百万の言葉よりも雄弁に、君の背中が語っていたから、声をかけることが出来なかった。
いつものように、駆け寄ってねぎらうことさえ、はばかられた。
はなから正義など振りかざしてはいない君。世の中の仕組みは、勧善懲悪では割り切れない。現実はもっと複雑で、価値観はひとの数だけあると言ってもいい。奴らにとっての正義もあるのかも知れない。そして、人間の、自分たちにとっての正義も。
みんなの笑顔を守るために戦うのと、復讐心に燃えることは、まるで別のことだ。
42号を惨殺した君は、その心に闇を見たのだろうか? いつでもまぶしいくらいの笑顔で、誰かを恨んだり憎んだりする気持ちからは一番遠いところにいるような君だったのに。
「一条! おい、どうしたんだ?」
強い力で、肩をゆすられて、はっと我にかえった。
「あ、杉田さん」
「あ、じゃないだろう。もう、なんども呼んだぞ、俺は」
杉田の口調はきついが、瞳は一条を気遣っているようだ。
「すみません。ちょっと考え事をしていたものですから」
「また、彼の心配か?」
しょうのない奴だな、とでも言いたげに杉田は、一条を見る。
「えっ? 彼って・・・・・・」
一条は、驚いて眉をあげる。杉田が誰を指しているのか、解っているからこそなぜそう簡単に図星をさされるのかと戸惑っている。
「五代雄介くんだろう。なんだか一条は、彼のこととなると解りやすいからな」
「解りやすい・・・・・・ですか?」
「このまえの戦いぶりが気にかかっているんだろう? 42号が楽しみながら殺していった高校生たちのことを思って、どれだけ怒っていたとしても、俺も、あれはあまりにも・・・・・・なんて言えばいいか・・・・・・まだ、よくは知らないが、それでも彼らしくないようすに見えたよ」
もっと簡単にカタがつきそうだったのに、なんども、なんども殴っていた。もう、見ているほうが辛くなるくらいに、なんども、繰り返し。
「あいつはきっと、自分でも、解ってると思います」
「ああ。そうだろうな」
解っていて、だから傷ついてる。止められなかった衝動と、その手にある力の大きさと、垣間見えた不安な未来に。
杉田はふいに壁の時計に目をやる。午後十時を少しまわったところだった。
「今日はもう、あがったらどうだ? なにを言うのでもなくても、顔を見てくるだけでもいいじゃないか」
「杉田さん」
「ここで、あれこれ考えてるより、あの男のこれを見たほうがきっと安心出来る」
杉田はそう言って、サムズアップしてみせた。
「それじゃあ、お先に」
一条は、そんなに考えていることが顔に出ていたのだろうかと、訝しく思いながらも深く一礼して捜査本部をあとにした。
杉田に指摘された通り、いつもの笑顔でサムズアップでもしてくれたら、それで自分はほっとするのだろうと解っている。だが、こんな遅い時間に訪ねていくような、なんの用もない。店では忙しく働いているのだろう。今ごろは疲れて眠ろうとしているところかも知れない。
一条は『ポレポレ』のまえで立ち止まり、雄介がいるはずの2階を見上げて、やはりこのまま引き返したほうがいいのではないかとドアを叩くことを躊躇していた。
そこへ、道路に面した二階の窓が、がらりと開いた。
「一条さん!」
顔を出したのは雄介だ。暗い道路に佇んでいる一条を、部屋から漏れる弱い灯りだけでもすぐに見つけた。
「今、降りますから。そこに居てください」
雄介は、一条の返事も待たずに、それだけ言って窓を閉めた。
そして、本当にすぐに駆け下りてきて、ドアを開けた。
「もう外は寒いでしょう? なんか、あったかいものでもいれますよ。入ってください、どうぞ」
何の用なのか、なにをしに来たのか、そうしたことは一切訊かずに、雄介は一条を招き入れた。
「悪いな、こんな時間に」
そう言って、店のなかに入った一条に、雄介はやさしく微笑みかける。
「どんな時間でも、例え店が満席で無茶苦茶忙しいときでも、一条さんなら大歓迎ですよ!」
一条は、ストレートな歓迎ぶりに少々照れながらも、カウンターに腰掛けた。
「ココアでもいれましょうか。俺も飲みたいし」
雄介は、一条の好みを確認せずに決めて、カウンターのなかで準備にかかる。
やかんをコンロにかけて、ココアの缶を棚から取り出すために一条に背中を向ける。
一条は、既視感とともにその背中に釘付けになる。
辛い気持ちを、どうしようもない不安と焦燥と寂しさを、感じさせるあの背中。見ているこちらも、辛くて、胸が痛くて、苦しかった。どうすることも出来ない自分の無力さに、うちひしがれた。
