虚 勢

 

 盆暮れ正月を返上して、一条さんはずっと働いていた。自分の誕生日であるお父さんの命日でもある4月18日にも帰らなくて、そのあともずっと、名古屋に帰省する機会をもてないままだった。
 東京、名古屋間は、新幹線なら2時間の距離だ。日帰りだって、簡単である。それでも、奴らがゲームの舞台を、何故だか長野か首都圏に選んでいるため、一条さんは帰らないでいた。
 たった二人きりの家族である一条さんのお母さんには申し訳ない気持ちがするけれど、正直に言えば俺は正月も一条さんがそばにいてくれることが、とても嬉しかった。激化している戦いのさなかにあって、不謹慎だと詰られようが、それが俺の本音に違いない。
 今も一条さんは、俺の目の前で筆をふるっている。少しでいいから、正月気分を味わいましょう、と誘って、硯と墨、そして筆と書初め用の紙を揃えたので、一条さんは苦笑しながらも、俺に付き合ってくれているというわけだ。
 苦笑された理由は、俺の毛筆にはそぐわない奔放な字のせい。
 なんでもいいから、なにか書いてみろと言われて俺は、思いついた文字をつづってみた。
『ほんわか』
 その結果、一条さんの点目。という、めずらしいものを拝ませてもらってしまった。
 しばらく絶句したあとで、一条さんのもらした感想。
「どうして君は、筆でこんな漫画みたいな字が書けるんだ?」
 感心されてしまった。いや、単に呆れてるだけだろう。
 それもしかたのないことかも知れない。なにせ俺は色々思うところあって、浮かれていた。空元気なのかも知れないが、精一杯の虚勢をはって、この期に及んで何故書初めなのか、そんなことの薀蓄をたれたりしていたのだ。
「やっぱり一条さん、大切なのは日本人の心ですよ。こうして、心安らかに静かな気持ちで硯で墨をすって、精神統一をはかって、文字を書く。素晴らしい習慣じゃないですか。墨汁なんか使っちゃ駄目ですよね。やっぱり、墨を丁度いい濃さになるまで、じっくりとするという、この時間も大切なんです。この時間を経ているからこそ、文字も生きてくるわけですよ」
 薀蓄・・・などと言うもおこがましい。単なる、お喋りに過ぎないのだが、一条さんは真面目に頷いてくれていた。
 それで俺は、調子に乗っていたのだが、習字なんて技のうちには入ってなかった。文字は読みやすいのが一番。ペン字だったら、まだなんとかなるかもって実力で、達筆な一条さんに威張って見せられるような字が書けるわけもない。
「それじゃあ、一条さんがお手本書いてくださいよ〜」
 と、お願いしたところで、今、一条さんが筆をふるってくれている、というわけだ。
 お正月だから、羽織り袴姿の一条さんが見たいなぁ、というお願いは、そんな動きにくい恰好のときに奴らが出たら困るだろう、とあっさり一蹴されてしまった。それで、大袈裟に肩をすぼめてしゅんとしていた俺が、よっぽど憐れに見えたのだろう。今日の一条さんは、それ以外のお願いならあっさりきいてくれるみたいだ。あとで、あんなことも、こんなこともお願いしてみちゃおうかなぁ、なんて、綺麗な横顔に見蕩れながら、ついついイケナイことを考えてしまう。
「これでどうだ?」
 と、書き終わったらしい一条さんがふいに顔をあげた。
 一条さんの書いた文字は『希望』だった。
 まったく、教科書に載ってるお手本そのもののように、美しい楷書体。
 俺は、本人同様美しい文字を眺めて、感嘆の溜め息をもらす。
「やっぱり、綺麗なひとって文字まで綺麗ですねvv」
「おだてても、なにも出ないぞ?」
「やだな、そんな本心ですよ。いいなぁ、こんな綺麗な字が書けたら。ね、一条さん教えてください!」
 わくわくしながらのおねだりに、一条さんは真面目な顔で悩む。
「教えろと言われても、書道など、練習を積むしかなかろう?」
「ほら、小学校の頃先生が手をとって教えてくれたじゃないですか、あんな風にして」
「手をとって、か?」
 渋い表情で聴き返す一条さんに、俺はこくこくと頷いた。
 しばらく、筆と俺と紙を見比べて逡巡していた一条さんだったが、俺が期待に満ちた顔で待っていると、根負けしたように、俺の背後にまわって筆を持った手をとってくれた。
 駄々をこねて、手を繋いでもらったことだってあるのに、こうやって筆を持つ手を重ねられると、かえって照れる。
 けど、すっごく嬉しい。
 あんまり嬉しくて、無意識ににやけてしまっていたらしい。一条さんの左手が俺の頭をかるくはたいた。
「真面目にやれ!」
「ごめんなさい」
 謝ると、一条さんは笑いながら俺の手ごと筆を硯に運んだ。
 丁度よいくらいの墨を筆に含ませて、迷いの無い動作で和紙におろす。
「入るところは、こう。で、止めるところはしっかり止める。ああ、そんなに肩をがちがちにしなくてもいいから、ここはこうで、こっちはこう」
 などと息がかかる距離で一条さんの声がして、俺はもう夢見心地。肩に力を入れるななんて、無理です、絶対に無理。
