けたたましいクラクションの音が聞こえて目を開けた。昼間は奴らや奴ららしき者たちの目撃情報に振り回され、疲れ果てて署に戻ってみると深夜までに及ぶ捜査会議が連日のように繰り返されていた。そのため、疲労もピークに達しようかという頃合で、上司から強制的に非番を申し渡された。久し振りの非番の朝だった。
まだ寝足りないような気持ちで目をこすりながら目覚まし時計を見ると、午前9時。早朝、というほどの時間ではないが、寝付いたのが午前4時をまわっていたのだから、もう少しゆっくり眠らせてもらってもばちは当たらないはずである。
しかし、こんどは部屋のインターフォンが続けざまに鳴り響き、そのあと急かすようにドアが大きくノックされるに至っては、無視してこのままもう一眠りするわけにもいかなくなった。
「一条さんっ。俺です。あけてください!!」
誰だろう? と、いぶかるまもなく、外から雄介の声が響いてくる。
一条は、やはりな、と内心で呟きながらかすかに乱れる髪を手櫛で整えながらドアを開けた。
「おはよう、一条さん」
まだ眠そうにしている一条に向かって、雄介は全開の笑顔で挨拶した。
「どうしたんだ?」
寝起きのせいで、その声は不機嫌そうだったが、雄介は得意そうな笑顔でなにか握っている右手を一条の眼前に突き出した。
「今日はね、これです!」
雄介が持っているのは車のキーだった。それを見せられてようやく、自分の目を覚ましたクラクションの音も、雄介がたてたものだったのだと一条は気がついた。
「バイクじゃなくて、車か?」
「はい。レンタカーです。なんと、トヨタのファンカーゴ!!」
そう言って、雄介は嬉しそうにサムズアップした。
「みのりのところの園児にね、毎年、笹を分けてもらってる山があるんですよ」
「笹?」
「そうです。笹です。一条さん、もうすぐ7月7日だって、わかってます?」
一条は、そこまで言われてもなお、首を傾げる。忙しさに取り紛れ、年中行事にも季節の風物詩にも果てしなく遠い暮らしを続けてきたのだった。
「牽牛と織姫が年に一度だけ鵲(かささぎ)の翼を延べて橋とし、織女が橋を渡って相会う日、じゃないですか」
焦れたような雄介の言葉に、一条はようやく合点がいったように頷く。
「そうか、七夕だったな」
「七夕なんです。だからね、一緒に笹竹取りに行きましょう。二人なら、いつもの年よりおっきいのが運べますからね。子供たちもきっと大喜びです」
一条が断るかも知れないなどと、微塵も考えていない期待に満ちた目で雄介がまくしたてる。
「いつだったか、一条さんも公園で一緒に石蹴りしたじゃないですか。あいつらですよ。だから、ね、一条さんも一緒に取ってきてあげたら、きっとすっごく喜ぶと思う」
雄介に用があり近所まで行ったときに、偶然出会って何故だか一緒に遊ぶ羽目になったことがあった。無邪気で雄介にとてもよく懐いている子供たちだった、と一条は思い出す。
「ね、早く着替えて行きましょう。あ、一条さん朝ご飯まだでしたか? 俺、なんか作りますよ。その間にしたくしちゃってください」
雄介は勝手知ったるようすで、一条の部屋にあがりこむ。
一条はその勢いに押され、外出のしたくをすることになった。
白い洗いざらしの綿シャツに、グレイのチノパン。日頃見ることの出来ない一条のラフな格好に、雄介は持っていたコーヒーカップを傾けすぎてこぼしそうになるほど見蕩れてしまった。けれど、一条は雄介もまだ朝が早いせいで、少し寝ぼけているだけなのだろう、と深く考えもせずにちゃんと目を覚ませ、と叱ったりした。
大きな笹竹を持ち帰るには、ファンカーゴは少々不向きではないかと一条は考えていたが、用意周到な雄介はしっかりキャリアも装備した車を選んできていた。
「一条さん疲れてるでしょ。今日は俺が運転しますね」
嬉々として言われ、一条は嫌な予感を覚える。
「いや、いい。おまえだって疲れてるだろう。車の運転なら俺のほうが慣れてる」
雄介を助手席側に追いやって、車のキーを受け取った。
「じゃあ俺、ナビゲーターやりますね」
地図を抱え込んで、雄介は高らかに宣言する。カーナビなどついていないレンタカーである。かろうじてカセットテープとラジオは聴かれるらしいのだが、雄介がよく喋るのでほとんど必要としない。
「その笹を分けてくれるという山は、遠いのか?」
取り敢えず雄介の指し示した方向へ車を走らせながら一条が訊いた。
「そうですね。なるべく遠いほうが嬉しいですよね」
「え?」