一条は、そんな気持ちを振り払おうとするように首を振る。
今の雄介は、とても楽しそうだ。一条に会って、それだけでも嬉しいのか、鼻歌でもうたいだしそうなくらいだ。だから、背中を見ていても、あのときのような気持ちにはならない。ならないはずだと、自らに言い聞かせる。
「いや、やっぱりさっき窓を開けてみて正解だったなぁ」
いそいそとココアの準備をしている雄介が背中を向けたままで言う。
「なんかね、もしかしたらって気がしてたんですよ。こういうのって、以心伝心って言うんですかね」
「なにが、もしかしたらなんだ?」
一条の問いかけに、雄介はくるりと振り返って全開の笑顔を見せる。
「会いたいなって一条さんのことを考えてたんです。それで、もしかしてこの窓を開けたら一条さんが立ってたらすごいなって。そう思ったら、ホントに居たから」
一条は、くすっと笑いをもらす。まるで、信じていないようすで目を大きくする。
「それは、すごいな」
「あ、なんか今の台詞、すっごい棒読みでしたよ」
雄介が沸いたやかんをココアパウダーの入ったマグカップに傾けながら、唇をとがらせる。
「なんで俺に会いたかったんだ? なにか、話でもあったのか?」
一条は、雄介の抗議には取り合わずに訊ねた。
けれど、雄介は笑顔のままで、いいえ、と首を降る。
「いつだって、会いたいと思ってるんです。だから、話があってもなくても、そういうことは関係ないです」
雄介のきっぱりとした言葉に、一条は顎に手をあてて考え込む。
「ということは、もしかして夜にいきなり窓を開けてみるというのも、俺がいなくてもやってるってことなんじゃないのか?」
さっきはあまりの偶然に驚いたが、毎晩のようになんどもしていることだとしたら、得心がいく。
「あ、一条さん、そんなところで洞察力働かせないでくださいよ。参ったなぁ」
全然、参ってなどいないようすで、雄介が頭をかく。
「たまにですよ、たまに。でも、一日一回は、やっちゃうかもなぁ。だって一条さん、せっかく来てくれても、夜だったりしたら遠慮して窓見上げるだけで帰ったりしそうじゃないですか」
実際、帰ろうとしていた一条は、なにも言えず差し出されたマグカップに口をつける。
「甘いな」
「そりゃあ、ココアですからね。でも、疲れてるときは甘いものをとらなきゃ」
「ああ、甘いが美味しいよ」
「でしょう」
雄介は自慢げに胸をはる。ココアは、単に粉を溶かしただけのものなのだが、それでも自分のいれかたが良かったのだと思っているらしい。
「なぁ、五代。俺の考えてることは、解りやすいか?」
「どうしたんですか、いきなり?」
唐突に訊ねられ、雄介は一条の顔をまじまじと見た。
「その・・・・・・杉田さんにそんなことを言われたものだからな」
そうですねぇ、と雄介は一条を見ながら思案するように腕組みをする。
「もしかして、一条さん今日は、俺の背中を見に来たんじゃないですか?」
一条は、そんな目的ではなかったはずだと思いながらも、雄介の言葉を否定出来ずに硬直する。
「さっきね、これの準備してるときにね」
と、自分のココアをあげて見せて。
「なんか、痛いほど背中に視線感じてたんですよね。男の哀愁、漂ってました?」
「なんだ、それは?」
「いや、だから見蕩れてくれてるのかなぁって」
「五代・・・・・・」
ぐったりと疲れたように一条が脱力しつつ名前を呼ぶと、雄介は冗談ですよ、とまた笑う。
「あのときも、42号を倒した直後のあのときも、一条さん俺の背中を見てたでしょ?」
一条は、ただ黙って頷く。
「でもね、こんどからどうせ見蕩れるならちゃんとこっちにしてくださいね!」
雄介はそう言って、サムズアップをしてみせる。いや、サムズアップではなく、自分の顔を指差したかったのかも知れない。
「そうだな」
ココアは内側から身体を温めてくれるけれど、雄介の笑顔は心を全部包んでぬくもりを分けてくれる。
会って顔を見るだけでも、と杉田は言った。実際にその通りだったのだと、一条は思う。
向けられた背中を哀しく思い返しているよりも、振り向いて見せてくれる笑顔を大切に思い返そう。その笑顔が、どれだけの強がりややせ我慢のうえに築かれたものだったとしても、自分もそれにとことんつき合おう。
「俺を見蕩れさせるくらい、いい男になったらな」
つけ加えられた一条の一言に、雄介は眦を下げながらも、頑張ります!と、拳をかためた。
fin.2000.11.3