
「寒いんじゃないか?」
 コートを着ている一条よりも、ジャケット一枚の雄介のほうが薄着だった。まるで冬の象徴のような光景を目にして、一条は雄介の意図するところとは別の心配をしてしまったようだ。
「いえいえ。大丈夫です。じゃなくて、その歌を聴いた当時、風花って『かざばな』って音だけ聴いて、違う文字を思い浮かべちゃってたんですよね」
「違う文字って」
 一条には、ほかの漢字など思いもよらないらしい。
「風邪鼻。病気の風邪に、鼻水の鼻。だってね、冬にって言うくらいだから、風邪ひいて鼻たらしてる鼻のことかって・・・なんか、妙な歌詞だよなぁって思ってて、でも実は風花ってこれのことで、ホントはすごく綺麗な歌詞だったんだって気がついたときには、すっごくびっくりしちゃいましたよ」
 一条は、下を向いてしまった。
 その肩が、小刻みに震えている。
「やだな一条さん、おかしいときはもっと普通に笑ってくださいよ。俺、そんな間抜けな勘違いしてましたか?」
「い・・・いや、そんなことは・・・」
 否定の言葉を口にしながら、一条はくすくすと笑い続ける。
「あ、やっぱり俺、ちょっと寒いです」
 雄介は、そう言ってまだ笑っている一条を、両手のなかにすっぽりとおさめる。
「ご・・・五代?」
「寒いから、ちょっとだけこうしててください」
 寒いという言葉を信じたのか、一条はなにも言い返さずにじっとしている。いや、まだ少し笑っているようだ。
「やっと笑ってくれて、嬉しいです。一条さんの笑顔が見られたから、笑える勘違いをしてた昔の自分に感謝したいくらいです」
 そう言って、雄介は屈託なく笑う。
「あの子もいつか、あのときの俺みたいに、勘違いに気がつくでしょう。ホントはこんなに綺麗なものだったんだって、気がつく日がくると思いますよ」
「なんの話だ?」
「でも、気がついても遅いですけどね」
「五代?」
「なんでもありません。それより、美味しい店を知ってるんですけど、夕飯食べに行きませんか?」
 どこの店だか了解している一条は、聴き返すこともなく黙って頷いた。
 両手がふさがっている雄介は、心のなかでサムズアップをきめていた。
 

fin.2000.12.13