もの憂く気だるいラブソングが、やけに胸に沁みるように感じるのは、終わりの予感を意識しているからだろうか?
恋人同士、などという言葉で、五代は嬉しそうに笑うけれど、実際の自分たちの関係はあやうく脆い砂上の楼閣、のようなものだと思う。
その店に立ち寄ったのは、耳慣れない言語を使う客が、最近よく現れる。少々気味が悪いので、素性を確認してもらえないか、という店主からの通報があったからだった。これだけ未確認生命体関連の事件が多発すると、情報も各方面に行き渡ることになる。よって、奴らが特殊な言語で会話し集団をなす傾向がある、ということは周知の事実となっていた。
けれど、その言語がどのようなものかまでは、知られていない。
今回の出動は、完璧な空振りだった。店主の恐れていた人物というのは、れっきとした日本人で、彼の喋っていたのは勉強中のラテン語だった。店主がラテン語を知らなかったことと、彼が浪人を繰り返した挙句大学に入学してからも留年しまくったために、とても学生には見えなかったこと、そして彼の発音がとてもラテン語には聴こえないくらいに下手くそだったことが禍いした。
職質をしてしまった手前、容疑も晴れたことなので、どうした経緯でこういうことになったかをざっと説明すると、彼は屈託なく笑った。今時流行らない長髪に、サイズの大きすぎるよれたジャケット、丈の短いスラックスから見える赤い靴下。見かけは、かなり危ない印象だが、笑顔は優しげで奴らと間違われたのがますます気の毒に思えるような好青年だった。
「いやぁ、それは忙しい刑事さんにも悪いことをしたなぁ。分不相応な店だってことは自覚してるんですけどね、あの唄が聴きたくて、ついつい足しげく通ってしまってたんですよ」
あの唄、と彼が言ったのは、ジャズピアノの生演奏とともに歌われている例のラブソングだった。
「行かないで〜、ひとりにしないで〜・・・なんて、ぐっとくる歌詞でしょう?」
歌われているのは英語でだったが、そういう内容であることは解っていたので、黙って頷くと、横合いから桜井警部補が意外そうな声を発した。
「そうなんですか? なんか、一条さんが聴き入ってたから、どんな唄かと思ってたんですけど、よく聴き取れなくて」
「聴き入って、ましたか?」
そんな自覚はなかっただけに、驚いて聴き返すと桜井警部補は、深く頷いた。
「昔、そう言われたのに振り切った女性のことでも考えてたんじゃないですか?」
と、大きな目を瞬かせて、聴いてくる。真面目な彼にはめずらしい発言は、杉田さんの影響かも知れない。
「いいなぁ、刑事さんモテそうですもんね。そんな女性、ごまんといそうだ」
元容疑者の彼までが、尻馬にのってそんなことを言い出す。
「いませんよ、そんな女性は」
自分は恐らく、そんな風にすがっても無駄な相手に見られるのだろう。告白されたことはあっても、多少付き合いがあったとしても、お断りするときや別れるときに、未練がましい言葉をかけられたことなど一度もなかった。それとも、執拗に付き纏うようなタイプは、最初から敬遠してきた結果だろうか?
「と、いうことにしておいてもいいですけどね」
桜井警部補は、まるで信じていないようにそう言って、話を打ち切った。
杉田さん同様、こうなったらもう強く否定しても無駄なようだ。
「それじゃあ、帰って報告書を書いて、今日はあがりましょうか」
「そうですね」
無駄足だったとしても、何事もなくて良かった。
聴こえてくる歌声は、さして上手いというものではなかったのだが、妙に心に訴えかけるものがあって、その点では後ろ髪を引かれるような気がしたのだが、用の済んだ店に長居するわけにはいかなかった。
そんなことがあった二日ほど後のことだった。
いつもの習慣で、皇居のお堀瑞をジョギングしていると、隣で走っている五代が唐突に聴いた。
「一条さん、ラブソングを聴いて思いをはせるような女性がいるんですか?」
「な・・・なんだ、いきなり」
「桜井さんから聴いたんです。行かないで、独りにしないで、なんてありふれた歌詞なのに、ぐっとくるなんて力説した容疑者の言葉に、やけに思いきり頷いて共感してたようすだったって」
正確には、行かないで、愛しいひとよ。行かないで、独りきりは嫌。
それはもう、本当にありふれた歌詞なのだろう。だが、あの場でそんなことを指摘してどうなる? こちらは、無辜の民を疑ってしまった直後だったのだ。
「別に、誰かを思い出したわけじゃないさ。ただ、彼があの唄に感動しているようだったので、水をさすようなことを言わなかっただけだ」
