孤 独

 
 銃口がこちらを向いたときにも、あまり感情は動かなかった。
 男は震えていた。大きな図体をして、血走った目を向けながら、ごつい肩も、引き鉄にかけたふしくれだった指も、すべてぶるぶると震わせていた。
 見かけよりもずっと小心なのだろう。あんな構えで当たるはずもない。
 けれど、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、って言葉もある。頭に血が上ってる犯人が、むやみに乱射したら、一発くらいは当たるかも知れない。そんな可能性を考えなかったわけではない。
 それでも、これ以上の膠着状態は危険だ。要求が飲まれないことに焦れた男が、客席にいる人々を目掛けて発砲したら、どれだけの被害者が出るかわからない。
 だから、単身、一見丸腰のように見せるため、なにも持たない両手を広げて犯人のまえに立った。
「一条さん、やめてくださいっ!!!」
「一条くんっ、危険すぎる」
 そんな部下や上司の悲鳴のような声を背中に聞きながら、それでも躊躇する気持ちはなかった。
 こんな風に緊張の続く状況を、早く終わらせたいと一番に願っているのは、あの男だろう。
 理由は解らないが、そう直感した。興奮状態が続いていて、本人にさえその自覚はないかも知れないが、ただ引っ込みがつかなくなっているだけなのは、そのようすから見てとれる。弱い犬ほどよく吼えるといったところだ。大声で喚けばわめくほど、あの男の抱えた不安と焦燥が見てとれる。
 男は、県内某所の秋祭り会場のステージを、拳銃を持って占拠した。マイクを握り締め、わけのわからない主張を始めた。そして、観客たちの命を盾に、テレビ中継を要求した。
 その主張は、まったく意味不明だった。県内の病院に照会したところ、某医院の精神科から今日退院したばかりの男だということが解った。幻覚を見て、妄想を抱き、酷い症状で入院していたものらしいが、ここ一ケ月くらいの経過は良好に見え、言動も普通で本人の強い希望もあって退院許可がおりた、らしい。
 ところが男は、どこから調達したものか拳銃を持ち出して、退院した病院から真っ直ぐにこの会場に来た。
 もともとは、某有名タレントの講演会が開かれる予定であったため、1000人分の客席は満席状態だった。その客たちを、警察は当然避難させたようと試みたが、犯人によって阻止された。
 銃声とともに、発射されたそれは、空を目掛けてはいたけれど、おもちゃではないことを証明するのには充分だった。
「こんな世の中は、間違ってる。俺が、なんで、俺だけが一人きりなんだ? 誰も、俺を見ない。まるで、俺がここに居ることになんか、誰も気がついていないみたいじゃないか」
 さっきまで、男が喋っていたのは、そうしたことではなかった。
 もっと、意味不明な囁きと、時折正気に戻ったような目をして皆を脅す言葉。
「テレビ中継をしろ。全国の奴らに俺を見せろ!」と、言ったかと思えば。
「地球が危険だ。空が降ってくる。明日は、もうこない。なにもかもが、幻なんだ。なんで、みんな、それに気づかない?」
 などと怯えた目をして、声を震わせてみたりしていた。
 それが、唐突に意味の解る言葉を紡ぎだしたので、俺は男に向かって歩き出した足を止めた。
「幻を見ているのは、俺だけなのか? 間違ってるって言うのか? それとも、俺自身が幻なのか?」
 問い合わせた精神科の話では、男はエリート商社マンであったらしい。一流高校、一流大学卒で、一流企業に就職した。絵に描いたようなエリートコースをまっしぐらに走り続けてきた。ところが、男の上司の公金横領事件に巻き込まれ、会社を辞職するはめになった。初めて直面した挫折に、愚痴を聞いてくれる家族も友人のひとりも持っていない自分に気がつき、愕然としたのだろう。
 気の毒な話ではある。けれど、自業自得なところもある。
 頼ることもなく、頼られることもなく生きてきたのに、挫折に直面したとたん、他人の情にすがろうとする心弱さ。
 その結果引き起こした、世間に対する八つ当たり的な犯行を許すわけにはいかない。
「大丈夫だ。わたしにも君が見える。だから、それをこちらに渡しなさい」
 ゆっくりと歩みを進めて、手を差し出した。
 もう少しで手が届く距離に到達したとき、男が引き鉄を引いた。
 銃身がぐらぐらしていて、とても当たりそうもないのは解っていた。だから、難なく避けてその勢いを利用して、足で男の手から拳銃を蹴り落とした。
 周囲を取り巻いていた警察官が殺到してくる。
 そうして男は取り押さえられ、事件は収束した。
 後日、随分と責められた。上司も部下も、向こう見ずすぎると、文句たらたらだった。結果的には無傷で、被害者もなく解決出来たから良かったようなものの、狂人相手に無謀すぎる、と。
 自分のことを本気で心配してくれていることは、有り難いと思ったが、それだけだった。だから、くどいほどの説教を、苦笑とともに聞き流した。
 あのときの俺は、犯人の心に巣食った絶望と孤独、そして上司や部下の心からの心配を、なにひとつ知ろうともしていなかった。
 
