熱 狂

 
 拍手と歓声。熱気で空気が薄くなっている。熱い期待と憧憬と、焦がれるような想いのこもったファンたちの視線を一身に集めて、ステージで歌っている青年は、とても楽しそうで、幸せそうに見えた。そんな彼を見ている客たちもまた、とてもとても幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「一条さん」
 すがるような瞳で見上げられて、一条は眉間の皺を深くする。
「もしもまた毒ガスのようなものを使われたら、ひとたまりもないぞ、こんな狭いところにこれだけの人間が密集していては・・・」
 そこは渋谷区某所にあるライブハウスだった。オールスタンディングのフロアは超満員。一条と雄介は、そんなフロアの片隅、ステージから一番遠い壁際でこそこそと耳に口を寄せて話し込んでいた。
「でも、ただの悪戯かも知れません」
「そんなことくらい考慮してる。それでも、最悪の事態の予測がついているのに、このまま見過ごすことが出来ると思うのか?」
 そう言いながら、一条も躊躇していた。この期に及んで、悠長に雄介と議論しているのがその証拠である。今までの彼であれば、誰かと相談などするまえに、即座にライブの中止を宣告し、観客たちを速やかに退場させようとしたことだろう。
「掲示板にあった書き込み。たまごおとこの腹のなかで、386人が散る。でしたよね?」
 たまごおとこ。それは、このライブハウスの名前を直訳した言葉だった。
「そうだ。あの飛行機や船で、まだ懲りなかったのか、それともあれを読んだどこかの模倣犯かは解らないが」
 例の飛行機や船の予告が書き込まれたのと同一の掲示板に、また雄介の言ったような内容の書き込みがあったのだった。
「奴ら、何故か人数の正確さにこだわるところありますよね」
「そうだな。以前、高校生が自殺してしまったときにも、わざわざ身代わりをつけ狙ったりしていた」
「ですよね。だから、やっぱりその書き込みは奴らのじゃありませんよ」
 雄介が、目を細めてステージを見ながら言った。
 ステージ上にはゲストらしい若い女性が出てきて、暖かな拍手をあびているところだった。
「何故、そんなことが言い切れるんだ?」
「受け付けに確認させてもらったんですよ。今日のチケット、実売は340枚。ステージのうえにはゲストを入れて5人。従業員と彼らの連れてきたスタッフの総数が41名。これで合計が386人ですけど、俺と一条さんがここにいると388人になっちゃいます。そのうえ、チケットを買っても来られないひともいたみたいで、受け付けで回収した半券は326枚でした」
「つまり、この場の全員を殺すことが出来ても、予告の人数よりも12人も足りない計算になるのか」
「もしかしたら、掲示板の予告を読んで警察がもっとたくさん来るのを見越してたのかも知れませんけど」
 雄介の言葉に、一条は、はっとして目を見開く。
「まずいぞ、五代。今、応援の人員がこっちに向かってるはずだ。制服の警官ももうすぐ到着する。12人以上増えるだろうが、多い分には数人を残してあとを殺せば予告通りになってしまうじゃないか!」
 一条と雄介がほかの警官たちよりも先にこの場に着いたのは、たまたま二人がこの近所で会ってこんごの相談をしているところだったからだった。たまたま・・・の回数がどれだけ多かろうと、そうしたことを指摘できる関係者はいなかった。
「奴らに、ステージに釘付けになってるフリなんか、出来ないと思いませんか?」
「なにを言い出すんだ?」
「だから一条さん、一階の出入り口で警官のかたたちを入ってこないように止めてください!」
「どういうことだ?」
 雄介の切羽詰ったようすに、半身を出入り口に向けながらも、一条は雄介がなにをどうしたいのか解らない。
「悪戯なら、それでいいけど、万一ってこともあります。だから、これ以上このフロアの人数を増やさないようにするんです。予告通りの状況さえ作らなければ、なにも中止にしなくたって、防げるでしょう?」
「それで、フリが出来ないって話は、どういう意味なんだ?」
「だから、俺がここで見張ってるんです。もしも既に奴らが紛れこんでいたとしても、絶対に誰も殺させたりしませんから!」
 どこからくる自信なのか。それとも、守りたいと宣言した笑顔が、今、この会場に溢れているせいなのか。雄介は、頑としてこのライブの中止を阻止する覚悟でいるらしい。
 強い視線を向けられて、一条はもうなにも反論することなく頷いて、出口への階段を駆け上がっていった。
 一条が出口に着くと同時くらいに、応援の警官たちがライブハウス前にパトカーを停車させた。
 車からばらばらと降りてくる彼らに向かい、一条は、なかに入るのはかえって危険であること、そして、今のところはあやしい人物も見当たらず、なかでは雄介が厳重な警戒態勢をとっていること、などを要領よく説明し、彼らをライブハウスの周囲の警護に散開させた。
 散っていった彼らの人数が丁度12人であったことが、一条の背筋を寒くさせた。が、ここでは一条が指揮をとらねばならない立場である。気を取り直して、本部に状況の報告を入れた。
