「エストラジオール-17β・エストロン・エストリオール・・・」
芝生に寝転がって、秋の高い空を見上げながら、雄介がぶつぶつと呟いていると、その脇で足を投げ出して座っていた一条が訝しげな顔で訊いた。
「なんだ、それ。お経か?」
一条にはめずらしい、精一杯の冗談のつもりだったのかも知れないが、雄介は勢いよく半身を起こすと、真面目な顔で一条を見返した。
「違いますよ。全部発情ホルモンの名前です」
「なんだって?」
一条は耳を疑った。
秋晴れの、爽やかな風が吹く昼下がり。今日は、新しいバイクの調子などを聴くために少々遠出をして郊外の公園で落ち合った。広い芝生と、大きな広葉樹の木陰をみつけて、雄介がはしゃいで寝転ぶのにつき合って、一条もその脇に座り込んでいる、というめずらしい状況にあったのだった。
バイクの調子。
そんなものは、聴くまでもないことだ。都心を離れて快調にここまで走らせてきたからには、絶好調に違いない。百聞は一見にしかず、の好例に出来るくらいには。なのに、それ以上にどんな言葉が必要だろうか?
結局のところ、バイクも武器も、奴らについての相談でさえ、時として彼らが会うための口実でしかない。
もしかしたら、口実ではなく必要に迫られて会うことのほうが『時として』ある、と言ったほうが正解なくらいかも知れない。
互いに、そうまでして会いたい気持ちの正体がなんであるのかは、薄々気がついていながら、それでも「会いたいから、会おう」とストレートに誘い合うことを、照れくさく感じているらしい。
そんな状況下で、雄介の「発情ホルモン」発言である。一条が大きな目を更に大きくして驚くのも、無理からぬことだった。
「このまえ、雑学の本を読んだんですよ」
「雑学・・・か?」
雑学。雑費。雑収入。雑文。雑感。雑務。等々。雑という文字は、分類しきれないその他大勢をくくるのに便利で、拡大解釈しようものなら、果てしなく都合通りの解釈を選べそうである。雄介の言う「雑学」が要は「エロ本」の類ではないのか、と一条は疑いの眼差しを向ける。
けれど、そんな視線を何処吹く風と受け流した雄介は、自分の考えを追いかけるのに忙しい。
「今言ったカタカナ。全部、発情ホルモンなんですけどね。それって、卵巣および胎盤から分泌されるもんなんですって。つまり、全部女の人の話でしょう」
「おまえに、卵巣や胎盤があったら怖いな」
一条がまた、解りにくい冗談を口にする。なんだか、話の雲行きがあやしいので、茶々を入れているつもりなのかも知れない。
「腹に霊石があっても、卵巣や胎盤はないでしょう。椿先生だって、もしそんなことになってたら、教えてくれるはずですし」
「真面目に答えるな。そんなこと、あるはずないだろう」
一条は、霊石の話も嬉しくないかのように、眉間に皺を寄せた。
「ですよね。あるわけないでしょう。なのに、一条さんがそばにいるとね」
雄介は、そう言って傍らにいる一条の茶色い髪にそっと手を伸ばした。
一条は、その手を避けもせず、ただなにを言い出すつもりだろう? と、不思議そうな表情で雄介を見ている。
「やわらかそうな、この髪に触れたいとか」
言いながら、そっと一条の髪を梳く。雄介の長い指の間を、一条の髪がさらさらと流れ落ちる。
「頬に触れたら、かたい表情が少しでも和むところが見られるのかな、とか」
と、こんどは恐る恐る手のひらを頬にすべらせる。壊れ物を扱うように、やさしく触れる。
「五代、くすぐったいからよせ」
一条は、言葉では拒絶しながらも、雄介の手を振り払ったりはしない。
「その声。一条さんの声を聴いただけでも、背中がぞくぞくするような、焦るっていうか、急きたてられるっていうか、なんて言ったらいいのか解らないような気持ちになったりするんですよ」
雄介は素直に一条の頬から手を放し、こんどは両腕で、一条の両肩を抱きしめた。
広い公園ではある。至近距離にはほかに誰もいない。だが、見晴らしのいい芝生のうえのこと。木陰とはいえ、木のある反対側からは丸見えの位置にあって、大胆な行動である。
けれど、すっかり二人の世界に浸りきっているせいか、彼らは周囲の目など気にしたふうもない。