 でも、そんなこと言ったら、すぐに手を放されてしまいそうだから、俺は心のなかだけでそれを呟いて、この至福のときを少しでも引き伸ばそうと必死だ。
 なのに、紙に文字を埋めるのなんか、簡単なことだった。しかも、一条さんは滑らかに手を動かして、さらさらとあっという間に文字を書き上げてしまう。
「な、こうしたらこのくらいは書けるものだろう」
「なって、一条さんが書いてくれたからですよ。自力じゃあとっても無理です」
「だがな、五代。文字は、上手く書けるようになればなるほど、味けなくなっていくと思わないか?」
 一条さんは、俺が最初に書いた漫画みたいな「ほんわか」を見ながら言った。
「上手いことに、どれだけの価値があるだろう? それより、和めるとか、あったかい雰囲気があるとか、そういう文字が書けるほうがいいんじゃないか?」
 そういう言葉って、上手く書けるひとが言うから恰好いいんですよ。悪筆の人間が言ったらただの負け惜しみになる。
 でも今、一条さんがそう言ってくれたのは、俺のことを想ってくれてるからだって、自惚れてもいいですか?
 俺は、そんな嬉しい気持ちをこめて、一条さんを抱きしめた。
「だから俺、一条さんが大好きなんです!!」
「うわっ、こら、墨がつくだろう。五代っ!」
 抗議の声を無視してじゃれついていたら、一条さんが文鎮を振り上げたので、さすがに降参して正座しなおして謝った。
「せっかくだから、今年の抱負でも書くか?」
「えー、それより一番好きな文字、にしましょうよ」
 魂胆バレバレであっても、どうしてもここは譲れない。
 一条さんは、躊躇するようすを見せたけれど、俺が言い張って、押し通した。
 二人して、子供みたいだと思いながらもお互いに背中を向けて、隔しながら文字を書く。
 最初から、決めていた一文字を、俺は精一杯の愛情をこめて書ききった。そして、背中ごしに声をかける。
「いいですか、せーので、見せあいっこしましょうね!」
「ああ」
 一条さんも、書き終わったようなので、せーの!と、声をかけてお互いの書いた文字を見る。
「わーい、一条さん。俺、嬉しいですvv」
 一条さんの書いてくれた「雄介」という文字に、躍り上がっていたので、氷のような冷たい視線がこちらに突き刺さってきていることに、気が着くのが少々遅れた。
「五代・・・これはどういう意味だ?」
 浮かれる俺の後ろから、一条さんの地を這うような低い声が聴こえてきた。
「え? 大好きな一条さんの名前を・・・」
「そりゃあ、確かに出会った頃よりも、太ったかも知れないが」
「え?」
「だからって、新年早々こんな厭味なことを」
「ええっ?」
 俺は改めて自分の書いた文字を見返した。
 墓穴を掘った。筆が滑った、とどんなに全開の笑顔でおどけて見せても、フォローしきれない大きな墓を掘ってしまった。
 せっかく、あんなことも、こんなお願いも、今日は聞き入れてもらえそうな雰囲気だったのに、自らぶち壊してしまった。やはり、こんな状況下で浮かれていた俺が悪いのか?
『薫』と書いたつもりで『重』と書いていた。
「よーく、解った五代。俺は、帰る」
「そんな〜。待ってください。誤解です。俺、一条さんがどんなに重くても、それでも大好きですから!」
 筆ばかりか口まで滑らせてしまった。
「もう、いい」
 短く言って立ち上がった一条さんの足に、俺はしがみついた。
「待ってくださいよ〜。ほら、一条さんだってこれ、俺の名前書いてくれたじゃないですか〜!!」
 一条さんの書いてくれた「雄介」という文字を指差してなんとか引きとめようとしてみたが、一条さんの態度は少しも軟化しない。
「そう書かないと、また拗ねると思ったからだ」
 にべもなく言って、俺の腕から足を引き抜こうとする。
「お願いです、一条さん。帰らないでください。ね、今は、一分でも一秒でも、ほんの一瞬でもいいから、一条さんと一緒にいたいんです!!」
 俺はいっさいの虚勢をなげうって、一条さんに懇願していた。今は、じゃなくて、本当は出会ってから今まで、ずっとそう思ってきたんだけど、この際だから、それは内緒にしておく。
 しがみついた俺を振り払おうとする力が、ふいにゆるんだ。
 暖かな一条さんの手が、そっと俺の頬に触れる。
「しょうがない奴だな」
 一条さんが座りなおしてくれたので、俺はにっこり笑顔で擦り寄った。
「もう、あんなバカな間違いしないように、薫って字も、一緒に書いてください」
 そうして一条さんに手を取ってもらって、大きく「薫」と書いてみた。
 たくさん買い入れてきた紙の全部をつかって、いくつも、いくつも『薫』と書いた。
 俺があんまりいくつも『薫』と書くので、一条さんも対抗するかのようにたくさん『雄介』と書いてくれた。
『薫』と『雄介』という文字がいくつも、いくつも寄り添う。
 それを幸せな気持ちで見詰めながら、俺は一条さんに寄り添っていた。
 
 

fin.2001.1.13