矛 盾

 

 繋いだ手を放さずにいたかった。
 誰よりも、あの人だけを守りたかった。
 いつまでも、どれだけ長いときをともに過ごしても、少しも甘えてはくれなくて、頼ってもくれない、そんな人だから。
 誤解されやすいのかも知れない。取り澄ました表情に、ソフトな物腰に、なんでも出来る仕事ぶりに。誰も、本当のあのひとを知らない。きっと、自分だけが知ってる。誰よりも、大好きなひとのことだから。そうやって、思うのは、幸せな気持ちだった。誰にともなく感じる優越感にひたっていると、自分たちのことがまるで至上の恋人たちのように思えてきて、それが幸せだった。
 それでも、行かなければいけないときは、来る。
 どうして今まで、手を繋いでこられたのか、ともに戦ってこられたのか、そもそもあのひとに出会えて今までのともに過ごすときを与えられたのはどうしてなのか。それを考えると、無視できない。
「はい、五代さん」
 窓をうつ雨を眺めながら、かのひとに思いをはせていたら、横合いから湯気のたつカップを差し出された。
「ありがとう」
 いつのまにかからになっていたカップを、いれたてのココアと交換してくれたのは七緒だった。いつもなら、うるさいくらいにあれこれ話しかけてくるのに、今日はなんだか神妙な顔をしている。
「また、一条さんのこと考えてるんでしょ。五代さん、顔にそう書いてあるわ」
 と、思ったらそんなことを指摘されて、俺は思わず頬に手をあてる。
「書いてある? なんて?」
 聴き返すと、七緒は迷うように口を閉ざした。なんだか、やっぱりいつもとようすが違う。
「変やね。いつもなら、ただ一条薫が大好きや!!って、それだけで幸せそうで情けないほどふにゃふにゃしとるのに、今日はなんか、いつものとはちゃうんや」
 七緒は、勘がいい。そんなつもりはなくても、なにかを感じ取らせるような、そんな態度をとっているのだろうか?
「もう、帰ってこないつもりなん?」
 酷く傷ついたような顔で尋ねられ、一瞬、言葉をなくした。
 どうして、そんなことまで察してしまうのだろう? なんだか、可哀想になってくる。解らないほうが、気がつかないほうが、きっと幸せなことってたくさんあるのに。
「冒険に行こうと思ってるんだ」
 不確かな約束は残酷だと思う。勝って、いつか冒険から戻ってくるなら、帰るところはここしかないけれど。今の俺にとってなんだかそれは、あまりにも遠い未来の話に思えてしまう。
「僕が行かないでって頼んでも、駄目なんやろうね」
 七緒がどこか諦めたように呟いた。
「あのひとが、もしも、一条さんが止めてくれたら、行かないでくれる?」
 俺はただ、黙って首を横に振った。
「そっか、なら、もうしゃあないんやな。それ、誰が止めても行かはるってことやね」
 溜め息まじりに、言って七尾は痛ましげに目を逸らした。今まで、こんな表情を見せたことはなかったので、いたたまれない気持ちになる。一条さんとは全然違う部分で、弟のように思ってきたから、こんな顔をさせているのが自分だと思うと、胸が痛い。
「七緒にも多分、いつか選ばなければならないときが来るんじゃないかな。そしたら、きっと今の俺のこと、解ってくれると思うんだ」
 静かに、諭すようにそう言った。
 けれど、七緒は激しく首を振った。
「そんなん、解りたくないわ!」
「想像してみてくれないかな」
「え?」
「一番大切なひとに、自分のとても醜いところを見せなければならなくなったとしたら。そのあとで、何事もなかったように、そばにいられるものかな?」
 けれど、そんな例え話では、七緒にはなんのことだか解らない。いくら勘がよくても、これで解ってもらおうというほうが、虫が良すぎるのだろう。
 七緒は、途方に暮れたような顔をして、俺を見ていた。
「怒りとか憎しみとか、そういう醜い部分をあのひとにだけは、見せたくないって思ってた」
「五代さん・・・」
「けど、どうしても、それじゃなきゃ戦えない。もう、それしか残ってないんだよ」
 だから、行かないとならない。例え、勝ったとしても、どこかでその醜い感情を浄化してくるまで、あのひとに会えない。あのひとの傍らにいることが出来ない。
「五代さんがどっか行かはったら、そしたら僕があのひととっちゃうかも知れんよ?」
 無理に笑って、七緒が嘯いた。
「いいよ。七緒があのひとを幸せにしてくれるなら、それでも」
 誤解されやすいけれど、あのひとは脆いところがあって、俺がいなくなったあとに支えてくれる存在が必要かも知れないって思うから。それが自分で出来ないことに、胸が焼けるような気持ちになるけれど。それでも、七緒がいることで、あのひとが笑っていられるなら、そのほうがいいと、心から思う。
 だけど、言ったとたんに、七緒に胸倉をつかまれた。
「五代さん、まさか本気でそんなこと言ってるんやないよね?」
「七緒?」
「ふざけないでよ。五代さんの一条さんに対する気持ち、そんな半端なもんちゃうんでしょう?」
 俺はつとめて、笑顔をつくる。
「そうだよ。半端じゃないから、一条さんの幸せだけを祈ってる」
