嫉 妬

 
 視力がいいのは、警察官としてとても優れた適性を持っていることだと思っていた。正確な射撃の腕。視野が広く、動体視力にも優れているがゆえの、ドライビングテクニック。そして、複数のなかからたったひとりを見分けられる目は被疑者確保に大変役立つ。
 けれど、目がいいということは同時に、見たくもないものまで見えてしまう、ということだ。
 幸いにして、一条には今まで「見たくないもの」などなにもなかった。尊敬する父の死さえ、哀しくはあったが目を背けることなく正面から受け止め、遺志を継ぐ決意をした。
 ところが、である。
 誇らしくさえあったはずの視力のおかげで、一条は「見たくないもの」を見る羽目になった。
 一条にとって、誰より大切な人間が、女性の手からなにかを食べさせてもらっている、というところ。
 五代雄介。それが、大切なひとの名前。彼が鼻の下を伸ばして、やにさがっていた、というのでは断じてない。
 それよりも一条が見たくなかったのは、五代を見上げて嬉しげにしている彼女の笑顔のほうだった。まるで、この世の春を独り占めしているような、真っ直ぐただ五代だけを見詰めて幸せ全開といったようすの表情だった。なんの憂いもなく、ただ全身で彼を好きだと言っている。はたから見てもあからさまな、正直な態度。
 考えるよりさきに、足はブレーキを踏んでいた。
 彼女だけではない。きっと、あの男になら誰だって好意をもたずにいられないだろう。そうして、あんな風に真っ直ぐにその気持ちをぶつけてくる相手は、ほかにだっているだろう。今、いなくても、きっとこれからたくさん現れるに違いない。
 ハンドルを切りながら、一条は無意識のうちに唇をかみしめていた。
 みんなに笑顔でいてほしいから。五代はそれをなにより願っているのだろう。なのに、傍らで笑っているだけのことさえ自分には難しい。へらへら笑っていられる立場ではない。最上級の好意を向けられても、それを手放しで喜んでやることも出来ない。五代に惹かれる気持ちを意識するほどに、自分たちだけの幸福に酔うなんて、とても出来ない状況が重くのしかかってくる。
「しばらく会わなければいい」
 ハンドルを握り締め、一条は低く呟いた。
 会わなければ、熱も冷める。いつか五代も、自分にもっと相応しい相手をみつけるだろう。
 そうなったときの、自分の気持ちからは、敢えて目をそらした。
 