本当は、自分も心を動かされていた。行かないで、とそう言えるものなら、と考えてしまっていた。
けれど、言えるわけがない。そんなことを言うような俺を、そんな女々しい男を、五代が好きになったはずがないから。
「そっかぁ。別に、誰かを思い出してたわけじゃなかったのか。そうですよね、一条さんにそんなこと言う女性いなかったでしょうからね。言いたいと思った女性はやまほどいたでしょうけど」
嬉しそうに五代はそう言って、自分の言葉に納得したように頷いている。
だが、俺には意味が解らない。
「なんで、そんな風に思うんだ?」
「だって一条さんにはそんな言葉、逆効果でしょう? 行かないでって言ったら別れるのやめてくれるようなタイプには見えないから。どうせふられるとしても、せめて好きな人に嫌われたくはないって誰でも思うもんじゃないですか。最後くらい、悪い印象残したくないって。だから、言いたくても言えない。一条さんに嫌われるくらいなら、おとなしく別れたほうがマシってやつですよ」
そんなこと、考えたこともなかった。
「それで、君もそう思うのか?」
「いいえ、全然!!」
驚くほどの即答で、五代は首を横に振った。
「みんな一条さんの綺麗でクールな見かけに騙されてるんですよね。でも、俺はそんなことないですから、言いますよ、何度でも。行かないで、独りにしないで、ずっとそばにいてください!!って」
思わず周囲を見回した、ジョギングしてるのは俺たちだけではないというのに、五代は臆面もなく言ってくれる。
「それでも駄目なら泣いてすがっちゃいますね、俺なら。だって一条さん、本当はすごく優しくて、そんな情けない奴放っておけないでしょう?」
「いや、朝からそんな恥ずかしいことを大声で言う奴なんか、捨てて行く」
どうにもいたたまれない気持ちになって、俺はスピードをあげた。
「わっ、待ってくださいよ。俺、小田原まで走ったことがある一条さんほど体力ないんですってばー」
「バカ言え、今は絶対君のほうが持久力があるはずだぞ」
五代の泣き言を無視して走り続ける。
本当は、ついついにやけてしまいそうな顔を見られたくなかったのだ。
深刻に悩んでいたことさえ、五代はあっさりと吹き飛ばしてしまう。
行かないでくれ。独りになんかしないでくれ。そう訴えることは、とても無理だと思っていた。
そんなことは女々しくて出来るはずがない。そう思って、近づきつつあるように思える別れの予感にどうしたらいいか解らないでいたのに、五代はまるで当然のことのように、女々しく思われるような台詞を言ってのける。
そして、悔しいことに五代の指摘した通り、そう言われても嫌悪感など湧かない。自分には、そう言ってすがってくれる恋人を振り切るような非情さはないように思える。それとも、それは相手が五代だからなのだろうか?
「こんど、その店に連れていってくださいよ。俺も、その唄、聴きたいです」
ぜぇぜぇと荒い息をつきながら、ようやく追いついた五代がそう言った。
あんまりペースをあげすぎては、この先がきついので、俺は少しだけスピードを落としながら頷いた。
「そうだな。俺が泣いてすがりたくなったら、代わりにあの唄を聴いてもらおうかな」
「な・・・なに言ってるんですか、一条さん!! それは絶対にありえませんよ。俺、駄目って言われてもずっとずっと一条さんのそばにいますから!!!」
五代は腕を振り回しながら、訴える。
「だと、いいがな」
俺の呟きは、五代の力説にかき消された。
当てのない空手形でも、今は受け取っておこうと思う。その時が来たら、五代はやっぱり去っていくのだろう。それでも、たった今の気持ちに、嘘はないのだろうから、それだけは信じてやってもいい。それだけでも、嬉しいと思えてしまう。
俺はいつかあの店に、独りで行くことになるのかも知れない。言えなかった言葉を胸に抱いて、独りで感傷にひたりながら、あの気だるいラブソングに耳を傾けるのだろう。
五代に嫌われても、そばにいてもらえるならそちらのほうがマシだと思うかも知れない。だが、自由を放棄して翼を無くしたこの男を見るよりは、離れたほうがずっとマシ、だとも思ってしまう。
「まったく一条さんは、自覚がなさすぎます。俺が、どれだけ一条さんのこと好きか、そんなに解らないって言うなら、こんやベッドで嫌ってほど思い知らせてあげますからね!」
俺の物思いをよそに、五代は勝手なことをほざいている。
「解った、解った。よーっく解ったから、それは遠慮しておく」
笑って答えてまえを見ると、桜田門が間近に迫っていた。
fin.2000.12.31