 
「どうしたんですか、一条さん?」
 気がつくと、心配そうな五代の目が、俺を覗き込んでいた。
「あ、いや。どうもしない」
 俺の部屋でテレビを見ていたところだった。地方局からの中継で、偶然、あの事件のあった長野のイベント会場が映っていた。そのせいで、そう遠くもない過去を思い出して、ぼんやりしていたらしい。
「嘘です。どうもしないって顔じゃないですよ。なんか、すごい辛そうに見えました」
 五代は、追及をゆるめない。言いたくないようすを見せれば、たいていは深追いせずにいてくれるのが常なのだが、今日はなぜかどうあっても聴き出したいと思っているようすだ。
「一条さんのことはね、なんでも知りたいんです。でも、一条さんを困らせるのは本意じゃない。刑事さんって仕事が仕事だし、言えないことがあるのは当然ですもんね」
 いつだったか、そんなことを言われたことがある。それなのに、今日はどうしても俺がぼんやりしてたわけを知りたいと、大きな目がねだっている。テレビを見ていた俺の表情が、それだけ悲壮感漂っていたせいかも知れないが。日頃聞き分けがいいだけに、こうなると黙りとおすことも難しい。
「別に、たいしたことではないのだが、ちょっと思い出したことがあったんだ」
 そう前置きして、俺はくだんの事件について、かいつまんで説明した。
 五代は、姿勢を正して、終始真面目な表情で耳を傾けてくれた。
「一条さんって、昔っから無鉄砲だったんですね。でも、その犯人の弾が当たらなかったのは、そいつが下手くそだったからじゃなくて、最初から当てる気がなかったせいなんでしょうね」
 いつだって、五代の反応には驚かされるのだが、今回もやはり意外な言葉を聞かされた。
 あの場にいた誰も、そんなことは言わなかった。当たらなかったから良かったものの、当たっていたらどうするんだ、と耳にタコが出来るほど説教をくらったものなのに。
「一条さんに、ちゃんと見えてるって言われて、そのひとはきっとほっとしたんでしょう。だけど、引っ込みがつかなくなってたから、すぐに逮捕されるように、無茶な行動をしたんじゃないかな」
「どうして、そんなことが解る?」
「当てずっぽうを言ってみただけです。単なる推測ですから、外れてるかも知れないし。でも、俺はそのひとの抱えてた孤独を、少しは察することが出来るような気がします」
 やわらかな笑顔とともに渡された言葉が、胸に響く。
「わたしにも君が見える」なんて、 あの場で言った言葉には、重みもなにもなかった。ただ、とにかく早く事件を解決しようという使命感があっただけ。男の孤独を察することさえ、俺には難しかった。
 それなのに、今なら解るような気がする。たった今、このときになら。
『孤独』という言葉は、たったひとりきりで誰もいない淋しさのなかで理解するだけのものではないのかも知れない。
 単独行動をどれだけ注意され、詰られもしてきたのに、なにも感じるところはなかった。誰にも頼らないこと、誰もあてにはしないことが、当然だったから。
 なのに今『孤独』がどんなものか、解るように思う。
 今目のまえに当然のようにいてくれるこの男を、もしも失うようなことになったなら・・・・・・。
 俺は、どうしようもない孤独に押し潰されてしまうかも知れない。
「一条さん、どうしたんですか? また、ぼんやりしちゃって」
 気がつけば、また物思いに沈んでいた俺を、五代が気遣わしげに見ている。
「いや、なんでもない」
 なにかを察したのだろうか。五代はこんどはもう、深く追及したりはせずに笑っていた。
「せっかく二人きりなんですから、ひとりでトリップしてばっかりいないで、少しは相手してくださいよ」
 などと言いながら、俺の肩になついた。
 俺は言えない言葉をごまかすように、少し笑ってその頭をなでた。
 言わないでおくよ。
 五代雄介、という男のために、俺はずっと知らないでいた『孤独』の意味を知ってしまった。
 なんてことは、一生の秘密だ。
 
 

fin.2000.8.27