膠 着

 
 朝の買出しから帰ってきた雄介は、荷物を店に運び入れると、トライチェイサーの洗車を始めた。ガソリンはさっき入れたばかりだが、オイルのチェックをして、タンクをウエスで磨き上げる。夢中で隅々まで綺麗にしていると、気がつけば手は黒い油の染みで、すっかり汚れてしまっている。
 そんなところへ、おやっさんの姪が嬉しげなようすでドーナツの入ったかごを持ってきた。
「五代さん、これ私が作ったんです。どうぞ!」
 と、差し出されたドーナツは、それなりに美味しそうではあったが、雄介は自分の両手を広げて見せた。
「あ、美味しそうだね。でも、ほらこれだから。あとで―――」
 もらうね、と続けるつもりだったのだが。
「ああ、それなら私の手は綺麗ですから。はい。あーんしてください!」
「ええっ?」
 一口分のドーナツをちぎって差し出された手。これが、もし一条さんのものだったら?
 ついついそんな想像をしつつ、乞われるままに口をあけていた。
 口のなかに広がるドーナツの甘さと、胸に広がる苦々しい思い。
 一条さんがこんなことしてくれるわけ、ない。一生懸命気持ちを伝えて、ようやく本気だって解ってくれたみたいではあるけれど。
 虚しい想像だった、と内心で苦笑しながらも言う。
「ありがとう。美味しいね」
 このときまだ雄介は知らなかった。当の想い人が、遠い道の向こうを走る車のなかからこの光景を目にしてブレーキを踏み、やがて店に向かっていた車をユーターンさせて走り去っていったことを。
 
 
 翌日。奴らが出たという連絡を受け、雄介は現場までトライチェイサーを走らせた。電話をしてきたときの一条の声が心なしか沈んでいるようだったのが気がかりだったが、これから直接会える、と思うとスロットルを回す腕にも、自然に力が入ってしまう。
 こんな風に現場におもむく回数が増えれば、それだけ頻繁に会える。けれど、それは、間違いなく被害の拡大を示す事実であって、喜んでしまうのは不謹慎すぎる。
 それでも逸る心は止められない。
 雄介にはもう何号でも構わない怪人は、恋する男の勢いにあっさりと敗北した。
 物陰で変身をとき、いつものように一条と話が出来ることと信じて振り返る。
 けれど、雄介が目にしたものは、走り去る一条の運転する覆面車の後姿だけだった。
「もしかして、別の場所にも奴らが出たのかも」
 一条のねぎらいの言葉が欲しくて戦ったわけではない。それでも、ここまでそっけない態度をとられたことは今までなかった。だから、雄介はきっと緊急事態なのだと解釈し、急いでトライチェイサーの無線に耳を澄ました。
 けれど、いくら待っても一条からの出動要請はない。他の場所で事件が起きているような無線のやりとりも聴こえない。
「他になにか、用事があったんだ」
 雄介は、釈然としない気持ちをなんとか納得させようと、そんな独り言を呟いた。
 
 
 しかし、その翌日。
 時間通りに目を覚まして店に降りると、おやっさんが丁度電話を切るところだった。
「ゆうちゃん、あのハンサムさんから伝言だよ。今日は抜けられない会議があるから、椿のところへはひとりで行ってほしい、って」
 椿のところ。つまり、関東医大病院。今のところ不調はないのだが、一条からの要請で定期的に検査に通っている。そして、たいていは一条も同行してくれていた。それは、いちいち約束していたわけではないのだが、暗黙の了解のうちについた習慣のようなものだったはずだ。
「一条さん。せめて、俺に直接言ってくれてもいいのに」
 唇をとがらせて呟くと、おやっさんが温和な笑みを浮かべて振り返る。
「どうした、ゆうちゃん。フラレたか?」
 やさしげな顔をしながら、心臓をぐっさりえぐるようなことを自覚なく言ってくれるひとだ。
「縁起でもないこと言わないでよ!」
 昨日の今日である。おやっさんに言われなくても不安になっているところだった。
「きっと、忙しいんだ」
「そう。忙しいよ、今日もいいお天気だし。なのにまた出掛けるのか?」
「ああ、ごめんなさい、おやっさん。ランチタイムまでには帰ってきまーす」
 雄介はそう断って店を出た。
 椿がどんなに検査を念入りにしたいと言っても、午前中だけで逃げ出すことに決めていた。今日は、一条もいないので、よけいに早く帰りたい。
 
