「中途半端にかかわるな!」
胸倉をつかまれて、至近距離から強い瞳に睨まれた。
警察病院で、あのとき一条さんの肋骨にはひびが入っていたという。なのに、そんなことはまったく悟らせない、見事なポーカーフェイスで、誇り高き警察官の顔をしていた。
自分の軽はずみな言動を責められているのにも関わらず、格好いいな、と思った。こんな風に格好いいこのひとのそばにいて、ともに戦うことが出来るとしたら、どうにも違和感のある殴る感覚にも、慣れてもいいかな、なんてことを考えた。
簡単に手に入るものになんかに興味は湧かない。
どうしても欲しいと思うのは、それを手に入れるのがものすごく難しいことだからじゃないかな。
午前三時。誰もこない路上に停めた一条さんの覆面パトカーのなか。近くに倒れていた一条さんを運び込んで、背もたれをリクライニングさせて、横たわらせた。
首のあたりが苦しそうに見えたから、ネクタイを外した。ついでに、シャツのボタンもうえからふたつ。
印象的で形のよい瞳が閉じられていても、一条さんの寝顔はやはり綺麗だった。
ずっと見ていても飽きない。いつ気がつくか解らないし、この辺りの危険がすっかり去ったのかどうかも解らない。一条さんが気絶させられたのは、おそらくグロンギの奴らのせいだから。
そんな気持ちで助手席に乗り込んでじっと寝顔を見ていたのだけど、なんだか心がもやもやとしてきて、落ち着かない。
なめらかな頬に触れたら、どんな反応をするんだろう?
快感に甘い吐息をもらすとき、このひとはどんな表情をするのだろう?
黙って見ているうちに、イケナイことをあれこれ想像してしまって、いたたまれなくなってきた。
悪魔のユースケが俺に囁きかける。今だ、チャンスだ!! 黙って見てることはないだろう。と。
だけど天使のゆうすけが、それに反論する。ダメだよおとなしく守ってなきゃ。どれだけ大切なひとだと思うの? と。
どっちも俺のホントの気持ち。掛け値ナシの本音に違いない。
そんな俺の内心の葛藤などまるで知らずに、一条さんは昏々と眠り続ける。端正な横顔。まつげが頬に落とす影。高く通った鼻筋と、小さめの唇。ざわめく気持ちを抑えようと思うなら、目をそらせばいいのに、それも出来ない。
こんなにぐっすり眠っているのだから、少しくらいなら気がつかない。
俺は結局、悪魔ユースケの誘惑に負けて、一条さんの頬にそっと触れた。それだけで、心臓がどきどき音をたてる。
まったく起きる気配のない一条さんのようすを見ていて、俺は調子にのってしまった。抑えられない欲求にしたがって、唇に自分のそれを寄せた。
とたんに、ぱちっと澄んだ瞳が開かれた。
慌てて離れたけれど、一条さんはすぐに状況を察したらしい、大きな目を見開いて俺の腕を掴んだ。強い力で、それだけでもどれだけ怒っているかが解る。
「五代、いまのはなんの真似だ?」
「ごめんなさいっ」
俺は、肩を縮めて謝った。
一条さんは、自分がネクタイをしていないことや、シャツのボタンが外されていることを苦い表情で確認したあと、また真っ直ぐに俺を睨みつけた。
「五代、まさか・・・・・・」
「してません!!! そんな、最後までなんて、じゃなくて、えっと、まだキスしかしてないですっっっ!!」
「まだ?」
墓穴を掘りぬいてしまった。もう、地球の裏側まで達してしまうくらい。
「俺が起きなかったら、するつもりだったのか?」
「いえいえ、今のは言葉の北千住。いやいや、綾瀬・・・じゃなくて、言葉のアヤですって」
こんな場面で言っても笑ってもらえるはずないのに、俺はついついおやっさんレベルのバカな駄洒落をかましてしまった。
一条さんは、呆れ返った目で俺を見てる。呆れもするよな。と、思ったんだけど。
「なんだ、したくないのか」
一条さんは、心なしか残念そうに言った。ええ? ええー? えええっっっ???