「店でカレー作ってるときにも、ふいに一条さんの顔が浮かぶんです。それで、今はなにをしてるだろう? って。会議かな、もしかしたらパトロール中かも知れないな、とか。パトロールなら近くを通ってくれないかな。そしたらちょっとは顔を出してくれるかな、なんて思ってみたりするんですよ」
奴らは勝手なルールを作ってゲームを楽しんでいるらしい。会わない日のほうが、めずらしいくらいの戦いの日々にあっても、そのめずらしい一時に、雄介は一条の「今」に思いをはせる。離れているとどうしているのか気になってたまらないと、切なく訴える。
「せめて声だけでも聴けないかなぁ、って思うんです。それで、声を聴いたら、やっぱり会いたいって思う。会ったら、こうして触れていたいって思う。抱きしめてキスして、ホントはそのさきも・・・・・・」
「ばか」
一条は、耳もとで囁かれた言葉に、小さく答えた。雄介の肩に顔を埋めているので、その表情は読めない。
「だから、本を読んでみたんですよ。俺、発情してるのかな? って、思ったから。でも、実際にはそれって女性の話みたいだし。なんでかなって思って」
「それで、あんなカタカナを覚えてきたのか?」
呆れたと声ににじませて、一条が問うのに、雄介のほうは褒められでもしたように、元気に答える。
「はい!! 俺、暗記も技のひとつなんです。だから、無駄に暗記したホルモンの名前、空に向かって言ってみました」
どうやらその暗記が無駄であることは、雄介自身も解っているらしい。それでも、呟いてみせたのは、一条にその話を聴いてもらいたかったからなのだろう。
「だがな五代。ひとの気持ちの答えは、本になんか書いてないさ」
「一条さん」
一条の声の、どこか切羽詰ったような調子に驚いて、雄介は抱きしめる腕を放して、一条の顔を覗き込む。
綺麗な美貌は、いつもよりも少しだけ憂いを帯びているように見える。
「例えば空や雲や青や白。見えるものを言葉に置き換えるのは簡単だが、気持ちには形も色もないだろう? たやすく言葉で説明なんか出来るはずがないんだ。そして多分、止まることなく変わっていくからよけいに・・・難しいんだろうな」
たった今、この時に真実だと思った気持ちは、1秒後には真実のままかも知れない。惹かれる相手を目の前にして、その気持ちは変わることがないとしても、では、1時間後に別の場所に別々にいたらどうだろう? 一日後。一ヶ月後。一年後。変わっていく気持ちの一瞬だけとらえて言葉にするのは、虚しいことだと、一条はまるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。
雄介はそんな一条を、いたたまれないような目をしてじっと見ていた。少しだけ、真剣な目で考え込んだあとで、秋の空にまぶしいおひさまに負けない笑顔を見せる。
「ホントですね、一条さん。本なんか読むより、一条さんの話を聴いたほうが、よっぽど手っ取り早かった」
そして、再び一条を両手でぎゅっと抱きしめた。
「俺は、一条さんにそんな淋しそうな顔をさせたくないって思ってるんです。もっと、もっと頑張って、一条さんが先のこと考えて不安になったりしないように、俺は強くなりますから」
「五代・・・・・・」
雄介に言われるまで、自分の抱えた不安にさえ気がついていなかったかのように、一条は目を見張る。
「本読んでも解らなかったけど、今やっと解りましたよ」
「自分の気持ちが?」
「はい。やっぱりこれ、発情じゃなくて『恋情』ってやつでしょう」
得意げな表情で、サムズアップをしてみせる。
一条は、照れる気持ちを苦笑でごまかして、意地悪く言う。
「劣情って、言葉もあるがな」
「一条さんがそっちのほうがいいって言うなら、俺もそっちにします〜」
嬉しそうに言って、雄介が一条にしがみつくようにして芝生に転がった。
「わっ、ばか。なっ、こんなとこで、おい、やめろって」
いつも冷静な態度を崩さない一条の慌てた声を聴いて、雄介は朗らかな笑い声をたてる。
「場所変えたらいいんですか? でも、芝生のうえも気持ちいいですよね」
結局は一条のスーツまで芝だらけになるのも構わず、二人してじゃれあっている。一条にその自覚はないかも知れないが、遠くで呆れた視線を送る者たちからは、大のおとなが、芝生でじゃれているようにしか見えない光景である。
友情も、恋情も、愛情も・・・確かにそこにあることを、二人は言葉にする必要もなくただ、知っていた。
fin.2000.9.14