 たまごに関連した遊技場が都内にあり、言葉の解釈によってはそちらである可能性もあるとして、杉田と桜井はそちらにまわっているはずだった。
 未確認生命体関連の事件には、誰もが過剰反応を起こしている現状である。警察も、出来ればガセネタで多くの人間の行動を制約したくはない。騒ぎが大きくなって空振りでは、マスコミからの糾弾も厳しくなる。よって、本部からはこのまま警戒態勢をとるようにと通達された。
 問題は、警官たちよりも遅れてやってくるかも知れないチケットを持った客のほうだった。もうすぐ目のまえでライブが行われているのに、チケットを持っていながら入場を拒否されても納得しないだろう。
 こうしたライブやコンサートといったものに疎い一条には、どれだけ遅刻しても来る客がいるものなのか、予測がつかない。
 誰もが音楽を、リズムを、あの場の雰囲気を楽しみ、興奮の坩堝と化しているライブフロアでひとり、緊張を続けて皆を守っている雄介のことも気にかかる。けれど、一条が出入り口を誰かに任せてフロアに戻るなどは論外だった。
 時はのろのろと過ぎていく。なんども、なんども腕時計に目をやって、そのあまりの遅さに、故障の心配をして、思わず携帯のほうの時間まで確認してしまうしまつだった。
 途中、女性が一人、息を切らせて駆け込んできた。真冬だというのに汗びっしょりで、それでも気が急くのか、髪も振り乱したままで階段を駆け下りていった。
 一条は、必死な目をして駆けてきたその女性を止める言葉を持たなかった。
「俺が抜けてるから、まだあと12人は足りないわけだし」
 そんな言い訳じみた独り言を口にしてしまってから、軽い溜め息を漏らす。
 そうしてまた時計を目にする。午後8時45分。ライブ終了の時間が、ようやくそこまで迫ってきていた。
「一条さんっ!!!」
 そこへ、血相変えた雄介が、階段を駆け上がってきた。
「どうした? 奴らが出たのか?」
 無線を握り締め、今にも応援要請をしようかという態度の一条に向かって、雄介が手を振る。
「そうじゃないんです。ただ、俺、半券に見落としがあって」
「見落としって?」
「受け付けで招待客分を避けてたんです。それが、12人分あって、さっき1人増えたでしょう?」
 雄介は説明しながら一条の腕を引っ張って、階段を降りた。
「ちょっと待て、俺が入るよりも五代が外に出て1人減らしたほうがよくはないか?」
 多いなら、誰か1人を残してあとの皆を殺せば予告通りになってしまうが、足りないとなれば予告は果たせない。
 けれど、雄介は即座にそれを否定する。
「駄目ですよ。俺たちの見てないところで、なにかあったらどうするんです?」
「それは・・・そうだが」
 フロアに降り立つと、アンコールの声とともに、きれいに揃った手拍子が響き渡っているところだった。
 ライブは最高潮。こんなところで、数が揃ってしまったからと中止を宣告したら、パニックが起きるかも知れない。
 やがて、最初に見たあの青年が、ステージに戻ってきて、場内は割れんばかりの拍手と嬌声に包まれた。
 やわらかなアコースティックサウンドが流れて、場内は水をうったように静まりかえる。
 そんななかを、青年の美しく澄んだ声が響き渡る。皆が、全身を耳にして聴き入っているのが解る。物静かなメロディーに、奏でられる見事なハーモニーに、心が揺さぶられる。
 もしかしたらこのライブハウスのなかに、奴らが潜んでいるかも知れない。そんな危機感も、現実感も、どこかへ遠のいてしまう。
 一条は、無意識のうちに傍らに立つ雄介の手を握り締めていた。
 アンコールの曲の最後の一音が、熱気のなかに溶けていくと、会場はまた拍手と歓声で飽和状態になる。
「一条さん」
 少し心配そうに名を呼ばれ、一条は我にかえった。
「無事に、終わったみたいですよ」
 気がつくと、客電がつき、皆がそれぞれに出口に向かっているところだった。
 ゆっくりと足許に床が戻ってきたという感覚とともに、現実感をも取り戻す。と、どうにも解せないことに気がついた。
「五代、何故、あんな終わりのほうになって急に、招待客のことになど気がついたんだ?」
 血相変えて階段を駆け上がってきて、その剣幕に押されて一緒に降りてきてしまったが、今にして思えば、五代のとったそれは、どうにも不自然で唐突過ぎる行動だった。
 雄介は、悪びれるようすもなく、頭をかく。
「やっぱ、バレちゃいました?」
「もしかして、嘘だったのか?」
「すみません。俺、どうしても一条さんと一緒にアンコールの曲が聴きたくなっちゃって」
 肩をすぼめて上目遣いに謝られて、一条はそれ以上雄介を責めることなど出来ない。
「ガセだったみたいですけど、俺たちせっかくのデートを邪魔されたんですよ。これくらいの特典があったって、罰は当たらないでしょう」
「今のが、特典、だったのか?」
「ライブの熱狂を、一条さんにも伝えたかったんです。嬉しそうに歌ってるステージのうえのひとや、それを楽しみに来たお客さんたちの笑顔を守れたってことを、一条さんと一緒に実感したかったんです」
 一条は、機材の撤去作業が始まったステージを、感慨深く見やった。
「熱狂か・・・。いい、ライブだったようだな」
 

fin.2000.12.20