たくさんの大きな謎が、依然として残されたままだったけど、あの山のなかで3号が惨殺されてから、ほんのしばらくの間、事件らしい事件は起こらなかった。
新たな事件が起きなくても、今までの事件の報告書の整理や、対策会議、その他諸々で、一条さんはいつだって忙しい。
忙しいのは、承知のうえで、一条さんのマンションで夕食のしたくなどしながら、帰りを待った。
夜くらいゆっくりさせてあげなきゃいけないのかも知れない。ようやく仕事が終わって、あとは風呂に入って寝るだけという状況のはずのところに、俺がいては邪魔になるかも知れない。
それも解っていたけれど、奴らが現れないと公然と会うことも出来なくて。一条さんほど忙しくはない俺にとっては、そんな会えない時間がとても長くて、我慢も限界ってところ。
会えない時間が愛を育てるだなんて、おやっさんはどっかからまた古い歌を教えてくれたりしたけれど。
片時たりとも離れていたくない。そう言うと、一条さんは決まって困ったように笑う。同意なんか、してくれない。それでも、迷惑だと言われないし、合鍵だってねだったらくれた。時間はかかったけど、これっていつ来てもいいってことだよな。
もしかしたら外で夕食はすませてくるかも知れないから、不要になっても冷凍しとけば食べられるビーフシチューと、海草サラダを用意した。ホントは、トマトやピーマンで、彩り豊かなコンビネーションサラダといきたいところだけれど、一条さんは相変わらず、トマトは徹底的に迫害するし、無理に食べさせようとすると機嫌を損ねるので諦めた。ちょっとだけ、そんなところは子供みたいで可愛いな、なんて思うけど。言ったらまた、どんな逆襲に遭うか知れないから、絶対に思ったことさえ秘密にしとかなきゃなんない。
ゆっくりしたくをしたつもりだったけど、一条さんは帰ってこない。
ヒマになってしまって、なんとなくオーディオセットのスイッチを入れた。
たいていは、耳に心地よいクラッシックが流れてくる。昔、ピアノを習っていて、相当な腕だというだけあって、よく聴いているCDは綺麗なピアノ曲のものが多いようだった。
けど、そのつもりで耳を傾けていたら、めずらしく邦楽だった。しかも、低い声がジャージーなピアノにのっかって、気だるげに歌っている。
「なんか、意外な感じ・・・」
思わず呟いたとき、ドアが開く音がしたので、玄関にとんでった。
「おかえりなさい!!」
一条さんは、ドアを入ったところで立ち尽くし、それからごしごしと目をこすった。
不審な行動に首を傾げつつ、どうしたのかと訊ねると、なんだか楽しそうな表情で歩み寄ってきて・・・。
「うわっ」
「ああ、どうやら気のせいだったようだな」
「な、な、なんですか? セクハラ?」
一条さんは、いきなり俺のおしりに手をあてて、くすくすと笑っていた。なんで、おしりなんかいきなり触るかな?
「いや、今、おまえの尻にしっぽが見えたような気がしてな」
「はぁ?」
「なんだか、ご主人様をお迎えに出てきた飼い犬みたいに、元気良くしっぽ振ってるみたいに見えたものだから」
だからって、いきなり触りますかね、普通。だいたい俺は、恋人の帰りを待ってたのに、飼い犬だなんて・・・。
「ん?」
へこんでる俺になどかまいもせず、一条さんは居間に足を踏み入れて、耳を澄ましている。
「これ・・・」
「すみません。あんまりヒマだったんで、ちょっと聴いてみようかなって。でも、なんかめずらしいですよね。邦楽。って、あれ、こんどは英語の歌詞だ。誰です?」
聴いた俺に、一条さんは何故だか複雑な表情で、言葉を探すようにしばし黙った。そうしてから訊く。
「よく、聴いたか?」
「いいえ。まだ、スイッチ入れてすぐくらいに一条さんが帰ってきたから」
「じゃあ、ちょっと聴いててみろ」
一条さんは名前を教えるかわりにそう言って、着替えるからと寝室にひっこんでしまった。
着替えなら手伝いたかったけど、そんなことしたらせっかくの料理が一条さんの腹具合とは関係なくフリーザー行きになってしまいそうなので、ぐっとこらえる。