俺は、パニックを起こして、激しく瞬きした。けど、なんと答えていいか解らなくて、耳を疑うばかりだった。
「俺が寝てる間に、勝手に脱がそうとしてたくせに」
一条さんは意地悪くそんな言い方をしながら、シャツのボタンをはめた。
「違いますよ。ちょっと苦しそうに見えたから、そこまで外してみただけで、脱がそうとなんて、そんな・・・・・・」
必死に言い訳する俺を冷たく眺めていた一条さんは、顎に手をあててなにか思案するようすを見せる。
なぜだかその瞳の輝きに、嫌な予感がよぎる。
「不公平だよな、俺だけ寝てる間に好き勝手されて、というのは」
「好き勝手なんて、だから、してませんよ〜」
いや、キスはしちゃったんですけどね、はい、確かに。だから、俺の言い訳には、かけらも説得力がない。
「わかった。こんどはおまえが、寝ろ」
「はあ?」
「俺が見ててやるから、寝ていいぞ」
こんな状況で、眠れるほど心臓図太くないです、俺。と、思ったんだけど、一条さんは言い出したら聞いてくれない。とくに、今の一条さんは、なんだかようすが違ってみえる。もしかして、一条さんのなかにも、悪魔と天使がいるのかなぁ? と、疑いたくなってしまうくらい。
「ほら、遠慮はいらないぞ。おやすみ」
うう。眠れないまでも、もうこうなったら、寝たフリくらいしなきゃ、どうしようもない。
俺は、しかたなく緊張したまま、固く目を閉じた。
一条さんの視線が痛い。視線を、間近でこんな風に感じることがあるなんて、初めて知ったよ。
「さぁ、どうしようかな。俺も、脱がせてみようかな」
一条さんは、俺がまだ明らかに寝ていないことを知っていながら、そんなことを呟いた。
俺もなんだか、すっかり意地になって目を閉じたまま耐えた。
「だが、こんな公共の場で脱がせたりしたら、猥褻物陳列罪にひっかかるか」
くっ。ジョークのつもりですか、一条さんっっっ。
つまらなすぎて、笑っちゃうことってあるじゃない。なんだか、まさにそれで、俺は、あっさり降参した。このまま寝たフリなんか、続けられるはずがない。
くすくすと、肩を震わせて笑ってしまった。
でも、目だけは開けなかった。一条さんがどんな顔をしているのか、とても見たいのに、何故かこれだけはっきり笑っていても、目を開けたらまた叱られそうな気がしたから。
一条さんは、そんな俺を見て軽く息をはいた。
また、しかたない奴、って顔をしてるのが見える気がした。
「警察官が犯罪をおかすわけにはいかないからな。これで、チャラにしてやる」
一条さんは、笑いを含んだ声でそう言って―――。
唇に、熱い感触。
「一条さん!!」
俺は、結局目を開けて、一条さんのほうに身を乗り出した。
だけど、一条さんは何事もなかったような涼しげな顔で、俺を見返した。
「さて、俺ももう少しだけ、寝ておこうかな。もう、勝手なことをするなよ!」
言って、リクライニングを起こして、電車で軽い居眠りをするような体勢で、目を閉じた。
なんだか満足そうなようすを見ていて、俺はふいに気がついた。子供っぽい仕返しだったのかも知れない、ということに。
誇り高き警察官としては、一般市民に二度までも無防備な寝顔をさらしたことのほうが、キスより重い出来事だったのかも知れない。
俺の肩で眠ってたことを「一生の不覚」だなんて、大袈裟な言葉で嘆いてたこともあったっけ。
どんなときでも、守られるのではなく、守るべき立場を貫きたいのだろう。警察官だから。一条薫だから。
それが、一条さんの矜持。
簡単になんか、手に入るはずがない。
だからいつか、その果てしなく高いプライドごと、全部俺のものにしたいって思う。
「もう、勝手なことなんかしませんよ。おやすみなさい。一条さん」
ドア側を向いてしまった一条さんの横顔に、俺は小さく囁いた。
今のところは、ね。という言葉を、しっかり心のなかだけでつけ加えるのも忘れなかった。
fin.2000.7.30