「なに言っとるんか、わからへんわ」
「一番大事なのは、あのひとが幸せに笑っていられることなんだ。その傍らにいるのが、俺ならいいって思うけど、もし別の誰かだったとしても、それでもあのひとが幸せなら俺は嬉しいよ」
 七緒の非難する瞳が俺を凝視する。
「偽善者!!」
 可愛い弟と思っていた奴に向けられる軽蔑の眼差しは、大きなダメージだ。
「見かけがどれだけ似ていても、やっぱり違う人間なんやね。僕には、そんな考えかたは出来へんよ。五代さんの優しさは、残酷や」
 偽善だろうか? いつか言われたような、奇麗事なのだろうか?
 俺はこぶしを握り締める。
 このこぶしを、嫌というほどふるってきた。多くの敵を、これで倒した。殴るのも、蹴ることも、なんどやっても慣れることの出来ない嫌な感覚だった。だから、たとえ憎しみや怒りの感情ぬきで戦えたとしても、やっぱり擦り切れた心がもとに戻るまで、俺を知るひとが誰もいない場所に行きたい。
「大好きだから、ずっとそばにいたいと思う」
「それやったら、ずっとおったらええやないか」
「だけど、大切だから、今の俺がそばにいても駄目なんだよ」
「わっけわからんわ。五代さんの言うこと矛盾ばっかやん」
 苛立った七緒が、テーブルを叩く。
 こつん、という冷たい音が、今は胸に重くのしかかる。
「そうだよね。矛盾してると自分でも思うよ。けど、それは七緒だって一緒でしょ?」
 俺の言葉に、七緒はぽかんとした。自覚してないなんて、言わせない。とぼけるつもりなんだろうけど、今日はちゃんと言わせてもらう。
「おまえはずっと、俺と一条さんの邪魔をしてたじゃない。間に割り込んで、俺の一条さんにべったり甘えて」
「俺のて、五代さんこのごに及んで、さりげなく主張せんでくださいよ」
「おまえの話をしてるんだよ。だから、邪魔したかった俺たちが離れるんなら、喜んでもいいでしょう? それなのに、どうして俺を責めるの? なんで、一条さんのそばにいたらいいなんて言うの?」
 七緒は口をとがらせて、上目遣いに俺を見る。
「矛盾なんか、してへんもん」
「なんで? どこが、どういう風に?」
 まるでガキの喧嘩みたいに、俺はたたみかけた。七緒と喋っていると、どうもいつもよりもさらに童心に返ってしまうことがある。
「せやかて、僕は優先順位がはっきりしとるだけやもん。五代さんがここにおってくれて、一緒に笑っていられたらそれが一等嬉しいんやけど、一条さんしか見えてへんようなとこは癪やから邪魔したなる。でも、どっか遠くに行かはるよりは、一条さんとめっちゃらぶらぶでもええから、ここにおって欲しいんやもん」
 正直言って、面食らった。こんなにストレートな台詞が返ってくるとは思ってなかった。七緒は多分、これで当分は会えなくなることを、直感で悟っているのだろう。だからもう、なにも飾らない。取り繕うこともしない。
「それに僕、一条さんも大好きやけど、五代さんのいないこの店に、一条さんが来はると思う?」
 当たり前のように時間があけば、訪ねてきてくれていた。だから、そんな可能性までまったく考えてもみなかった。
「そっか、一条さん、もうあんまり来なくなっちゃうかも知れないんだ」
「五代さん、今ごろそれに気がつくなんて、鈍すぎや」
「・・・ごめん」
 もうほかに、なにを言えばいいか解らなかった。
 皆が黙った店内には、外の雨音だけが静かに響いた。
 ココアを飲み干して、俺はゆっくり立ち上がる。
 もうなにを言っても、俺を止めることは出来ないのだと、七緒はようやく諦めたようだった。
「早く帰ってこないと、ほんまに僕が一条さんとっちゃうよ、ええの?」
 あのひとが幸せなら、それでいいと、俺はさっき言ったけれど・・・。
 七緒の自信たっぷりでちょっと意地の悪い笑みを見ているうちに、やっぱり心は騒いでしまって。
「駄目! やっぱり、それは絶対嫌だ。おまえ、俺が帰ってくるまであのひとに変な虫がつかないように、おとなしく見張っててくれよ。な、頼むよ七緒君、じゃあな!」
 あっさり拒否されることを覚悟しての言葉だったのに、七緒はそれを聞いて会心の笑みを見せてくれた。
「了解。五代さんがほんまの気持ち言ってくれたから、しゃあない、見張ったるわ。やから、はよう帰ってきてな」
 俺はバイクのまえで振り返り、笑顔でサムズアップをしてみせた。
 七緒は笑って真似をしてから、急に顔をくしゃくしゃにして、涙を見られまいとするように後ろを向いた。
 相反する気持ち。心の欲求を、意地が裏切らなければならないこともある。抱え込んだ多くの矛盾も、ままならない気持ちも、自覚しながら迷いながら、たったひとつを選ぶしかないときもある。
 姿かたちばかりではなくて、やっぱり俺たちって似てるじゃない。
 七緒の強がる背中を見て、そんなことを考えながら、俺はバイクのエンジンをかけた。
 雨はまだ降り続けている。だけど心なしかその雨は、さっきよりもあたたかく、俺をそっと包み込んでくれているような、そんな気がした。
 
 
 

fin.2001.1.23