そして、言われたとおりに流れてくる音楽に耳を傾けた。
一条さんのあの口ぶりからだと、どうやら俺の知ってる誰かみたいなんだけど、心当たりがなかった。
英語の曲は、ヴァージョンの違うものがもう一度繰り返され、そのあとでまた一曲目と同じ日本語の詞で、もっと元気な感じのアレンジのものが流れてきた。
その4曲目が流れてるときに、ラフなシャツとジーンズという見慣れない恰好に着替えた一条さんが戻ってきた。どんなに難しい表情をしてても、こういうスタイルだと三つも四つも若く見える。それがまた、新鮮で嬉しい。出来るなら、俺だけが知ってる一条さんのオフタイムだと思いたい。
「解ったか?」
「全然」
俺は、あっさり降参して首を振った。
「いつだったか頼まれて、君がテレビに出ただろう?」
もう何ヶ月もまえの話だった。たまたま俺にそっくりの芸能人が怪我で番組に穴をあけそうになって、なんとか代役を務めてもらえないだろうかと、一条さんに頼まれたから引き受けたことがあったんだ。(『挑戦』参照)
「そう言えば、そんなことありましたよね」
「あのときの、あの役者がCDを出したんだよ。歌う声も、君とそっくりだった」
最後の一言を、一条さんは、ぼそりとつけたしのように言った。なんだか照れてるみたいだった。
「もしかして一条さん、これ、俺の声に似てるから買ったんですか?」
俺は、勢い込んで訊ねた。そうだったらいいな。そうなら嬉しい、と思いながら。
「いや、それはもらったんだ」
なのに、一条さんはあっさり否定してくれた。
「義理堅いひとのようだよ。CDデビューしたからって、送ってくれたんだ。君にもどうしようかと迷ったようだが、本人にも似てるという自覚があるらしくて、自分そっくりの声のCDは嬉しいかどうか解らないからって・・・」
その気持ちはなんとなく解る。実際、もらってもそんなに聴いたかどうかは解らない。
だけど、声って自分ではよく解らない。そんなに、似てるかな?
でも、もしホントに一条さんが聴いてもそっくりだったんだとしても―――。
俺は、黙って立ち上がるとエンドレスモードになってたCDをとめて、オーディオのスイッチを切った。
「五代?」
曲の途中でぶったぎった俺の行為をちょっと咎めるように、一条さんが名前を呼んだ。
「もらいものだったとしても、ずっとそこに入ってるくらいには、聴き込んでたってことですよね?」
俺は寛いだようすでソファに腰をおろした一条さんの隣に座りながら言った。
「声が、聴きたかったからですか?」
耳元で、囁く。
「俺の代わりに、俺にそっくりの声を?」
一条さんは戸惑った表情で俺を見返す。すぐに否定の言葉が返さないところが、このひとの正直なところだ。
「別に・・・代わりというわけでは。純粋に、いい曲だな、と思ったし」
それもまた、一面の真実ではあるのだろう。それは、認める。悪くはないよ。でもね、やっぱりほかの男のことなんか、褒めないでほしい、かな。
部屋はさきほどまで流れていた音楽を唐突に止めたせいか、ひとりで待っていたときよりもなお、静まりかえっていた。
つかの間の平和。静謐な時間。
一条さんがいて、隣でその体温を感じていられて。やさしい時間を過ごすのもいい。一条さんがそばにいるのなら、これもまた幸せな過ごし方。
「五代・・・」
だけど、その静謐を乱したのは一条さんのほうだった。
切羽詰った響きを帯びた、どこか切なげなその声に、俺が抵抗できると思う?
結局、着替えなんか手伝わなくても、やっぱりビーフシチューはフリーザー行きが決定した。
互いの熱を分け合って、久し振りの抱擁を楽しんだ。
やがて再び、静謐な時間が訪れた。ベッドから出ないままで、一条さんが言う。
「五代、ステレオの電源入れてくれ」
「え?」
「あのCDが聴きたい」
俺は逆らえずにスイッチを入れる。なんだか最初に聴いたときよりも、もっと気だるげに耳に響く低い声が歌っている。
だけど、静謐な空気は乱されることなく、今ここにあった。
fin.2000.11.23