 
 会わなければいいとひとりで決めて、事件現場でも言葉を交わさずに去り、椿医師のところへも付き添わなかった。
 こうして少しずつ距離をあけていけばいい。忘れることは難しいだろうが、考えないようにすることならなんとか出来そうな気がする。なにせ、仕事は山積。事件は後を絶たない。
 そう思った矢先のことだった。すっかり習慣化している長い会議が終わって、土砂降りの雨のなか、重たい身体を引きずってマンションに帰り着くと、見慣れたシャツがドアのところにうずくまっていた。
 五代は、一条が少しずつおこうとしていた距離を、軽々と飛び越えてやってくる。
 雨はまだ激しく降り続いている。さすがに、門前払いをくわせるわけにもいかずに、部屋にあげた。
 五代は一条の態度の硬化に、ひどく傷ついているようすだった。思い詰めたような目で訊いてきた。
「俺、なんか一条さんを怒らせるようなことをしましたか?」
 一条が、なんとも答えられずに黙っていると、重ねて言った。
「俺の気持ち、勘違いなんかじゃありませんから。なにかあるなら、ちゃんと言ってください。俺、それを聴くまで今日は帰りません!!」
 逆効果だったのかも知れない。わけも話さずただ距離をおこうなんて考えても、あっさりと納得する奴じゃなかった。かえって、意固地にさせて、自分への執着を助長させるだけだったのかも。
 一条は、勝手に決めて実行した―――少しずつ距離をおこうとした―――ことの無意味さに思い至って重く息をつく。
「さっきおまえが言ったとおり、俺は疲れてるんだ。悪いが、シャワーを浴びてくるから」
 五代の発散している切羽詰った緊張感に耐えられなくなり、一条はその場を逃げ出すようにシャワールームに飛び込んだ。
 けれど、五代はめげることなく、シャワー室のドアに背をもたせかけて、大きな声で話しかけてくる。
「一条さん、俺ね、これでも一生懸命考えたんですよ。なにかしちゃったのかなぁ、って。でもね。なんっにも、思い当たることがないんですよね」
 冷たいシャワーを頭から浴びながら、一条は口許を自嘲的に歪ませる。
「当たり前だ、おまえはなにも悪くないんだから」
 けれど、その声は小さすぎて、五代の耳には届かない。
「まだ外は、バケツひっくり返したみたいな雨ですねー」
 答えが返らないことも気にしないかのように、五代が言葉を重ねる。
「そうだ。俺ね、俺ってすごいな、って思ったことがあるんですよ。以前、冒険に出かけた熱帯雨林地方でね。気がついたら、俺の身体半分だけ雨降ってるんですよ。こっち側は晴れてるのに、こっちは雨でね。丁度、きれいに半分なんですよ。ね、すごいでしょ」
 素直な心で、自然の脅威に感動している。そんな五代の姿が目に浮かぶようで、一条は話を聞きながらうすく笑っていた。こうして五代の見ていないところでなら、感情をそのまま表すことも出来るのに、そう思うと微笑みはいつしか苦笑に変わってしまう。
「しっかし、すごい雨ですよねー。もう少し趣のある雨ならなぁ。一条さんと外歩くのも、楽しいかも知れないなぁ。こうゆうのは、どうかな。ああ、いい感じ」
 なにやら、ひとりで納得しているようすだ。けれど、なにを納得しているやら、シャワー室にいる一条には解らない。
「俺ね、悪いとこあるなら、ちゃんとなおしますから。もし一条さんが俺を嫌いでも、俺は一条さんが大好きですから。勘違いなんかじゃないし、この気持ちは一条さんにだって変えられませんから!」
 その真摯な言葉に、一条は切なげに目を閉じる。
 冷たいシャワーを浴び続けても、五代の声だけは、聞こえている。
 心は迷子の子供のように、途方に暮れて、前進も後退もままならない。怒っているわけではない。嫌うことなんか、あるわけない。そう、言ってやれるものなら。と、思うそばから期待させて、それからどうしたらいいのか? と、自分を責める言葉が浮かぶ。
 そして、このままでは自分のほうが風邪を引いてしまうと気がつき、ようやく水温を上げる。こんなときにさえ、明日の仕事のことなど考えてしまう自分に嫌気が差すと思いながら。
「いつか、一緒に冒険の旅に出られたらいいですね。一条さんにも、あのすごい雨と、こっち側が晴れって風景を見せてあげたいなぁ」
「ああ、いつか、おまえと見れたらいいな」
 一条は、シャワーの音に紛れて答えたが、当然小さすぎるその声は五代の耳には届いていない。
「顔が見えないほうが、恥ずかしくないことってあるんですね。言っちゃおうかな」
 五代は、一条が聴いていることだけは確信しているようすで、語り続ける。
「あのとき俺ね、俺はここにいる、って思ったんですよ。ああ、俺はここにいるんだな、ってね」
 一条は、なんだか泣きたくなった。
 自分は、結局あの五代のところで働いている彼女に嫉妬するくらい、この男に惹かれているのだ。こんな風に、感動したときの話を自分に語ってくれることが、嬉しくてたまらないほどに、好きだと思っている。
 今更ながらはっきり自覚してしまった思いに焦り、一条はシャワールームから出るに出られなくなってしまった。
 いったい、どんな顔をしたらいいんだろう?
 そんなことを迷ってぐずぐずしているうちに、五代の声が聞こえなくなった。待ちくたびれて、帰ってしまったのだろうか?
 シャワーの水音で、ドアの開け閉めする音などかき消されているかも知れない。
 いつまでも、五代に聞こえるような返事をしてやらなかったから、とうとう諦めてしまったのかも知れない。
 そう考えて、一条は慌てた。
 濡れた髪を雑に拭って、シャツをひっかけ、シャワールームのドアを開けた。
 五代は、いた。
 ドアではなく、近くの壁のほうに背中を預けて。喋り疲れたのか、規則正しい寝息をもらしていた。
 その、足許あたりに、なにか黒いものが置いてある。
 手にとると、それは五代が勝手に自分用だと言って持ち込んだ黒いマグカップだった。それには、白いマジックで落書きがしてあった。 一条さんと相愛傘vばーい雄介←字が間違っているぞ。by一条
 
 
 
 
 一条は、さきほどの五代の意味不明な言葉を思い出した。
―――一条さんと外歩くのも、楽しいかも知れないなぁ。こうゆうのは、どうかな。ああ、いい感じ。
 そう言いながら、これを書いていたのか。
「五代、これは反則じゃないか?」
 いい歳をして、可愛過ぎる。
 どうしようもなく、惹かれている。やはり、距離をおくなんて、出来そうもない。
「俺も、おまえのことが―――」
 最後の一言を口に出す代わりのように一条は、寝ている五代のすぐ近くに膝をついて、そっとその唇に、自分のそれを重ねた。
 

fin.2000.6.21