「仕事を離れて一条さんとドライブ出来る機会なんて、そうそうありませんからね。出来るだけ遠くまで行けたらいいなぁ、って思ったんです」
「なにを言ってる。子供たちが笹を待ってるのだろう?」
真面目に言い返され、雄介は頭をかく。
「いやぁ、それはそうなんですけど。でも、明日の朝までにあれば大丈夫です」
「朝までなんかつき合えないぞ」
すかさず釘を刺した一条に、雄介は頬をゆるめる。
「じゃあ、夜まで。ね、夜まではつき合ってくださいね!」
雄介のおねだりに、一条は肩を竦めただけでなにも言わなかった。
否定の言葉が返らないのを了解ととって、雄介はますますハイテンションになる。
「『大都会』のあとに『蜃気楼』とか『セシル』って歌もあったんですよねー。知ってましたか?」
「いや」
「じゃあ俺、順番に歌いましょうか? っと、今日はマイクがないなぁ」
「今日は歌はいい」
即座に止められ、雄介は少しだけ考え込む。そして、なにかを思いついたらしく、ぱっと顔を明るくして手を打った。
「それなら、小噺なんかどうです? 俺の技のひとつなんですよ」
「それもいいから。それより、この先はどっちに行くんだ?」
あっさりと断られ、雄介はしかたなく地図を手にして道を示す。
「ここから三つ目の信号を右折で、しばらく道なりですね。それから、ファミリーレストランが左手に見えてきたら、次の信号をこんどは左折。そこから数えて五つ目の脇道を左に折れて、そこを真っ直ぐ走って突き当たったら右です。そのあたりから山道で、カーブがかなりきついんですけど・・・・・・」
「五代!」
「はい?」
「そんなに一気に説明されても覚えられない。ちゃんと、そこまで走ってから言ってくれ」
「えへへ。そうですよね。知ってました。わざとです。ごめんなさい」
雄介は叱られても叱られても懲りずにそんな調子で、はしゃぎっぱなしのドライブになった。一条も、迷惑そうな表情を崩さないのだが、いつもの張り詰めたようすはなりを潜め、すっかり和やかな空気のなかでリラックスしていた。
そうして、雄介がふざけて回り道などしながらも、なんとか大きな笹を分けてもらい、わかば保育園にたどり着いたのは、その日の夕方のことだった。
「お兄ちゃん。あ、一条さんも。すみません、兄が勝手なお願いをしまして」
みのりが駆け寄って、一条に頭を下げる。
「いえ、丁度休みでしたから」
一条は丁寧に答えて、雄介とともに笹を保育園の庭に設置する。
「みのり、短冊持ってきて。一条さんのと俺の分」
「なにを言ってるんだ?」
「まぁまぁ、せっかくですから、一番乗りといきましょうよ」
戸惑う一条を両手で制して、雄介は大きな笹を満足そうに見上げる。
「あのてっぺんあたりに下げましょうね。子供たちの手が届かない一番高いとこがいいな。願い事が必ずかなうように」
「はい、お兄ちゃん。一条さんもどうぞ」
みのりに短冊とサインペンを差し出され、一条はつい断ることも出来ずに受け取ってしまう。
雄介は迷いのない動作で、さらさらとペンを走らせ、あっという間に短冊に文字を書き上げた。
「なにを書いたんだ?」
白紙のままの短冊を手にして、一条が雄介の手許を見ながら訊いた。
雄介は文字側を自分の腹のほうに向けて隠しつつ、にっこりと笑う。
「きっと、一条さんがこれから書こうとしてるのと同じことです」
「そうなのか?」
一条が意外そうな顔で問う。
その表情があまりに意外そうなので、雄介は少々不安そうな顔になる。ご機嫌を伺うような上目遣いで、怖々と訊く。
「一条さん、なんて書こうとしてるんです?」
一条は、もったいぶるような間をとってから、笹のうえのほうを眺めながら答える。
「早く奴らを壊滅させて4号のお守から解放されますように」
「ええっ、そんなぁ」
雄介は、さっきまでのはしゃぎぶりが嘘のようにしょんぼりと肩を落として情けない表情で一条を見た。
「冗談だ」
一条は、めずらしく声をたてて笑いながら手を伸ばす。
「いいから、見せてみろよ」
そう言って、強引に雄介の書いた短冊を奪い取る。
雄介が書いた短冊を、一条はなんとも照れくさそうな、途方に暮れているような、複雑な表情で読んだ。
『一生、大切なひとの笑顔を守り通せますように!!』
そして雄介がその短冊を、園児の手が届かないてっぺんに下げたいと言った理由が一条にもわかった。
「大切なひと」という文字の脇にはとてもとても小さく《一条さんv》というルビがふってあったのだった。
fin.2000.7.6