 
 そうして、その日の夜。雄介が働いている『ポレポレ』が閉店する時刻。
 昼間の快晴が嘘のように、土砂降りの雨になった。会いたいひとに会えなくて、すっかりしおれている雄介の心を映したような暗い空。
 避けられているような気がする。でも、ただ忙しいだけなのかも知れない。
 どちらか解らないことで、本人に確認もせずに悩むのは、あまりにも雄介らしくない。
「おやっさん、俺、もう一度出かけてきまーす」
 後片付けを終えるやいなや、雄介はそう言って店を飛び出した。
 何時になるか解らないけど、会えるまで待てばいい。ちゃんと会って訊いてみよう。こんな雨の日なら、すぐに追い返されたりはしないはずだ。生真面目で、心配性なあのひとに、この土砂降りのなかをバイクで帰すなんてことは出来ないだろう。
 雄介は、トライチェイサーを一条の住むマンション脇に駐車した。小さな期待をこめて振り仰ぐけれど、やはり一条の部屋の明かりは消えたままだ。雄介は階段を駆け上がる。そして、一条の部屋のまえ。ドアに背をあずけてうずくまった。
 どれくらい待っただろうか?
 間近で息を飲む気配がして、顔を上げると一条が眉をひそめて雄介を見下ろしていた。
「こんなところで、なにをやってる?」
「ああ、おかえりなさい、一条さん」
 心なしか迷惑そうな一条の態度に傷ついてなんかいない。それよりも、会えて嬉しい。やっと、会えたような気がする。
 心から湧き上がる嬉しさで、雄介の顔は自然とほころぶ。
「お願い、一条さん。早く部屋に入れてください」
 切羽詰ったようすの懇願に、一条は大きな瞳で雄介を見る。
「雨に濡れたままこんなところにいて、寒いのか?」
 梅雨寒、という言葉もあるが、夜だからと極端に気温が下がっているわけではなかった。けれど、身体を冷やしてそのままマンションの廊下でうずくまっていたらしい雄介は、外の気温とは関係なく身体を冷やしたのかも知れない。一条は、そんな心配をしたらしい。
「そうじゃなくてっ」
 雄介は、一条の耳元に囁く。
「早くしないと俺、ここで一条さんを抱き締めちゃいそうだから。誰が通るか解らないのに、それでも待てないから。だから、お願いですから、早くドアを開けてください」
 一条に会うまで抱えていた不安。避けられているのかも知れない。それならその理由を聞かないと。どうやってそれを訊ねようか。なにを、真っ先に言えばいいだろうか。そんな頭のなかでぐるぐると考えていたあれこれは、今、一条の顔を見たとたんに吹き飛んでしまっていた。
 だから雄介は、これまでの経緯などすっ飛ばして、感情のままに言葉を発してしまっていた。
 そうして一条は、今までならそんな雄介を拒むことはなかった。
 なのに今日は、ようすが違った。雄介の言葉に一条の表情が強張った。一条の整っているけれど冷たい瞳が、雄介の切ない瞳とぶつかる。
「いい加減、その勘違いに気がつくべきだ」
「なに? 一条さん、どうしたんです?」
 迷子の子犬のような途方に暮れた目をして、雄介は一条を見る。
 一条は、目を閉じてふっと息をつく。
「いい。とにかく、雨がもう少しおさまるまではいてもいいから。さっきみたいなバカなことを言わないならな」
 鍵を開けて、雄介を中に入れる。男性の一人暮らしとは思えない綺麗な部屋。と、言えば聞こえはいいが、単にものがないだけ。生活感を欠いているだけ、のようにも見える部屋。
「バカなことって、そんな言い方しなくても」
 雄介は情けない顔で一条を見る。中に入ってドアを閉めたらすぐに、一条を抱き締めようと思っていたのに。とてもそんなことの出来る雰囲気ではなかった。
「コーヒーでも淹れるか?」
 ぶっきらぼうな訊き方だった。それでも、まだ寒いかも知れないという配慮だというのが解る。
「それなら、俺が淹れますから。一条さん、疲れてるでしょ?」
「そんなに、俺に気を遣う必要はないぞ」
 固い声だった。避けられていると感じたのは、勘違いなんかじゃない。そう、気がつかせるのに充分な、一条の態度だった。
「俺、なんか一条さんを怒らせるようなことをしましたか?」
 怒っているのだと、雄介は思った。なのに、それを訊かれた一条は、哀しげに目を伏せた。
 本気で愛想を尽かしたというなら、部屋に入れたりしないだろう。雨に濡れたことを心配してくれたりもしないだろう。ひとりでもちゃんと病院に行くようにと、電話をくれることもなかっただろう。
 なのに、せっかく会って、目の前にいるのに心は遠い。
 冷たい言葉を浴びせられ、そっけない態度に胸をえぐられる。
 こんな膠着状態に、雄介は耐えられないと思う。打開策があるというなら、どんなことをしてでも見つけ出したいと思う。
「俺の気持ち、勘違いなんかじゃありませんから。なにかあるなら、ちゃんと言ってください。俺、それを聴くまで今日は帰りません!!」
 
 

 2000.6.20

 『嫉妬』に続く。